蛙の戯言
Frog's nonesense

このページでは、筆者が日々感じていること、思ったこと、意見したいことなどなどを、ある時はフランクに日記調に、またある時はシビアに論文チックに、自由に書き下ろしたページです。こまめに更新する予定です。まじめに書いていたり書いていなかったり、たまに訳のわからないこと、誤った見解・情報を書いてしまうかもしてないけど、そんなときは「井の中の蛙(カワズ)」である筆者の「戯言(ザレゴト)」だと思って流してください。お楽しみに!




もくじ

・「投票証明書発行制度」(2000年6月26日)
・日本の総理大臣は子供でもOK?(2000年11月14日)
・頑張れバリアフリー発展途上国ニッポン(2000年11月28日)
・社会科見学(日本中央競馬、中山競馬場編)(2001年1月30日)
・日本国のスケープゴート「森首相」(2001年3月25日)
・社会科見学U(高岩寺、とげぬき地蔵編)(2001年3月29日)
・老人ホームの選び方(2001年4月24日)
・日本お茶事情(2001年9月17日)
・『三丁目の夕日』(2002年2月10日)
・文具店にて(2002年4月30日)
・母の日(2002年5月13日)
・ホームヘルパー奮闘記(第1話) 「時給850円プラスα」 (2002年5月24日)
・社会科見学III (グアム編) (2002年8月13日)
・人とのかかわりあい (2002年8月14日)
・ホームヘルパー奮闘記(第2話)「あかちゃん」(2002年8月30日)
・ホームヘルパー奮闘記(第1話)「時給850円プラスα」 反響版(2002年10月13日)
・ヘルパー奮闘記(第3話)「異文化コミュニケーション!?」(2003年1月20日)




ヘルパー奮闘記(第3話)「異文化コミュニケーション!?」(2003年1月20日)

皆さんは、子供のころ初めて「お泊りで」友達の家に行ったときのことを覚えているでしょうか?初めて友達のうちで食べる食事。普段食べ慣れている定番メニュー、カレーライス、なのに何だか初めて食べる料理に感じられた。何だか、時間の流れ方も自分の家とはまったく違う。このように感じたのは自分だけではないはずである。

このように、一軒隣には生まれも、育ちも異なる人たちが、それぞれの生活環境・文化に軸を置いて生活しているのである。ことに人の移動が激しくなった近年はこれが顕著になってきている。当然それらすべてが、自分にとっては異文化なのである。今、異文化コミュニケーションを求めて多くの日本人が海外へ旅立っていくが、こんなに身近なところにも異文化あふれているのである。

すなわち、一日平均3軒のご利用者宅を訪問するヘルパーは=(イコール)一日平均3つの異文化を旅するのである。実際の旅行では、旅先の環境(異文化)に溶け込むことが、旅を最大限に楽しむための鉄則といわれている。自分はヘルパーの仕事も同様であると考える。なるべくその個々のお宅(異文化)に溶け込み、ご利用者との円滑なコミュニケーションをはかり、信頼関係を築くことが、最も大切なこと考える。そしてそのことが、ヘルパーの仕事を楽しいものへと発展させていくのである。

また、海外で日本の常識が通用しないように、ご利用者宅で我が家の常識は通用しない。掃除のやり方、冒頭にも述べたように料理の味付け・具材料・作り方すべてが異なってくる。共通言語は日本語だがその言葉の解釈も個々で異なってくる。したがって、一つ一つの言葉・会話の捕らえ方、その意味の重さも、それぞれで異なってくる。そのため、個々のご利用者にとってのその言葉の持つ意味、言葉の裏まで判断し読み取ることさえ求められる。

このように、ヘルパーの仕事は異文化との遭遇だらけである。そして、今日もまたヘルパーは異文化の旅を続けるのである・・・


ホームヘルパー奮闘記(第1話)「時給850円プラスα」 反響版(2002年10月13日)

先日、ホームヘルパーの時給についての文章を掲載したが各方面から様々な反響があった。(この文章は当ホームページだけではなく、職場の季刊誌『ふれあい』にも掲載され、利用者、職員各方面から様々な反応をいただいた。)

ある利用者からは、「そんな時給だったら、私がもっと給与出すから個人的に雇ってあげる」などと言われたり、「あんたも苦労してんだね!」「今は不況の時代だから、いい仕事見つかるまでがんばりな」との励ましの声をいただいたり、現状を把握してくださり、気に掛けてくれる意見が多かった。

ただやはり中には「ヘルパーの待遇の安さがわかってしまう」「自分の収入をおおっぴらにするのはどうだか?」「利用者にヘルパーの苦境を知らせるのはどうか?」といった声も中にはあった。

今回このような文章を書くにいたったのは、個人的な、非常勤職員給与の何らかの改善(給与のアップ)を願うという意思が強く込まれているは確かである。ただ、誤解のないように目的はそれだけではないことを今回、補足説明しておきたい。

ホームヘルパーという仕事の認知度は新聞・テレビなどのメディアで多々取り上げられ、年々高くなってきているが、ホームヘルパーの労働環境の実情は取り上げられるもののその数はあまり多くない。

