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吾輩も猫である
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福翁自伝 福沢諭吉著 富田正文校訂 岩波書店 門閥制度 こんな事を思えば、父の生涯、45年そのその間、封建制度に束縛せられて何事 は親の敵 も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また、初生児の行く末 これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は 毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあり ます。私のために門閥制度は親に敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問すべき筈である。ところが 誰も世話の為人(シテ)がない。私に兄だからといって兄弟の長僅か十一しか違わぬので、その その間はみな女の子、母もたった一人で、下女下男(げじょげなん)を置くということの出来る家で はなし、母が一人で飯を焚いたりお采(さい)をこしらえたりして五人の子供の世話をしなければ ならぬから、なかなか教育の世話などは存じ掛けもない。いやばヤリ放(はな)しである。藩に風で 幼少の時から論語を読むとか大学を読むくらいのことは遣らぬことはないけれども、奨励する者 とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好きな子供はない。私一人(ひとり)が嫌いという こともなかろう。天下の子供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから、休んでばかりいて何も しない。手習いもしなめれば本も読まない。 ( 幼少の時 14ページから) /////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 乞食の虱 ここに誠に汚い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、 をとる 馬鹿のような狂者(きちがい)のような至極難渋者で、自分の名か、人の 付けたのか、チエ、チエといって、毎日市中を貰ってまわる。ところが此奴(こいつ)が汚いとも 臭いとも言いようのない女で、着物はボロボロ、髪はボウボウ、その髪に虱(しらみ)がウヤウヤ しているのが見える。スルト母が毎度のことで天気の好い日などには「おチエ此方に這いって来い」 と言って、表の庭に呼び込んで土間の草に上に座らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱 狩(しらみがり)を始めて、私は加勢に呼び出される。拾うように取れる虱を取って庭石の上に置き、 マサカ爪で潰(つぶ)すことは出来ぬから、私を側(そば)に置いて「この石の上のを石で潰せ」と 申して、私は小さい手ごろな石もって構えている。 母が一疋取って台石の上に置くと、私はコツリと打ち潰すという役目で、まずその時に取れるだけ とってしまい、ソレカラ母も私も着物を払うて糠(ぬか)で手を洗うて、乞食に虱を取らせてくれた 褒美に飯をやるという極りで、これは母の楽しみでしたろうが、私は汚くて汚くて堪らぬ。 今思い出して胸が悪いようです。 (幼少の時、21P〜22P) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑:投稿掲示板へ|↑:ご紹介本へ|↑:トップへ|H:ホームへ|岩波書店|
福沢諭吉 快男子の生涯 川村真二著 日経ビジネス文庫
