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メシアンは『イベリア』に関して「奇跡を見るようなスペイン音楽の傑作」と語ったという。しかし、本当の奇跡は「La Vega」の存在かもしれない。この宇宙が虚無の世界からビッグバンによって生まれたことに匹敵するぐらい、私は驚きをもってこの作品に接しています。
アルベニスは「ラ・ベーガ」以前に多くの作品を生みだしています。その付与方法が怪しまれている作品番号にして232曲。しかし、それらはアカデミズムの伝統に則ったショパン風の作品、華やかさが売りのロマン的な作品、あるいはギターの奏法からいくつかの発想を得たスペイン的な作品など、時には天才的な筆致を感じさせる佳作達ですが音楽史的にそれほど価値の高いものは生まれませんでした。1896年頃にまとめられた作品232の組曲「スペインの歌」まで。
そして、その翌年1897年、世界中にある過去のどの作品にも似ていない傑作「ラ・ベーガ」が突如として出現したのです。組曲『イベリア』が産声を上げる約8年前のことでした。
以下に譜例付きで解説を試みましたが、特に読んでいただく必要はありません。とにかく、ラローチャの演奏を聴いて欲しいです:
Albeniz "La Vega" (演奏時間 8:54[fade out] 6.6MB, 44kHz, 64kbps) 演奏者:アリシア・デ・ラローチャ 録音:1959年
たいへん恐縮ですが、音源は途中までの掲載となっており、また音質もやや落としています。全曲が14分弱と長いのと、気に入った方には是非CDを買っていただきたいという思いもありまして、途中でカットさせていただきました。ご了承下さい。でも再現部をカットしているだけなのである意味ほとんど聴けてしまうのですが(^^)。
ほんの最初の出だしを聴いただけで、魅力…いや魔力に惹きつけられるかと思います。蛇足ではありますが、以下に簡単な解説を書き添えさせていただきます。この作品の個性、版による音の違い、演奏法を中心に展開します。
「ラ・ベーガ」(La Vega…「肥沃な平原」の意。スペイン語では"v"は"b"の発音となります)は組曲『アルハンブラ』の第1曲として作曲されましたが結局続きは作曲されず、単体の作品として残されました。右の写真はネット上で何となく見つけたVegaの写真。この標題に相応しいものなのかはよく分かりません。
最初の譜例はこの作品の印象的な開始部分です(以下特に注釈を入れない限りUME版を掲載しております)。フラット7つの記譜で、変イのエオリア旋法(自然短音階…一般に短調での下降音型に使われる音階です。これを下降上昇に関わらず採用した調性)となっております。最初の8小節は序奏に当たる伴奏音型。しかし、伴奏というにはあまりにもったいない旋律。ペダル及び指ペダルで延ばされていく各音の折り重なりは、荒涼たる大地あるいは神秘的な宇宙を想起させます。実際、この音型は曲全体で使用される主要なテーマの一つとして活用・発展されます。9小節目、伴奏音型に乗る形で息の長い主題が現れます。

この主題は更に落ち着きを持った深い響きへと発展します。以下の譜例中49小節目、自筆譜を元に校訂されたスペインのイグレシアス版では、左手のオクターブ和音の低い方の変ホ音が省かれています。直前の41小節目や、再現部の同じ所でも同様の修正がなされています。深い響きを失っても、抑制の利いた音楽を優先させるという意味はあるかもしれませんが、私はオクターブのままの方が効果的だと考えます。

上の譜例で少し顔を出している53小節目からは、最初の伴奏音型のみが現れます。そして、今度はこの音型が劇的に発展していきます。トリルが加えられ、上昇音型を基本とする16分音符が増え、さらには16分音符の3連符と細分化されていきます。

その後上記3連符に短2度の装飾音が加えられ、ついには32分音符の超高速パッセージが現れます。ここまでの上昇音型の到達点であると同時に、技術的困難さの頂点でもあるこの部分。譜面にも書き込みましたが、いかにも難しい右手を助けるため、可能な音符は極力左手に引き渡しましょう。最初の頂点に達すると、今度は和音を伴った分厚い下降音型が ff で、幾重にも重なりながら、駆け下りていきます。漲る力感は筆舌に尽くしがたいものがあります。

