最後のヴァンパイア
夜が明けようとしていた。
彼方に見える山々の上空が明るくなっていく。まもなく日が昇るだろう。
──さあ、クライマックスの時間だ。
そう心で呟くと私は飛び回るのをやめ、巨大な蝙蝠の姿から人間の形へと姿を戻した。変
身と同時に地面から立ち昇った黒煙をかき分け、私は姿を現す。真っ赤な血があちこち付着
している白いシャツ、その上の黒いタキシード、そして風に翻る黒いマント。さらに、耳まで裂
けた口からこぼれる尖った牙、真っ赤に充血した眼は、見る者を総毛立たせずにはおかな
いだろう。私は顔をさらに歪ませ、まがまがしいおのれの顔をあらわにすると、観客席に向
かって野獣のように吠えた。南の席の前で、北の席の前で、あるいは東、そして西の席の前
で、身軽に体を移動させながら、私は吠える。果たして、客席のあちこちからはいくつもの悲
鳴が上がった。
半円球の大きな透明ドームの中が私の舞台。そのドームをぐるりと取り囲み、少しずつせ
り上がっていくベンチ形式の観客席は、今日は久し振りに満席だった。私はもう一度吠え
た。舞台と客席の間には透明の壁があるのにもかかわらず、椅子に座る客たちは、それだ
けで体をのけぞらせ、逃げの姿勢をとっている。どの顔も恐怖で血の気を失っていた。
背後で祈りの声がした。私はゆっくりと振り返った。老若二人の神父が片手に大きな十字
架を突き出すように持ち、もう片手で胸の前で十字を切りながら近付いて来る。ここ小一時
間ばかりの私との闘争で満身創痍の状態だが、先程までの弱々しさは消え、その顔は自信
に満ち溢れていた。
年老いた方の神父が私に告げた。
「策にはまったな吸血鬼よ、我々がなぜ逃げもせずに闘争を長引かせていたと思う。さあ、
東の空を見るがいい」
わたしはそこで初めて、夜が終りを告げ周囲が明るくなっているのに気付いたような顔付き
を作り、うろたえた素振りでまさに今、日が昇ろうとする東の空を見た。
私はこの世のものとも思えぬ恐怖の声で絶叫した。ドームの頂点はすでに日があたり、光
の帯はどんどん下降して来る。間もなくこの舞台の上も、太陽光線で満たされるだろう。
私は手で顔を隠して逃げ惑う。あちらの陰、あるいはこちらの物陰へと光を避けながら移
動する。執拗に追いかけてくる神父たち。やがて私は舞台中央の私がいつも眠る棺の所ま
で追い詰められた。ちょうどそこは、ドームの壁にかかるこの野外劇場の大きな看板が影を
落とす場所だった。もちろん、舞台の上がすべて日の光で満たされても、ここだけがしばらく
は日陰になるように計算されてかかっているのだ。
私は最後に一声唸ると、左手を棺のへりにかけて中にもぐりこんだ。右手で蓋を閉めようと
する。しかし追いかけてきた若い神父がそれを阻んだ。棺のヘリの上にまだ置かれている私
の左手を、上から踏みつけたのだ。そして中の私めがけて聖水を振り掛ける。どっと客席か
ら歓声が上がった。彼らはきっと、棺の中で苦悶している私を想像して興奮しているのに違
いない。
しかし事実はまったく違う。客席からは見えないが、私は棺の中に用意してあった、太陽光
線を避けるための大きな黒い布の下に体をもぐりこませている。だから露出しているのは客
席から見える手首だけ。若い神父が踏みつけて自由にならないその手首と指先を、私はさも
苦しがっているかのようにじたばたと動かし、大げさに悲鳴をあげてこの舞台を盛り上げて
いるだけだ。付け加えれば、神父役の二人がこの棺の中に振りまいている聖水も、ただの水
だ。
「吸血鬼よ、悪魔の僕よ、さあ、神の光のさばきを受けるがいい。もうすぐここにも光が当た
る。さすれば、汝は永遠に消滅するのだ」
若い神父の後ろから、老神父の時代がかった厳かな声が伝わってくる。そして二人が熱心
に祈りの言葉を呟き続けているうちに、この棺の上にも日の光が差してきた。
──痛い!