第一章 亡父への哀悼に生きる 福沢諭吉は、明治三十四(1901)年二月、数え年で六八年の生涯を終えた。 前半生は江戸幕末の封建制度の世に三四年、後半生の三四年は明治の文明開化の世に 生きた。まさに「一身にして二生を生き」、一管の筆と三寸の舌をもって、大変革の時代の波にもまれ る国民と揺籃期の明治国家を叱咤激励した。 * 生涯、野(や)にあって、自由、独立、自尊、欧米列強の侵略を許さない文明国日本の建設、文明 の精神、実学に必要を説き、慶応義塾を開き、明治、大正、昭和に活躍する多くの俊英を世に 送った。 民権、すなわち国民の参政権の確立と同時に、国家、すなわち国家権力の確立、さらにその思想 は、常に国民と国家の独立を思う熱情に溢れていた。 諭吉は女性に尊ぶべきを説き、男尊女卑を打破する先覚者でもあった。 権力に与(くみ)せず、権利に屈せず、現実を見極め、忍ぶときは忍び、事態の推移を見守って 立ち、決して玉砕しなかった。 * 諭吉は常に挑戦し改革する魂を持っていた。 五年も死に物狂いでやった蘭学(狭義ではオランダ語)が役にたたないと知ると、蘭学を捨てて ただちに英学に志した。 勇を奮って咸臨丸の乗船に志願し、太平洋を横断、アメリカに渡った。 一年の後にはヨーロッパ、さらに四年後、アメリカに再渡航した。 西欧文明の高さに驚嘆し、その摂取のため猛烈に勉強した。 幕末、三三歳の諭吉が書いた西洋文物の案内書『西洋事情』はその結晶であった。西欧を 知らなかった当時の日本人とってそれは衝撃的な書物であった。当時の志士、日本の将来 を考える人々のすべてが読んだ。 倒幕派の英傑西郷隆盛も、家康の再来とうたわれた幕府最後の将軍徳川慶喜も読んだ。 慶喜の「大政奉還」の意思決定、その後の明治新政府の近代化政策に様々な、かつ大きな 影響を与えた著述だった。 『学問のす々め』『文明論之概略』を著し、『時事新報』を発行、諭吉に名声はますます高く、 その言辞は日本の指針となった。 ただし、諭吉は単なる学者、教育者、啓蒙家ではなく、英気みなぎる男子であった。 明朗快活、決してくじけず、ものに拘泥せず。怠情なところがなかった。人情の機微に通じ、 義侠心に富、多くの人のために尽力した。その生涯のみごとさは、自らと人をよく生かした ことである。 晩年、諭吉は言っている。 ・・・・・・自分自身の過ぎ越し方を振り返ったとき、残念だ、無念だったことは少しもない。 愉快なことばかりである。 *** 幼い頃、福沢諭吉と接し、昭和初期に慶応義塾の塾長を務め、後、今上(きんじょう)天皇の教育 係りとなった小泉信三は、ある日、不治の病にある姉・千を見舞った。その折に姉が語った言葉が ある。「我々は長い年月の間に姉弟で福沢論などしたことがなかったが、この時、ふと思いついて 姉の福沢観を聞いてみる気になった。『福沢先生のエライところはどこだったろう』と私は言った。 『それは愛よ』 姉はすぐ答え、少し付け加えて、福沢先生がいかに人を愛する人であったかを 言った。この答えは私にとりまったく意外ではなかったが、ちょっと虚を衝かれたような感もあった。 福沢の偉大といえば、我々はどうしても日本の近代化に対するその貢献・・・『西洋事情』『学問の す々め』『文明論之概略』等の著述というようなこと・・・をまず考える。 この人に真の偉大さは人を愛する人であったことにあるということは、その時私には思い及ばなか かったのである。・・・・・・・・・・・・・・・(第一章 9ページから12ぺーじ) ↑:投稿掲示板へ|↑:ご紹介本へ|↑:トップへ|H:ホームへ|日本経済新聞社|
福澤諭吉の葬儀 遺族の人々と長老塾員との間で相談の結果、葬式は二月八日午後一時、福澤家の菩提寺である 麻布山善福寺で挙行し、それから諭吉が生前買い求めておいた麻布大崎村本願寺内の墓地に埋葬 すること、葬儀は諭吉生前の素志に基づきすべて質素を旨とし、香奠はもちろん造花生花その他いっさ いの供物は謝絶することとし、棺前に銘旗、墓標および樒(しきみ)だけ添えることとし、一太郎、捨次郎 の両人名義で死亡および葬儀の広告をし、同時にそれぞれ通知を発し、また小幡篤次郎、鎌田栄吉 の名義で、慶応義塾の同窓者に対し、故人の遺志を体して香華(こうげ)その他いっさいの供物はしない ことにしたい旨を広告し、小幡は塾員を代表して『時事新報』に弔意を掲載した。 *** 諭吉の葬儀は、慶応義塾の塾葬にしようとの説もあったが、一家の私事のために多少でも塾の資金を 費やすことは故人の志でなく、また遺族も承知する筈もないので、いっさいの費用は福澤家が引き受ける こととし、義塾側はだだその事務を取り扱うだけのことにした。 葬儀委員四名のうち、中上川彦次郎、朝吹英二の両名は親族側を代表し、小幡篤次郎、鎌田栄吉 の二人は義塾側を代表して、四名協議の上で事を取り運ぶことにした。 