下降音型が終わると、次に再び最初の伴奏音型が現れますが、3連符のスタッカート音型を伴いまだまだ慌ただしい雰囲気が続きます。この嵐にも似た部分を過ぎると突然穏やかな大海原に解き放たれます(下譜例)。しかし、ここもまだうねりが残っており、少しだけ興奮を引きずった感じになっています。譜例には載せておりませんが、時折現れる短2度の響きがアクセントとなったり、小さなクライマックスを形作っています。過去のアルベニス作品にはない効果的な使用方法です。

上記譜例冒頭137小節目、左手に9度の和音があります。しかし、以下のイグレシアス版では和音が無くなっており、アルペジオがそのまま開始されています。これも大方はUME版の方を支持するでしょう。

9連符のアルペジオは、情熱的な3拍子の和音…実は例の伴奏音型なのです!…によって中断されます。この207小節目からの部分は、版による大きなずれがあります。以下はUME版。4小節で終わっています。

しかし、イグレシアス版は倍の8小節となっています。しかも、単純なコピー・ペーストミスでないことは細かな音の違いから判明します。きっと自筆譜にこのような書き込みがあったのかもしれません。なお、UME版214小節目などはイグレシアス版と同じ音型です(この部分から小節番号がずれていきますのでこのような表記とさせていただきます)。いずれにせよ、極めて力強い部分です。

様々な音型が絡み合い、やがて静けさを取り戻す頃には、一つの音階(ハ→ロ)の中にダブル♭が4つも出て来るという箇所が出てきて、スペイン情緒豊かな神秘的な和音が繰り返されます。そして、最も注目すべき中間部Meno mosso.が始まります。以下の譜例は中間部の主題が最初に現れる部分。UME版261小節目から左手にも旋律が現れ、複雑に絡み合っていく。ゆっくりなのでそれほど難しくはありませんが、人の手の大きさを無視した自由な記譜が続きます。手の交差も現れます。ピアニズムにおける一つの大きな奇跡がここに見て取れます。

晩年のアルベニスに特徴的な短2度の活用もこの部分で最も効果を上げています。以下の譜例のUME版305小節目(dimの部分)など、どうやったらこんな退廃的でありながら美しさを保った和声を思いつくのか…奇跡以外の何物でもありません。

Meno mosso.が終わるとテンポが元に戻り、再び9連符の込み入った音型が現れ慌ただしくなります。今度は付点も付いており、技術的に最高難度の部分が頻発します。譜例 ff の部分でこの中間部のクライマックスが形作られます。左手の8分音符をよく見ると、これまた最初の伴奏音型になっています。まるでパッサカリアの通奏低音のように随所に現れ、曲の見えざる統一感を生み出しています。この作曲技法も奇跡的な巧みさと言わざるを得ません。なお、イグレシアス版では「8」の文字が無くなっています。

中間部が終わると、最初の部分が同じ形で再現されます。大海原の部分が短縮されて現れた後、再び中間部の音型が変イ長調に移調されAndanteとして少しだけ繰り返されます。最後は、安定したクリアな変イ長調の和音が静かに奏でられて締めくくられます。

どれほどこの作品が奇跡的な出現であったか、分かってもらえましたでしょうか(^^;。私はアルベニスがどこかで頭を打ったに違いないとも考えたりします。打ち所がよくって生まれた作品だと…もちろんそんな事実はありませんが(^^;;。しかし、実は、「ラ・ベーガ」とそれ以前の曲の中間に位置する作品があります。次回はそれを簡単にご紹介したいと思います。
なお、「ラ・ベーガ」にはもう一つBelwin Mills Publishing Corp.版があります。恐らくUME版から起こしたものではないかと推測されます。やや読みにくくなっています。この作品(と後にご紹介するアスレーホス)には、まだ完成された楽譜は作られておりません。自筆譜を元に作られたというイグレシアス版もそれが果たして音楽的に最高の姿なのか、断定できません。臨時記号が多く複雑で巨大な作品なので、間違いのない優れた楽譜の出版されることを願ってやみません。