戦いは終わった。
立ち読み席
坂の上の雲
カフェー・ブラウズ
CLICK! ”お立ち読み”
◆ 坂の上の雲(一) 司馬遼太郎著 文春文庫
坂の上の雲(ニ) 司馬遼太郎 文春文庫
坂の上の雲(三) 司馬遼太郎著 文春文庫
坂の上の雲(四) 司馬遼太郎著 文春文庫
坂の上の雲(五) 司馬遼太郎著 文春文庫
坂の上の雲(六) 司馬遼太郎著 文春文庫
坂の上の雲(七) 司馬遼太郎著 文春文庫
(奉天会戦・・・)
坂の上の雲(八) 司馬遼太郎著 文春文庫(日本海海戦・・)
|▲:掲示板へ|▲:ご紹介本へ|▲トップへ|■ホームへ|

browsesakanou
(お立ち読み):坂の上の雲(一) 司馬遼太郎著
Cafe
Browse 文春文庫
<目次>
春や昔・・・・・・7P 真之・・・・・・77P 騎兵・・・・・・・132P
七変人・・・・・・162P 海軍兵学校・・・・・・206P 馬・・・・・・・257P
ほととぎす・・・・・・286P 軍艦・・・・・・330P

春や昔
まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。
その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。
伊予の首邑(しゅゆう)は松山。
城は,松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜(かま)を伏
せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間(このま)がくれに高さ十丈の石
垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四
国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓(やぐら)も、そのように厳
(いかつ)くはみえない。
この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、とも
かくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。
俳句、短歌といった日本のふるい短歌型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規(
まさおかしき)である。子規は明治28年、この故郷の町に帰り、
春や昔十五万石の城下かな
という句をつくった。多少あでやかすぎるところが難かもしれないが、子規は、そのあとからつ
づいた石川啄木(・・たくぼく)のようには、その故郷に対し複雑な屈折をもたず、伊予松山の
人情や風景ののびやかさをのびやかなままにうたいあげている点、東北と南下道の伊予と
の風土の違いといえるかもしれない。
「信(しん)さん」
といわれた秋山信三郎好古(・・よしふる)は、この町のお徒士(かち)の子にうまれた。お徒士
は足軽より一階級上だが、上士とはいえない。秋山家は代々十石そこそこを家禄として殿様
からしている。信さんは安政六年生まれの七ヶ月だが、成人して大男になったところをみれば、
早生児というのはその後の成長にはさしつかえないものかもしれない。
信さんが十歳になった年の春、藩も秋山家もひっくりかえってしまうという事態がおこった。
明治維新である。
「土佐の兵隊が町にくる」
ということで、藩も藩士も町人もおびえきった。この藩の殿様は、久松家(ひさまつけ)である。
徳川家康の異母兄弟がその家祖になっており、三百諸侯のなかでは格別な待遇をうけた。
幕末、長州征伐では幕府の命をうけて海を渡り、長州領内で戦った。要するにこの時勢での
区分けでは、佐幕派であった。
おなじ四国でも、土佐は官軍である。土佐藩は、松山藩を占領べく北上したが、その人数
はわずか二百人たらずであった。
「朝廷に降伏せよ。十五万両の償金(つぐないきん)を朝廷にさしだせ」
と、土佐人の若い隊長が要求し、このため藩はさわぎになり、結局はそれに従うことになった。
城も市街も領土も、一時は土佐藩が保護領としてあずかるかたちになった。城下の役所、
寺などには、
「土州下陣(・・げじん)
というはり紙が出された。信さんは十歳の子供ながら、この光景が終生忘れられぬもの
になった。
「あれを思うと、こんにちでも腹が立つ」
と、かれは後年、フランスから故郷に出した手紙のなかで洩らしている。
|▲掲示板へ|▲ご紹介本へ|▲トップへ|■:ホームへ|

saknouekumo2
(立ち読み):坂の上の雲(二) 司馬遼太郎著
文春文庫
目次
日清戦争・・・・・7P 根岸・・・・・119P 威海衛・・・・・143P
須磨の灯・・・・・169P 渡米・・・・・200P 米西戦争・・・・・241P
子規庵・・・・・294P 列強・・・・・329P 関連地図・・・・・409P