手首が泡立ち、崩壊を始めたようだ。場内のBGMが緊迫感を増した調子に変わっていく。
やがて、私の手首は完全に溶け去り、手首を失った腕がストンと棺の中に落ちてきた。それ
以上溶けないように、私はすぐに腕を黒布の下に隠した。
棺の外では、神父役の二人の役者が、最後のしめにかかっている。
「吸血鬼は滅びた。神の御力で平和が戻ったのだ!」
声高らかに叫ぶ若神父役。
「主よ、ありがとうございました」
老神父役の声がそれに続き、BGMは凱旋の曲へと変わっていた。
私の出番はここまでだった。『吸血鬼ショー』はあと少し続くが、それはこの二人の役者た
ちに任せておけばいい。溶けた手首の所は少し痛むが、寝ているうちに再生するだろう。私
は眠りについた。
日が沈むと、不思議に私の目はさめる。私は棺の蓋を、再生した左手を使いながらずらし
てそのまま外に出ると、蓋を元に戻し、その上に座り込んだ。
夜の帳は下りている。月がとてもきれいだ。
月や星の天空での移動を、飽きもせずに眺めて何時間過ぎただろうか。背後から靴音が
近付いてきた。靴音は疲れきっていた。私の後ろまでくるとそのまま止まり、動こうとしない。
酒の匂いがした。ずいぶんと飲んできたのだろう。あんまり飲めないヤツなのに。
「座れよ、テッちゃん」
私は振り向きもせず声をかけた。こいつは泣き虫だから、多分今もベソをかいているだろ
う。ハンカチで涙を吹く時間を与えてから、座らせることにしよう。
しばらくして、彼は私の横に座った。呟くように一言言った。
「すまん、キューちゃん。だめだった……。キューちゃんは無害だって説明したんだけど、認
められないって押し切られて、結局賛成多数で……」
吸血鬼である私を、親しみを込めて『キューちゃん』と呼ぶのは、この『吸血鬼劇場』のオー
ナーである岩田哲夫ただ一人だ。『キューちゃん』『テッちゃん』と呼び合ってこの劇場を盛り
上げてもう何年にもなる。
「気にするな、そうなることはもうわかってたじゃないか。それで?」
「うん……。明日になったら、キューちゃんを引き取りにくるそうだ。それまで、逃げないよう
に見張っていろ、だと」
「ふっ」
私は小さく笑った。「逃げやしないさ」
「俺としては逃げて欲しい。だって、ヤツラ、保護する、なんて体裁のいいことを言ってるけ
ど、つかまったら、一生日の当たらない牢屋に入れておくつもりなんだぜ」
「日の当たらない所、とは、ありがたい事だな。吸血鬼の私にはうってつけの場所だ」
「冗談はよせよ。俺は、俺は、もうどうしたらいいのかわからなくなって……」
「いいんだ、テッちゃん、これまで、楽しかったよ」
「キューちゃん!」
私の脳裏に、過ぎ去った日々が通り過ぎていった。若手カメラマンとして活躍した日々のこ
と。ヨーロッパの古城をテーマにした作品集を作りたいと思い、ヨーロッパへ渡り、地元では
『死の城』と呼ばれて誰も近付かない城へ行き、そこで吸血鬼に出会い、自分も吸血鬼にな
ってしまったこと。
小説や映画の吸血鬼と、実際の吸血鬼はやはり大分違った。まず、血を吸われた者にも
適性があり、誰もが吸血鬼になってしまうわけではないこと、そして、吸血鬼は永遠の生命が
あると思われているが、実際は老化のスピードが極めて遅くなるだけで不死の存在ではない
こと、などがそうだ。実際、私の血を吸った吸血鬼は、その後、数百年生きてきたその生命
を終えている。
私はその城にとどまっているべきだった、と思う。まがまがしいその血を絶やすために、あ
と何百年、息絶えるまで。
でも、望郷の思いは断ちがたく、私はノコノコと日本に帰ってきた。それからは、葛藤の連
続だった。
私は……クリスチャンだったのだ。洗礼を受けた日にイエス・キリストに誓った神への服
従、十字架への祈りは、吸血鬼とは相反するものだった。十字を切ることさえも出来なくなっ
た自分の体に、私は絶望し、苦悩した。
昼は日の当たらぬ廃屋などに身を隠し、夜出歩く日々。街にはうまそうな人間たちがたくさ