ホームヘルパーという職種は、他の職種以上に専門知識、責任感が求められているのはいうまでもない。非常勤(パート)職員であっても、正社員同様に使命感・責任感をもって行われなければいけない仕事なのである。しかしながら、他の仕事と比べまだ、給与や労働組織、社会保障といった労働条件の側面からみても、あまり社会権を得ていないのが現状であり、ホームヘルパーという職種は世間一般に他の職種比べ低く見られがちである。それゆえ、ホームヘルパーの非常勤(パート)の仕事はただのお金稼ぎ(場合によってはお小遣い稼ぎ)、空き時間の有効利用の為の仕事といった、軽い気持ちで出来る仕事と位置づけられがちになってきているのは気のせいであろうか?このようにならないためにも、この先ホームヘルパーに対してはそれ相応の労働環境、社会的地位の確立が必要であると自分は考える。また、このことが今後のホームヘルパーの質の向上へもつながるための必須条件ではないだろうか。

このようなホームヘルパーの社会的地位ならびに質の向上を願いつつ、まず、もっと沢山の人達にホームヘルパーのおかれている立場を理解していただきたいと思って、このような文章を記載したのが真の狙いであったことを理解していただきたい。この先も、このように自分はホームヘルパーの現状(生の声)をより多く、具体的に外部に発信していきたいと思っている。


ホームヘルパー奮闘記(第2話)「あかちゃん」(2002年8月30日)

NHKの放送で「その時歴史は動いた」という歴史ドキュメンタリー番組がある。ご存知の方も多いだろうが、ある歴史的瞬間「その時」を終着点に、そこまでの歴史的流れ・背景・ドラマを紹介していく番組である。

自分は訪問先で一段落し、利用者と一緒にお茶をすすっていたら、たまたまテレビでこの番組の再放送がかかっていた。今回の「その時」は昭和9年11月20日、ベーブ・ルース率いる米国スター選手らが、日本で沢村栄治選手らと親善試合をしたその瞬間であった。日本にプロ野球の真の魅力を伝えた伝説的な試合に迫るといったものであった。

自分は特に熱狂的な野球好きというわけではないが、「ベーブ・ルース」が伝説のホームラン王であり、彼が病気の少年のために、ホームランを打ったことで有名なことぐらいは知っている。恐らく、子供向けの伝記が出版されているし、映画にもなっていることから、野球に関心があまりない人でも一度は彼の名前を耳にしているのではなかろうか。

さて、番組の内容はちょっと脇においておき、自分は番組を一緒に見ていた利用者の一言に衝撃を受けた。「私、この試合見に行ったわ」・・・。そして、彼女はこう続けた。「もう、日本人が貧弱に見えて、惨めで、恥ずかしかったわ」。ここで、自分が改めて感じさせられたのは、彼女は歴史的瞬間、今、目の前テレビで映し出されている「その時」を生きてきた人であるということである。

彼女だけではない、自分の訪問する利用者のほとんどが、自分が歴史の教科書などの資料でしか学ぶことの出来ない、第1次世界大戦、関東大震災、大恐慌、第2次世界大戦、原爆投下、終戦・・・といった激動の時代を生き抜いた主人公なのである。利用者、一人一人が歴史の生き証人、自分から言わせれば「歩く辞書」ごとく、「歩く歴史の教科書」なのである。むしろ、こちらが講義料をお支払いしなければ、と思うことも少なくない。

自分は現在25歳であるが、自分の年を倍にしても、利用者たちの年齢には到底追いつかない。3倍にしてやっと極一部の利用者に追いつく程度である。なんだか、当たり前な話だが、改めて利用者との年齢差を考えると思わず感激してしまう。ある利用者は、そんな自分の事を冗談交じりに「あかちゃん」と呼ぶ。確かに自分は所詮彼・彼女らからすれば「あかちゃん」もしくは「あかちゃん以下」なのである。

このように仕事をしながら、生きている歴史を感じる。他の業種ではそうそう体験することは出来ない。自分は、こんな利用者達と接する事、接するこのような仕事に携える事ができて、正直なところ光栄だと思っている。


人とのかかわりあい (2002年8月14日)

先日、社会福祉学演習のスクーリングを受けに行った。内容はグループワーク。グループワーク(ディスカッション)を実際に行い、それを通じてその意義・効果・流れを学ぶというものであった。自分は4人ほどのグループで「生と死」にというテーマで互いの見解を話すことになった。

最終的に達したのは「生と死」は当然一人で行われることだが、我々は常に誰かとかかわりながら生きていることを忘れてはならない。そして個々の「死」というものは必ず誰かへの悲しみ、また記憶のなかに埋め込まれていくものであるということである。