葬儀の当日、塾生の中から体格屈強で身長の揃った者、三十名を選抜して先生の棺を担うことに したい、これはわれわれ在塾生一同の切願であるとの申し出があった。 葬儀委員に人々も学生の切なる希望に動かされが、何分にも無経験な学生に棺を担わせて、万一の 事故でも起こっては相済まぬからとこれを謝絶した。すると学生たちは、棺と同じ大きさと重さの模型 を作ってその担い方を練習して万全を期するから是非許可して頂きたいと懇願してやまなかった。 その学生たちの折衝に当たった日原昌造は、学生達の熱意に感動して何か方法はないかと計ったが もっと早くからわかっていれば、柩車を作って学生たちにその綱を引かせるということも一つの方法 であるが、今となっては柩車を作る時日もないから、遺憾ながら謝絶するより外ないということになり、 日原は学生に向かって演説して「君たちに担ってもらいたいものは別にある。それは先生の遺された 慶応義塾である。今後慶応義塾は諸君の双肩に担ってもらわねばならぬ」といって、やっと納得させたと いう。・・・・ *** 二月八日は、前日の末明から降り続き地上に真白に積もった雪も、朝あけとともに一天からりと 晴れ渡り、定刻までにほぼ乾いて、塵埃もおこらず却って好都合であった。 午後零時四十分、普通部生徒七百余名を先頭とし、幼稚舎生徒二百余名がこれに続き、葬送曲 を吹奏するラッパに歩調を整え、次は商業学校生徒三百余名、大学部学生三百五十名、いずれも 四列縦隊を組、これにつづいて大学部学生九名が交代で竹筒に挿んだ尺余の樒三対を持ち、導師 麻布超海(ちょうかい)以下僧侶五名いずれも黒染の法衣に徒歩で加わり、続いて香炉を捧持した 石川幹明、位牌を捧げた日原昌造、故福澤諭吉之柩と大書した銘旗を大学部学生がこれを捧持(ほうじ) し、次は諭吉の遺骸を納めた檜白木造、長さ七尺三寸・幅三尺一寸の簾輿、その蓮台の長さは四 間一尺、白丁五十人でこれを担ぎ、輿の周囲には小幡篤次郎、荘田平五郎以下塾員の長老がつきそい、 喪主福澤一太郎・捨次郎以下親戚の人々いずれもフロックコートを着用し、行列中一基の生花も造花も なく、また高声で談話する者も喫煙する者もなかったのは、沿道の人々を感動せしめたという。 *** 麻布山善福寺に到着したのは午後二時ごろで、葬儀焼香の終わったのは午後三時ごろ。 それか霊柩は埋葬地なる大崎村本願寺の墓地に向かった。幼稚舎生徒は善福寺かぎりで引き取る ことにしたが、その生徒たちは白金台町に達するや道の両側に整列し、哀悼のラッパとともに挙手 注目、脱帽または捧銃(ささげつつ)の敬礼をする中を、霊柩は粛々と通過し、本願寺の墓地に 埋葬の儀を完了したのは午後五時ごろであった。 埋葬の墓の上には、「福澤諭吉之墓」と記した大きな木碑が建てられたが、後に建立された石碑 には「大観院独立自尊居士」という戒名が刻まれた。これは小幡篤次郎の撰んだもので。明治三十一年 第一回の発病のとき、殆ど絶望と見られたので、小幡が仏教の風習では戒名をつけるようであるが、 先生の思想性行を端的に表すには「独立自尊」の四字が最も適当であると思うから、この四字を 法名として撰んだと言ったという。 世間では『修身要領』の標語が撰ばれたように考える者もあるが、『修身要領』は明治三十三年に できたもので、小幡の撰んだ戒名は三十一年のことである。そのときには幸いにしてその戒名が 役に立たなかったが、遂にそれが実用に使われることとなったのは遺憾に堪えないと歎いたもの である。 二月六日に宮中から蔡粢(さいし)料一千円の下腸があり、翌七日嗣子一太郎が宮内庁まで 出頭して御礼言上を依頼して帰った。その日、衆議院は院議をもって哀悼の決議をし、その旨を 遺族に伝えて来た。 衆議院は夙(つと)に開国の説を唱え力を教育に致したる福澤諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の 意を表す。 葬儀当日の参列者は凡そ一万五千人といわれ、朝野の名士はもとより、全国各地から個人として また三田会の代表と^して参列した塾員も多かった。・・・・・ 『考証 福澤諭吉 下』 富田正文著 岩波書店 ISBN4-00-000839-0 より。
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