ん。彼らの血が欲しいとうずく体を理性の力でねじ伏せ、私は人間以外なら呪われた血の影
響が出ないことを確かめると、犬やネコを捕まえてはその血を吸った。しかし、理性では私の
体はいつまでも押さえられなかった。私は遂に耐え切れなくなって、ある夜、一人の男を襲っ
て血を吸おうとした。それがテッちゃんだった。
テッちゃんはカメラマン時代に親交があった。相手が顔見知りとわかると、私の理性は戻っ
てきた。テッちゃんはそのまま逃げようとする私を呼び止め、それから彼との付き合いが始
まった。孤独だった私に、初めて信頼できる友が出来たのだった。
彼は私の立場に同情し、ねぐらと食料を調達してくれた。大抵は動物の血だったが、時に
は人間の血を持ってきてくれた。そんな時、彼はコップ酒で私は『コップ血』で乾杯して、夜遅
くまで語り合ったものだ。楽しかった……あの頃は。
そのうちに、私が恩返しをしたいと言い出した。結局出来たのが、この『吸血鬼劇場』だっ
た。ホンモノの吸血鬼が演じる吸血鬼ショー。これは当たった。評判を聞きつけて科学者が
調査に来たが、本物だとわかると、なお世間の評判となった。
それからもう数年。さすがのショーも飽きられて観客が減ってきたのに追い討ちをかけるよ
うな事件が起こった。何年か前に狂牛病が問題となったが、今度は豚から人間に感染する
新しい病気が問題となり、政府は感染対策を強化することになり、そのとばっちりがここにも
来たのだった。
今日、テッちゃんは私の代理として感染対策委員会に出席したが、吸血鬼の存在は将来
的に考えても人間に危害を及ぼす可能性が高いと言うことで私の保護が決定したようだ。保
護と言えば聞こえがいいが、実際は監禁だ。つかまったら、私は一生そこから出られないだ
ろう。
「で、どうしよう、キューちゃん」
それまで私と昔話に興じていたテッちゃんが、急に顔をこわばらせると私に問い掛けた。
「どうって……」
私は他人事のように、あっさりと言った。「こうなったら消えるしかないな。吸血鬼は滅びま
した。それが私のフィナーレさ」
「そんな!」
続けて何かを言おうとするテッちゃんを手で制し、私は語り始めた。
「もう限界なんだよ、私が生きているのは。なぜ吸血鬼があんな田舎の古城で生きつづけて
いたか、わかるかい? 周りは大自然。清らかな大自然さ。言い換えればそれは『善』の世
界。世界は善と悪があるからこそ成り立っている。闇があるからこそ光がある。だからこそ、
善の対極である悪の化身の吸血鬼も存在できたんだ。
だけどどうだ、今の世界は。空気は汚い、食べ物は化学物質で汚染され、人間の血は汚
れきっている。人間は吸血鬼以上の悪を作り出してしまったんだ。もう吸血鬼の出番はない
んだよ。老兵は消え去るのみ、だ」
「しかし……」
「私の最後のわがままだ、もう止めないで欲しい」
「キューちゃん、俺、どんな人間よりキューちゃんが好きだった」
「テッちゃん、私もだよ」
時間がたつのが早かった。ほんのちょっと話し合っていたつもりなのに、もう夜は明けよう
としていた。
「場内のビデオカメラを回してくれ。私が自ら消えたと言う証明になる。それを見れば君の責
任は問われないはずだ」
「キューちゃん、ほんっとうに、いっちまうのか?」
唇を噛み締めるテッちゃんに、私は小さく微笑んだ。
「さよなら、テッちゃん」
東の空が明るくなっていく。日が山の縁から姿を現した。光が私を飲み込んでいく。じゅうじ
ゅうと、私の全身が溶け始め、煙りを立てていく。
「キューちゃん!」
テッちゃんの声が聞こえた。もう体の自由が効かない。振り向けない。痛い。でも、心の中
は次第に透明になっていく。それは、吸血鬼の血の呪縛から、やっと解放されたことを示して
いた。私は久しく口にできなかった名前を、喜びを持って呟いていた。
「神さま……イエスさま、わが魂を……み手にゆだねます」
(了)
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