人は何のために生きているのか、「人生とは?」と問うたとき、自分はやはりそれは「いかに自分の生きた形跡を残すか」ということではないかと考える。もちろんその姿形は様々である。例えば形として残す、本などの文献のみならず、自分が生きている空間、周りには様々な「物」が存在し、その一つ一つには多くの人が「生きた」形跡がたくさん詰まっていることは言うまでもない。そして、人の心の中に残す。形あるものはいずれ朽ちる、また、当然「あの世」へ持っていくことも出来ない。よって、生きた形跡を永遠に残すには「人の心の中に」残すということになる。こうして自分が今、文章を書いているのも、これを読んで誰かに何かを感じてもらい、自分の「生きた」形跡を残そうとしている現われなのかもしれない。

ただここで注意しないといけないのは「生きた」形跡を意識して残そうとすると、自分らしさが失われ、「人生」のために生きてしまい、訳が解からなくなってしまうということである。「生きた」形跡は、日常の人との「かかわり」のなかで自然に形成されていくので、いかに有意義に悔いのない自分らしい生活を送るかが大切であると考える。

さて、「かかわり」と書いたが、我々は様々な人たちとの「かかわり」持ちながら生きている。よく、「自分は一匹狼だから」と言う人がいる(自分もどちらかというとその一人に当てはまるのだが・・・)が、当然「かかわり」なしで生きることの出来る人はこの世に存在しない。家族、友人、職場の同僚・上司、近所の人など、それぞれ固有な関係を持ちながら「かかわり」あっている。

このなかでも、「友人」というのは不思議である。先日の友人の結婚式の時、新婦の父の話のなかで「高校の時の友人が一番長く続いていく・・・」といった発言があった。自分も父親から同じようなことを言われたことがある。そして現に、その結婚式には全体の出席者42人のうち、自分も含め7人の高校時代の友人が、式が海外グアムで行われたのにもかかわらず駆けつけ彼女の晴れ舞台を祝った。現在、それぞれが距離も進路もバラバラになり、集まる機会も少なくなってしまったが、今回久しぶりに仲間が集結した。かれこれ、10年以上の付き合いになるが、彼・彼女らとは見えない何かでつながっているのだ。

高校、大学、部活や授業で出会った仲間は数多い、不定期ではあるが何らかの形で連絡を取り合っている。そして、友人は時を越えても決して失われることのない存在となっている。たとえ音沙汰がなくても、自分の頭のどこかで「今、あいつどうしているだろう。元気かな?」と思っている。少し前に、中学時代の友人、かれこれ7・8年音沙汰のなかった友人からe-mailが入った。パソコンのホームページ検索でたまたま自分のホームページを発見したそうだ。正直、喜びを隠せないほどうれしく、思わずパソコンの画面に向かって歓喜の声が出てしまった。一度できた友人(かかわりを持った仲間達)は遠くに別れようが、けんかしようが、一生の友として自分の心の中に生きているのだ。


社会科見学III (グアム編) (2002年8月13日)

先日、友人の結婚式に出席するため初めてグアムに行った。式は悪天候にもかかわらず、和やかに行われ大変によかった。

さて、そもそも自分はグアムやサイパン、そしてハワイといった観光地には一切関心がなかった。なんだか日本人観光客ばかりが訪れ、ある意味日本化されてしまっていることから何の面白みがない場所といったイメージが頭の中に焼きついてしまっているのである。行きたくない海外ワースト1に入る場所なのである。結婚式も、実のところ同じ3時間だったら中国やタイ・ヴェトナムなど東南アジア諸国に興味があるので行ってみたいと思った。しかし、そこはさすがに注文つけられないので、たまにはジャパニーズチックなリゾートもいいか、一応「準州」扱いだけどアメリカの一部だし少しは英語も話せるし・・・、初めてな土地だし、なんか発見もあるだろうし、飛行機にも乗れるし(乗り物好き)と、いざ旅立つのであった。

グアムに着くや否や入国審査の黒人のお兄さんは日本語で「こんにちは、観光ですか?」ときた。こちらは、あえて日本語で答えず ”Hello, well I came here to attend my friend’s wedding” と話しかけた。すると、兄さんは “OH! You’ve got a British accent! Are you Japanese?” とちょっと驚きながら返してきた。よっぽど、東洋人が来たら日本語で話しかける、といったマニュアルがあるのでは?と疑ってしまうぐらいの対応振りであった。その後その兄さんとは2,3分にわたりおしゃべりをして、外で先にグアム入りをしていた仲間たちと合流した。

初日、自分は早速レンタカーで迎えに来た友人にホテルではなく水族館に連行された。そこには世界一長い?水中トンネル水族館があった。エイを下から見たり、スイカ6個分はある大ハマグリの内臓を見たり、やる気のなさそうに口をポッカリと開いた大魚のその口の中を掃除する魚を見たり、面白いものを見ることが出来た。

その後は、せっかくアメリカに来たのだからと射撃をすることになり、言葉巧みに話しかけてくる華僑、ごっつい黒人の兄ちゃん(注・空港とは別人)らがグル?で経営するガンショップにて初射撃をする。「これに当たればやっぱり死ぬな・・・」と思いつつ、「でもちょっと楽しいかも?」と3種類の拳銃の感触を思い存分味わった。