日清戦争
そのような時間が真之(さねゆき)の上にながれていうとき、東京にいる子規の
境涯はかならずしもあかるくはない。
病気の進行は、ややとまった。ところがこのころ、子規は、あれだけかれが気に
入って
sakanouekumo3

(立ち読み):坂の上の雲(三) 司馬遼太郎著 文春文庫
目次
十七夜・・・・・・7p 権兵衛のこと・・・・・39P 外交・・・・・66P
風雲・・・・・・・110P 開戦へ・・・・・161P 砲火・・・・・190P
旅順口・・・・・228P 陸軍・・・・・279P マカロフ・・・・・324P
関連地図・・・・・359P

十七夜
真之(さねゆき)が外国勤務を解かれて帰ってきたのは、明治三十三年秋である。
帰国後、常備艦隊参謀に補(ほ)せられ、翌三十四年に、海軍少佐にすすんだ。
「淳はあれで、ようまあ、海軍が使うてくださることよ」と、このころ母親のお貞が
よくいった。真之は横須賀にいる。母親にたびたび写真を送ってくる。それをな
がめてのお貞のつぶやきである。
どの写真も、行儀がわるい。イヌもたれを片腕で抱きこむようにして撮られてい
たり、略綬(りゃくじゅ)
をつけて正装していながらちゃんと立ってうつさず、草むらにあぐらをかいてボンヤリ土をなが
めていたりする。
このころかれはいよいよ海軍戦術の研究に熱中していた。熱心さも度なずれたもので、かれ
自身、自分の熱心さにやや照れるところでもあったのか、「一生の大道楽」と、ひとにはいって
いた。
軍事も官僚でる以上、そういうことをしなくても、海軍の日々の任務というものはつとまってゆ
けるし、ちゃんと昇進もできる。そういう意味から研究は日常業務のそとの事であり、道楽
といえばいえた。
ついでながらこの当時、日本海軍にあっては、戦術家と自他ともにゆるされている人物は、
おどろくほどすくなかった。真之の先輩では島村速雄と山屋他人の二人しかいないとされた。
むろん、海軍戦術についての日本人の著作物は、山屋他人の書いた簡単なもの以外は
一冊もない。
自然、真之はすべてを(べつに命ぜられたわけではないが)自分でやらねばならず、それも
ただ一人で手作りでつくりあげてゆかなければならなかった。
かれは、世界じゅうの兵書という兵書を読もうとした、多くの陸軍兵書であった。かれは渡米
時代からそうであったが、戦術に陸と海のちがいはないという明確な態度をとっていた。
中国の兵書である。「孫子」「呉子」はくりかえして読み、欧米のものは戦史、戦術書をふくめ、
ことごとくよんだ。そのなかでもブルーメの「戦略論」とマカロフの「戦略論」をひとにも推薦した。
(最初の7〜8P)
時間かせぎが、クロパトキン戦略の基本方針であった。日本軍に数倍する大兵力の集結を
待ち、最後の決戦を予定するが、それまでの戦闘はできるだけ兵力の使い減らしを避け、日本
軍に対して適当に消耗をしいつつ、何段階かにわけて後退してゆく。
その「最終決戦」の線はハルビン(ハルピン)におく、とクロパトキンはいう。
(砲火 195P〜中略)
ちなみに、すぐれた戦略戦術というものはいわば算術程度のもので、素人が十分に理解で
きるような簡明さをもっている。(中略)太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術
思想は戦術の基本である算術性をお失い、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にも
たせた。戦略的基盤や経済的基盤のうらづけのない。”必勝の信念”の鼓吹や、”神州不滅”
の思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という、信じがたいほどの神秘哲学が、
軍服を着た戦争指導者たちの基本思想のようになってしまっていた。(砲火〜最初の2P)
|↑:掲示板へ|↑:ご紹介本へ|↑:トップへ|:ホームへ|
sakanouekumo4
(立ち読み):坂の上の雲(四) 司馬遼太郎著 文春文庫
もくじ
黄塵・・・・・7P 遼陽・・・・・・100P 旅順・・・・・180P
沙河・・・・・230 旅順総攻撃・・・・308P 関連地図・・・・・409P