その晩は、せっかくグアムに来たのだから現地料理(チャモロ料理)を食べてみようとのことになる。ココナッツミルクで味付けてあったり、ちょっと(一部かなり)辛かったり、甘めだったり、味付けは料理によって様々だが、中華料理や、東南アジア系の料理、オセアニア系の料理がミックスされたような料理であった。そして、何よりも楽しみにしていたのはヤシガニ料理であったが、これにはちょっとがっかりさせられた。なんだか見かけはおいしそうだったのだが、いざ食べてみると味は淡白でパサパサしていて、いまいちパッとしない味で、値段の割にはちょっと物足りない感じがした。まぁ、せいぜい話の種になるぐらいといったところでした。はっきり言って、「ヤシガニ」お勧めしません。 

さて、グアムの感想だが「アイデンティティの失われた島」、とにかく自分はグアムをこのように名づけたい。その要因1、どこを見渡しても日本語の看板が掲げられ、あちらこちらで日本語が飛び交う。要因2、グアムで定番のお土産、マカデニアンナッツチョコレートを買ったが、包装紙を見たら、ナッツはオーストラリア産、チョコレートはベルギー産、そして製造元はハワイになって、上っ面だけグアムといったお粗末さ。要因3、観光客相手の店は中国系の商人が多く経営していて、帰り飛行場までタクシーに乗ったが運転手はフィリピンからの出稼ぎで片言の英語で「フィリピンに今度来なさい、グアムより美人いっぱいいるよ、しかも安いよ」とお国自慢を聞かされた。

結局、純粋な原住民らしい人はあまり見かけなかった。そもそも、グアムがたどってきた歴史を見ると自分が「アイデンティティの失われた島」と呼んでしまうのも不思議ではないことがわかる。グアムは大航海時代にスペイン領となり、その後アメリカ領となり、ここ数百年ずっと他国に支配し続けられてしまった。そして現在は日本人観光客といった金の卵を集めるために、またその金の卵にあやかろうとアジア諸国から集まった出稼ぎ住民によって、文化の発達を歪められってしまった哀れな島、といった印象を自分は強く受けた。

グアムの一番の見所である美しい海を、悪天候のため満喫、見ることが出来なかったことは残念であったが、結局今回のグアム訪問は冒頭で述べた自分のグアムに対するマイナスイメージを裏づけするに過ぎなかった。今度、誰か海外で挙式するさいはグアム以外でお願いします。某友人によると穴場は中東のドヴァイなんかがお勧めだそうです・・・


ホームヘルパー奮闘記(第1話) 「時給850円プラスα」 (2002年5月24日)

「時給850円」これだけ身体的に疲れるし、精神的にも気を使う、にもかかわらずこの時給はちょっと辛い。幸い他のホームヘルパー事業所と違って、実働時間(実際にヘルパーとして利用者宅でサービスを提供した時間)ではなく拘束時間(移動時間、待機時間、記録作成時間を含む8時間)すべてに対して給与が支払われるので安定して給与が毎月入るので助かっている。しかし、一日6,400円、一月20日で計算して128,000円はちょっと辛い。「パラサイト・シングル」(※説明は下)なんていう言葉が出回ったが、自分はまさにそれである。現在のところ両親と同居中であり、「パラサイト・シングル」の言葉のとおり親元に寄生(生活面で親の脛をかじっている)しているが、そうでもしないと生活できない。

「ならば、もっと給与の高い仕事に着けばいいではないか?」「他の職種に転職すればいいではないか?」と言うことになる。しかし、そこにはやめられない理由がある。なぜなら、この仕事には時給の850円以上にお金では決して買えない、また他の職種では決して味わうことのできない体験・経験、人と人との交流などが「プラスα」されるからである。「プラスα」は時には、ちょっとした生活の知恵であったり、利用者の貴重な戦時中の体験記であったり、「いつもありがとう」といった利用者からの感謝の言葉であったり、その数やあり方は無限である。当然これらは他の福祉職でも味わうことは可能だが、訪問介護の特徴として同一利用者との接触時間が他の職種に比べ圧倒的に長く、利用者個々の生活に密に携わるいという点で、他の福祉職よりはるかに内容の濃いホームヘルパー固有の体験・経験、人と人との交流がここにある。ホームヘルパーの「つぼ」にはまるかどうか個人差があるが、一度「つぼ」にはまったら抜け出せない「おもしろさ」=「やりがい」がこの仕事に存在する。

当然、自分が30,40代と年をとり、世帯を持つ(相手もいないのに、今のところ持てるかどうかは定かではないが)ようになっても依然この仕事を続けるには、肉体的にも経済的にも困難である。そのためにも、更なる上級福祉職を目指し現在行動中である。上で述べた、この仕事で得たお金に変えられない「プラスα」が少なからずその上級福祉職を目指す原動力となっているのは言うまでもない。また、この「プラスα」が自分の知識、そして何よりも心の財産として蓄積していき、今後の仕事、またさらには人生活動に大きく役立つものであると自分は信じている。

(※パラサイト・シングル:「パラサイト」=「寄生虫」、「シングル」=「独身」、「寄生している未婚者」。つまり、親の生活圏から自立できない独身の男女を指す。「親との同居で、衣・食・住に何ら不自由しないのをいいことに、自ら稼いだ金は、レジャーや ブランド商品など、娯楽、趣味に費やす生活を送る。社会学者の山田昌弘が、1997年2月8日に日経新聞に掲載された記事の中で使い始めたのがきっかけ。1999年に「パラサイト・シングルの時代」(ちくま新書)を出版し、ベストセラーとなった。)


母の日(2002年5月13日)

今年も母の日にカーネーションの花束を贈った。なんだか花屋さんの陰謀にまんまとはめられているような気がしてならないが、贈り物をするというのはなんか気持ちのいいことだ。また、普段「花」を買うといったこともない自分にとって、「母の日」は唯一堂々と花屋さんにいって花を買えるチャンスのような感じがする。しかし、なんだか慣れない環境・行為なので花束一つ買うのにもえらい緊張する。単にカーネーションといっても色・形様々なものがあり、また付け合せの花の組み合わせもあって、随分と「これだ!」と決めるまでに時間を要した。

そういえば、自分のお小遣いをはたいて生まれてはじめて母にプレゼントをしたのも今からかれこれ20年近く前の「母の日」であったような気がする。当時、小学1年生であった自分はまず花屋さんを探すことから始まり、ようやく見つけた花屋さんで、いざカーネーションを買おうと思ったら、人束300円からで持ち合わせが足らず、お店の人が気を利かせて1、2本を150円で譲って包んでくれたのを今でも覚えている。今回、買ったカーネーションは3、4本とプラス名前はわからないがうす紫色の花数ほんと束になって700円であった。一番安いものは500円から、一本売りは300円であった。こう考えると花の値段は昔(約20年前)と比べさほどあがっていない。むしろ他の物価が上昇した一方「花」は値下がりしている。技術的に安価で花を栽培できるようになったのせいなのであろうか?

とにかく、花やには色とりどりの花々が陳列されている(いまさら言うまでもないが・・・)。しかし、何が何だかさっぱりわからず、その中で名前と、花が一致するものがいくつあるかと考え見たら、その数はかろうじて片手を超えたところであった。これからは男も(自分だけかもしれないが)がんばって「花」を勉強しなければいけないなと感じさせられる今日この頃でした。


文具店にて(2002年4月30日)

先日、ちょっと頼まれものの明るい黄色の布ガムテープを探しに、雑居ビルに入っている大きな文具店に立ち寄った。お目当ての品はスムーズに見つかり、会計カウンターへと向かった。2つレジが並んでいて、片方には2人、もう片方には1人立っていて自分は当然のごとく人数の少ないほうへと並んだ。

しかし、どうも前にいる人の見た目・そぶりが一般人ではないと、その時はじめて気づいた。わりと大柄の男性、ちょっとパンチパーマーはいった髪、上下とも某スポーツブランドの真っ白(黒のラインのデザインあり)のジャージを身にまとい、片腕には金色に光るいくつかの輪っか、そしてブランド物のセカンドバッグを2つ、1つはレジのカウンターに、もう1つは手にかけて立っていた。

そして、「何か」?をお買い上げ。レジの女性が機械を打ち、いざ商品をお店のロゴの入った茶色い紙袋に包装しようとすると「ねーちゃん、すぐ使うから、そのままでえーよ」と すかさずその「何か」をレジの女性の手元から取り、商品の包装されたビニール袋をその場で開け始めて。「履歴書」?何かの法令用紙のようであったが、その時はじめてそこに「金銭借用書」の文字が目に飛び込んできた。そして、男はすかさずその「金銭借用書」をカウンターに置いたセカンドバックに勢いよくしまい込み、会計を済ませた。そして、最後に「ねーちゃん、収入印紙は置いてねーんか?」と尋ね、そこでは売っていないので下ののタバコ屋で売ってますとレジの女性が教えると、「ありがとよ!」と台詞を残しその男は去って行った。

後ろから来るお客さんが、次から次へと人が沢山並んでいる列のほうへと並ぶ中、自分はあえてその男の後ろにずっと並び続けた。正味1分30秒ってところでしょうか。しかし、ドラマじゃない現実にもこういう方々が紙一重のところで生活しているのだなぁと、つくづく考えさせられた。やはり、彼はあの後取立てへと向かったのでしょうか・・・。


『三丁目の夕日』(2002年2月10日)

ここ最近はまっている(凝っていると言った方が聞こえはいいか)漫画がある。西岸良平(サイガン リョウヘイ)著の『三丁目の夕日 夕焼けの詩』である。現在小学館ビッグコミックスで連載中で単行本も2002年2月現在46巻まで出ている(ちなみに第1巻の初版は1975年11月に出ているのでかなりのロングセラーである)。また最近『ゴルゴ13』『美味しんぼ』などの漫画が再編集され低価格な雑誌コミックス単行本として約2週間隔で刊行されコンビニを中心に販売されているが、この『3丁目の夕日』も同様に小学館の"My First BIG"の一シリーズとしてテーマごとに再編集され従来の単行本505円より約200円安い286円で売られている。