黄塵
太陽は日ましにあつくなっている。陸軍は満州に上陸して所定のごとく展開
したものの、その後の戦闘はかならずしもうまくいっていない。
好古(よしふる)が属する第二軍(奥軍)は、敵の本拠のある得利寺停車場をめ
ざして兵陸地帯を北進しつつあるが、戦闘はつねに惨烈をきわめ、その勝利は
つねに紙一重の差というきわどさの連続であった。
これにつき、東京の大本営が、「第二軍はいったい何をしているのか」と、やき
もきしたのは、第二軍司令部そのものが戦闘の激烈さに逆上(あが)ってしまった
のか、刻々の戦闘状況をすこしも報告せず、「いまや戦闘たけなわなり」という、
そのこと一点ばりの電報をうちつづけているのみで、内容はすこしも報告しない。
大本営としては、
・・・・・ひどく敗けているのではないか。
と、一時、憂色がみなぎった。
(参謀連中はあわてるばかりで、だえめだ) と、児玉源太郎はおもい、いっそこうなれば、
「満州軍」という高等司令部をつくってそれを現地の各軍の上に置くべきではないかとおもった。
要するに参謀総長である大山巌(・・いわお)と、それに次長である自分が東京から現地へ移動
してしまおうというものであった。
もとも児玉らの手落ちもあった。この戦闘でどのくらいの弾薬が必要かという計算が不確か
で、その輸送法も確立させていなっかた。このため第二軍はつねに補給になやんだ。
兵器弾薬も、ロシア軍にそれにくらべてよほど粗悪であることがっわかった。小銃はいいとし
ても、大砲に性能がわるかった。その射程と発射速度の点で、ロシア砲よりも三割方能力がひ
くかったであろう。そのうえ、砲弾に不発弾が多かった。(最初の2P)
|↑:掲示板へ|↑:ご紹介本へ|↑:トップへ|⇔:ホームへ|
sakannouekumo5
(立ち読み):坂の上の雲(五) 司馬遼太郎著 文春文庫
もくじ
ニ○三高地・・・・・7P 海濤・・・・・・152P
水師営・・・・・・・・241P 黒溝台・・・・・339P 関連地図・・・・・411P

二○三高地
が果然というべきだろう。
旅順の乃木軍司令部から児玉のもとに入ってくる報告は、ことごとく敗報であった。
もっとも、
・・・・・・敗けた。
とは、乃木の報告にいは書いていない。鋭意攻撃中ナルモ敵頑強ナリ、ワガ軍ノ
士気大イニ熾ンナリ、といったたぐいの官僚的粉飾的文章である。
乃木は詩人としては第一流の才能があり、散文家としても下手な方ではなかった。
しかし、戦闘に関する報告文の冷厳さには欠けていた。戦闘報告文の冷厳
さには欠けていた。戦闘報告に文飾は必要なく、むしろ上級司令部をして判断をあやまらせ
る害があった。
ついでながら、日露戦争後は、報告文の文飾性というのは、日本陸軍の痼癖(こへき)のように
なったが、これは乃木に癖による影響なのかどうか、どうであろう。上級司令部に対する戦闘
報告文は、化学実験の進行状態を報せるような客観性が必要であるのに、日露戦争後の日
陸軍にあっては詩人の用いるような最大級の形容詞をつかいたがった。もっとも日露戦争中
の各軍司令部の報告文は、乃木のそれのようではなかった。児玉が乃木を叱ったことがある
ように、乃木のもとから来る報告では、客観的戦況がつかみがたかった。
「某砲台を占領した」
というような文句が見当たらないことをみると要するにろロシア軍にやりこめられていること
はたしかであった。児玉のスタッフは、・・・・・・敗けておりますな。
と、解読した。損害に様子をみると、負けて敗けているどころか、日本軍の大崩壊をまねくか
もしれないほどに手ひどい敗北であった、すでに初日の攻撃だけで攻撃再興がむずかしくな
るほどの大量の生命が、長岡外史流にいえば、「無益」に天に昇ったのである。
児玉は、急に立ち上がった。側の者がおどろき、問いかけた。
「どこへいらっしゃいます」 「小便にゆく」
児玉は帽子をかぶて歩き出したが、方角が厩のほうではない。
児玉は戸外に出た。(最初の2P)
|↑:掲示板へ|↑:ご紹介本へ|↑:トップへ|⇔:ホームへ|
sakanouenokumo6
(立ち読み):坂の上の雲(六) 司馬遼太郎著 文春文庫
目次
黒溝台(承前)・・・・・7P 黄色い煙突・・・・・81P 大諜報・・・・・131P
乃木軍の北進・・・・・242P 鎮海湾・・・・・・・・・277P 印度洋・・・・・302P
奉天へ・・・・・・・・・・・331P 関連地図・・・・・・・373P

黒溝台(承前)
ロシア軍のグリッペンベルグ作戦が、主将であるクロパトキン非協力的
態度のなかで発動さしたとき、日本軍層司令部は、それ以上に愚劣な状態の
なかにいた。
「・・・敵の前哨活動が活発である。なにか大作戦をおこす予兆かと思われる」
という重大な警報が、秋山好古(あきやまよしふる)のほうから煙台の総司令部へ
しばしば報じられたが、総司令部のほうでは、・・・・・また例によって騎兵報告か。
という程度にみて黙殺し、あくまでも、「ロシア軍は冬季に大作戦をおこさない」
という、根拠皆無の固定観念にとらわれつづけていたのである。そのことはすでに触れた。
日本軍の戦史の表現をかりると、「黒溝台(こつこうだい)ノ一戦ハ不慮ニ起リ、カツ我ガ弱点ヲ
衝カル」とあるが、ロシアがこれだけの大作戦をおこそうとしているのを、「不慮ニ起リ」 と
いう一言で済まされないであろう。奇襲ならばともかく、堂々たる大作戦をロシア軍が発起
しつつある状態は、当然、その予兆がふんだんにある。斥候もしくは戦場諜報によって十分
偵知ができるわけであり、その情報はふんだんに総司令部の机の上に積みあげられてい
た。そのなかには、ヨーロッパ駐在の日本武官からの諜報まで東京経由でこの煙台の総
司令部に来ていたのである。「不慮」ではなかった。
ただ、 「この極寒期に、露助がそんな大仕事はすまい」 という、その一観念でもって総
司令部参謀がたかをくくっていただけであり、その信じがたいほどの精神の硬化は、おそ
らく疲労によるものであったであろう。そのことも、すでに述べた。
さらにこの囚われた頭脳は、・・・・・・・・どうやらロシア軍は動き出したらしい。
とわかった段階でも、なお、「威力偵察だろう」 と、児玉の懐ろ刀といわれた松川敏胤
(・としたね)大佐でさえ、なお、この新現実に素直な目をひらこうとはしなかった。
(黒溝台最初の7P〜8P)
|↑:掲示板へ|↑:ご紹介本へ:ご紹介本へ|↑:トップへ|⇔:ホームへ|
sakanouekumo7
(立ち読み):坂の上の雲(七) 司馬遼太郎著 文春文庫