この漫画との出会いは昨年の夏、職場の先輩が外回り(っていうかホームヘルパーという職業柄職場で行う業務は記録作成ぐらいなものだが。)の帰り道で資源ゴミ置き場から一冊の雑誌版(My First BIG)の『三丁目の夕日』を拾ってきた。資源ゴミをあさったのでは?といった誤解を招くようなので補足するが、どうやら、他の縛ってある雑誌・新聞等とは別に通りすがりの誰かがポイッとその上に投げ捨てたようなかたちで置いてあり目に付いたようである。というわけで、昼休みや間休みで時間を持て余した時になんとなくそれに目を通すようになった。

編集されていたテーマは「高度成長時代」であった。読んだことのある方はすでにご存知だろうが『三丁目の夕日』は昭和30年代が時代背景で当時の日常生活(三丁目に住む人たちの暮らし)をベースに様々な人間ドラマがユーモラスに描かれている。そこには現在の日本にはない(消えつつある)人々の温かな触れ合いが沢山あり、どことなく懐かしい感じがしてくる。一話一話が独立していて読みきりになっているが、小学生の鈴木一平君というのが主人公になっている。

昭和30年代に小学生ということは大体計算してみると生まれが昭和25年前後で現在は年齢40歳後半から50歳前半ということになる。自分の父の生まれが昭和21年で現在54歳まさしく自分の親父が生きた子供時代がそこにある。木に登って基地ごっこをしたり、昆虫や魚を捕まえたり、原っぱで戦争ごっこをしたり、駄菓子屋で買い食いをしたりというのが一平君の放課後の日常となっている。あまり親父の子供時代の頃について聞いたことはないが、おそらく同じような日常を過ごして来たに違いない。

自分は昭和51年の生まれだが自分もかろうじてこのような小学校時代を過ごした経験がある。小学校の低学年を名古屋の都会で過ごしたが、幸いにも住んでいた社宅の前が草ぼうぼうの空き地になっていたし近くには大きな公園もあったから、木登りもしたし基地ごっこもできた。公園の池で牛乳瓶に給食のあまりのパンくずを入れてザリガニも捕ったし、駄菓子屋さんもあった。しかし、そのような遊びも次第にテレビゲームに座をうばわれって行った。当時はファミコンがちょうど出始めた頃で、まだ持っている人も少なく近所の友達が親に買ってもらうと連日のように遊び押しかけ、いつも10人近い子供(自分もその一人)がテレビの画面を囲んでいた。今考えると、自分の小学校時代はちょうど子供の遊びの激変期だったようである。

父と自分の小学校時代の日常の思い出がなんとなくこのように『三丁目の夕日』には納められているような感じがする。この懐かしさ、さらには父の少年時代と自分の少年時代との共通点がこの漫画によって見えてくるのが、この漫画に引き付けられた要因だったのかもしれない(現在自分が住んでいるところが3丁目であるのも引かれた要因の一つだったが)。

現在、高齢者福祉の仕事にホームヘルパーとして携わっている。『三丁目の夕日』の中には一平君の両親、近所のおばさん・おじさん・おばあさん・おじいさんといった大人たちも沢山登場するがこれらが自分が訪問する利用者(70〜90代の方)たちのその頃に当てはまる。訪問した先々で昔話をよく耳にするが、彼・彼女達の生活の基礎はここにあるのだなと感じ『三丁目の夕日』を読んでいてそれら昔話になるほどとうなずけることがしばしある。このように『三丁目の夕日』はあらゆる年代にとって懐かしい日常を描いた、まさしく日本の昭和の時代を丸ごと納めた記録といっても過言じゃないだろう。

さて、この『三丁目の夕日』だが現在単行本では第30巻までそろえるのに成功した。当初古本で集めようとしたのだが全く見当たらず、50件近くの古本屋を回ったが結局今ある30巻中古本で買ったのはわずか8冊である。一番の数を誇るブックオフも10件近く回ったがどこも置いておらず、ひょっとしたらブックオフでは扱い外の商品なのかと疑ったりもした。新書としてもあまり一般本屋には棚に置いておらず町の大型書店に何とか数冊置いてある程度であった。このようにレアで収集難易度が高いが、皆さんに是非お勧めしたい漫画の一つである。ただ、雑誌版のほうは最初に述べたように定期的に出ているのでこちらのほうをお勧めしたい。


日本お茶事情(2001年9月17日)

仕事で宿直、泊まりの仕事があるとき必ず直前に夜食を買うためにコンビニに立ち寄る。夕食・朝食は施設で出されている食事を「検査食」といった形(食べた後に辛かったとか、硬かったとか、こうすべきなどのコメントを書くだけだが)で食べることになるので必要ない。しかし、何せ高齢者施設で出されているメニューだから病院の食事のようにひどくはないが、全体的にさっぱりしており量もさほど多くない。このようなことから夜食は宿直者にとって必需品となっている。

大抵、夜食として買うものは決まっている。おにぎり1個、何か杏仁豆腐・ゼリーみたいな甘いデザート(検査食にデザートがつくことはまずないので)、軽くつまめる小さめな袋に入ったスナック菓子、翌朝気合ずけにがぶ飲みできるように牛乳か飲むヨーグルト、そして忘れていけないのはお茶である。