目次
会戦・・・・・7P 退却・・・・・133P 東へ・・・・・237P
艦影・・・・・276P 宮古島・・・324P 関連地図・・・・363

会戦
きわめて偶然ながら、奉天のクロパトキンの総司令部にあっても、この
時期、一大攻勢が計画されていた。
この一月末、ロシア軍は日本軍左翼である黒溝台付近を襲って秋山好古
(よしふる)の支援をくるしめたが、結局は日本側がいそぎ臨時立見軍を編成
することによってかろうじて押しかえした。
クロパトキンはこれについて不必要に狼狽し、退却命令を出した。ロシア側
はなんの得るところもなく奉天へ退却したが、しかしこの大作戦が、みずからの自重で成果
を得なかったことを後悔する声が、若い参謀たちのあいだで高かった。「惜しかった」と、若い
大尉参謀でさえいった。
「もう一押しすれば日本軍左翼は大崩壊していたかもしれない」と、日本軍の松川敏胤(・・としたね)
にあたる作戦部長エウエルト少将もいった。
エウエルトは退却後も執拗に日本軍のうごきについての情報をあつめていたが、その結果、
黒溝台会戦後、日本軍はしきりに軍隊移動をおこなっていることを知った。要するに日本軍は、
ロシア軍に不意に襲撃された左翼を補強すべくいそぎ兵力を左翼に移したが、しかし会戦後、
その兵力はどうやらもとの位置にもどしつつあるようであった。
「ということは、日本軍はあれほど手ひどくその左翼を攻撃されていながら、まだわが意図を
察していないということになる」
と、エウエルト少将は考えた。要するに日本軍はあの黒溝台戦を単なる威力偵察的なもの
だとおもい、ロシア側による本格的な大攻勢であったとはおもっていない。とエウエルトは見た
のである。エウエルトの推察は正しかった。松川敏胤は、「黒溝台戦というのは、お客(ロシア
側)が、こちらの様子をちょっと見にきたのさ」
と、戦後もいっていたし、その旨のことをのちに秋山好古にも言い、「敵の本格的攻勢だ」と
言いつづけてきた好古を怒らせたということは、すでにのべた。
「だから攻勢を再興する必要がある」というのが、エウエルトの意見であった。それも機を失して
はならない。いまの日本軍が戦線整頓のために軍隊移動をしきりにおこなっているというこの
時機に、これに乗じて前回以上の規模による大攻勢をかえれば日本軍は大いに混乱するに
ちがいない。一挙に勝ちを満州において決するのはいまを措いてない、とエウエルトはおもった。
(会戦 最初の7P〜8P)
|↑:掲示板へ|↑:ご紹介本へ|↑:トップへ|⇔:ホームへ|
sakanouenokumo8
題名:坂の上の雲(八) 司馬遼太郎著 文春文庫
目次
敵艦見ゆ・・・・・7P 抜錨・・・・・25P 沖ノ島・・・・・55P
運命の海・・・・・55P 砲火指揮・・・・・149P 死闘・・・・・・161P
鬱陵島・・・・・・211P ネボガトフ・・・・・230P 雨の坂・・・・・270P
あとがき集・・・・・・307P 解説・島田謹二・・・・・375P
解説 島田謹二・・・・・373P

敵艦見ゆ
この時期の東郷艦隊の位置にふれておく。
東郷の連合艦隊は、三つの艦隊に区分されていた。
第一艦隊は東郷がこれを直率し、そのうち第一戦隊が主力部隊であった。
三笠以下四隻の戦艦のほかに、装甲巡洋艦春日、日進それに通報艦一隻が
加わっている。この二隻の装甲巡洋艦はかってこの艦隊が戦艦八島、初瀬を
触雷でうしなったために戦艦のかわりのようなかたちで主力部隊に参加して
いた。この場合、春日と日進が問題であった。両艦は装甲巡洋艦でありながら戦艦の代用を
させられていた。ただしこの両艦には戦艦に準ずるだけの攻防力があるとみとめられていた
ので、いわば無理をおして第一艦隊第一戦隊という戦術単位に組み込まれている。
このためかれらは決戦場で戦艦についてゆくためにずいぶん苦労をした。
この第一戦隊は、朝鮮南東岸である加徳水道に艦影をうかべていた。ほかにこの
加徳水道での待機組には、第二艦隊の主力もまじっている。第二艦隊司令長官が
上村彦之丞(かみむらひこのじょう)中将であることはしばしばふれている。
その主力は第二戦隊であった。旗艦出雲(いずも)以下六隻の装甲巡洋艦と一隻の通報艦
でなりたっている。ほかに第二艦隊の第四戦隊も加徳水道にいた。第四戦隊は浪速(な
にわ)を旗艦とする四隻の巡洋艦戦隊である。
この加徳水道の奥に鎮海湾がある。そこの旗艦三笠だけが停泊していた。
陸上との連絡の便のためであり、もし出勤するとすれば最後尾から走って先頭に立つと
いう運動もせねばならぬであろう。(最初の2ページ)

満州における諸会戦のあとを見てみても、その敗因は日本軍の強さというよりも、ロシア
軍の指揮系統の混乱とか、高級指揮官同士の相克とか、そのようなことがむしろ敗北を
みずから招くようなことになっている。
戦後(日露戦)の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを
知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するように
なり、その部分において民族的に痴呆j化した。日露戦争を境として日本人の国民的
理性が大きく後退して、競躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂い出して太平洋
戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか40年のちのことである。
敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史から
みれば、戦争の勝敗などというものはまことに不思議なものである。
|▲掲示板へ|▲ご紹介本へ|▲トップへ|■ホームへ|
|