宿直室は4畳と狭く、この狭さにもかかわらず、利用者・入居者が利用している4人部屋(一部2人部屋)の22畳ぐらいある部屋と同じ空調機が入っている。そうです、空調の効きがすこぶるいいのです。夏は瞬く間に部屋が涼しくなり、10分すれば涼しいを通り越して寒いぐらいです。冬は逆につけっ放しにしとくもんなら呼吸が出来なくなります。サハラ砂漠もびっくりです。気温の調整は窓や換気扇を使って何とか緩和しているのですが、とにかく乾燥するのです。というわけで飲み物は必需品で、一応泊まりで徹夜しないといけない夜勤職とは違って寝ることが出来るのですが、何せ勤務中なので何かトラブルが起きた際には対応したりしなければならないので(滅多にないが・・・)、喉を湿らすのにビールというわけにはいかないのでお茶を用意している。

お茶ぐらいついで飲めば・・・といった話になるが、確かに施設にはお茶もきゅうすもあるし、熱湯も24時間沸いている、でも例の部屋で落ち着かず(やっぱりいつもと違う枕は・・・)、喉も渇きちょっと目が覚めたときにグイッと飲めるといった意味で、売っているお茶は便利である。宿直で喉の渇きで目が覚めるたびにお茶を入れていたら大変なことになる。

というわけで話は戻るが、大抵コンビニで買物をするときお茶が一番最後のなる、重くてかさばるのが最大の理由だが、もう一つ理由がある。友人のHP内の日記でも前に触れていたのだが、「聞」、「まろ」、「十六」、「生」etc、棚にはさまざま種類、銘柄のお茶並ぶ、買うほうも今日は何にしようかと頭を悩ますからである。「壮健美茶」というものが自分が高校生のときに発売され、きれいなお姉さんたちがCM登場し、友人がそのCMソングを歌うと「壮健美茶」を「壮健ビッチャ」と発音したりと、ある意味新鮮な印象が強かったが、今はすっかり定着してしまっている。お茶をわざわざ買うなんて邪道といったイメージが崩れ始めたのもこの頃からのように思える。今は下火傾向にある感じだが近年また、飲料水の棚ではまたお茶ブームになっている。個々1,2年で種類は2倍以上に増えた感じがする。

これには、飲料水のペットボトル化が大きく影響しているようである。缶ではお茶の味が変化しやすく、品質管理が難しかったのが、プラスチックの容器に変わったことから、製造者側としてもやりやすくなったのであろう。飲む側としても、プラスチックの容器は使い勝手が良い。蓋の開け閉めが出来るというのが最大の利点である。ペットボトルも小型化し持ち運びが便利になった。水筒代わりに持ち運べ、水筒よりも軽い。自分でも旅の必需の一つとして定着してしまった。ただ、気軽さのあまり飲み終えたら捨てる、分別の問題、一部自治体では、以前普通のゴミと同じ扱いだったりなど、ゴミ問題、リサイクルといった面で我々購入者側ならびに販売・製造側として更なる努力が必要とされている。

今回は宿直の話に始まって、あんまり内容がまとまってません出したが日本のお茶事情についてでした。


老人ホームの選び方(2001年4月24日)

先日、匿名希望さんより、良い老人ホームの見分け方についての調査依頼を受けました。「プロの目から見た判断基準」などといわれましたが、何せまだ現場で働き始めての方1年経つか経たないかのぺーぺーです。しかも一応、特別養護老人ホームですが、所属がホームそのものではなく訪問介護部(いわゆるホームへルーパー)なのです。でもそれなりに、見たり情報を聞いたりしてきてはいるとは思うので、自分なりに老人ホームの選び方、選ぶ際のチックポイントを書いてみました。

2000年4月から始まった公的な介護保険制度によって今まで処置といったかたちで国から一方的にサービスを与えられていましたが、利用者主体の制度に移行され、利用者が必要とするサービスを自ら選択し活用していかなければいけなくなりました。これは、利用者にとって自由にサービスを選べる(気に入らなかったら他を当たるなども可能に)、いつでもほしい時に、ほしいだけのサービスを利用できるといったメリットをもたらしました。一方、これに伴って利用者の側にも責任が生じるようになり、利用者はサービス利用にあたっては慎重に、業者を見る目、サービスを選ぶ知恵が求められるようになりました。変な喩えかもしれませんが、今までの介護システムは「社会・共産主義」で、それが介護保険制度「民主主義」に民主化されたと考えていいような気がします。 この先「民主化」において経済的に貧困の差が広がるように、この介護保険の中でサービスを熟知し充実したサービスを受ける者、どんなサービスがあるのか知らないまま、満足のいくサービスを受けられない者、個々のサービスの質に大きな開きが出てくるように思えます。

さて福祉分野の入所サービスには特別養護老人ホーム、養護老人ホーム、軽費老人ホーム、があり前者ほど介護サービスの度合いが高く、入所基準も前者ほどより介護度が高い方が条件となっています。この他には、有料老人ホームというのがあるが利用料のすべてが利用者負担となります。

利用者の老人ホームへの入所は、その家族にとっては家庭での介護の必要がなくなることから、手間が省ける、時間的余裕が出来るなど大幅に負担が軽減、また利用者にとっても家族など周囲にあまり迷惑をかけずに済むなど、現在入所希望者が増え、特に特養老人ホームなどでは順番待ちなっているのが現状です(それぞれの自治体で状況は異なりますが)。ちなみに現在私の働いている特養老人ホームではベッド数50床に対し約200人近い方が入所を待っている状態です。 このような現状の中、入所を待たれているうちにお亡くなりになる方も少なくありません。また施設の側としてもより重度な方、介護度が高い方、社会的に早期な入所を必要とする方を先に、優先的に入所させることもあるようです。

本題の施設選びでまず頭に入れておいて頂きたいのは・・・、これは、訪問介護で同僚のヘルパーが行っていた利用者が幸いにも(不幸にも)入所の順番が自分に回ってきたときに漏らした言葉ですが、「終身刑を宣告され刑務所に入れられるみたい」、これを聞いたときはっきりいって自分はショックでした。確かに入所して死を待つだけ、何らかの要因(病気等で入院するなど)がない限りは余生を過ごす場所となりうるわけだから、終身刑で刑務所に服役するのと同じような立場です。しかし、老人ホームは刑務所と決して同じではあってならないと思います。老人ホームの中には人里はなれた所に要塞のようにたたずんでいる物もありますが、人生の終末を向かえる場として多かれ少なかれ誰もが抱く死への不安を取り除く、感じさせない、自分だったらここにずっと入っていても何とかやっていける、退屈しない老人ホームを見つけることが目標だと思います。

施設のたたずまい(外観) 施設のたたずまい(内観)  職員 その他

さて、色々と箇条書きで並べてしまいましたが、参考になりましたでしょうか。これはあくまでも自分一個人の意見・考え・推測に過ぎないので実際はどうかはわかりません。これらは、直接施設に出向き自ずから施設の空気を肌で感じて来ていただきたいと思います。個々の相性というものもありますので・・・。これ以外にも、運営主体(医療法人、宗教、など)、どんな理念を持っているか、歴史などもチェックするのも必要と思われます。

不動産で何軒も見てまわって家を探すように、老人ホームも幾つか直接見て回ることが不可欠だと思います(可能であれば入所される本人と一緒に)。電話でアポを取っていくのが望ましいが、ありのままを見るということで直接行ってみるのもいいのではないかと思います。行くのであれば、職員が一番多い日中10〜16時頃、忙しい食事の時間は避けたほうが良いと思います。


社会科見学U(高岩寺、とげぬき地蔵編)(2001年3月29日)

昨年、平成12年6月4日にWHO(世界保健機関)が従来の「平均寿命」に変わって「平均健康寿命」というものを初めて発表しました。今までの「平均寿命」は寝たきりの方など重傷・重病な方も含まれていましたが、この「平均健康寿命」はこれらを差し引いて平均してどの年齢まで健康に暮らしていけるかを示すものです。この統計によると日本の「平均健康寿命」は74.5才(男71.9才、女77.2才)で191カ国中で一位、世界で最も健康に長生きできる国と位置づけられました。

さて話が180度変わります、祖母が新幹線で旅行した際、たまたま横に乗合わした人と話が弾み(一方的にどんどん話してきたそうですが)、その方は毎月のようにとげぬき地蔵に行っていて、祖母が一回も行ったことがないと話すと、是非一回は行くべきと、とげぬき地蔵について熱く語り、それ以来祖母はとげぬき地蔵に興味を持ち、一人で行くのはなんだから今度一緒に行こうという話になっていました。

前置きが長くなりましたが、とにかく先日、東京巣鴨にある通称「年寄りの原宿」とげぬき地蔵に行ってきました。なにも下調べせずに行ったのですが、駅から明らかにそれらしい人の流れに乗って歩いていくとたどり着きました。気づいたら周りはお年寄りばかり、平均年齢は自分がいるにもかかわらす有に70歳を超えている感じでした。

行っている方はもうご存知かもしれませんが、とげぬき地蔵は高岩寺というお寺の境内の中にあり、まず入り口でタオルとお線香を頂きます(もちろん有料)。お線香を上げ、賽銭を入れお参りをするまではどこのお寺でも見受けられる光景ですが、その後クネクネとお地蔵様まで長い列が出来ていてそこに並びます。その時は待ち時間約2,30分といったところでした。皆さん一生懸命に自分の体で悪いところに匹敵するお地蔵さんの体の部分(肩が悪い人はお地蔵様の肩を)を最初に頂いたタオルで擦っていきます。かつては、たわしで擦っていたのですが、石のお地蔵様が削れて丸くなっていったので、今はタオルに変わりお地蔵様自体も石のではなく鋳物でできた丈夫そうな2代目(?)に代わっていました(初代はおそらくその後ろのあった扉つきの祠に封印されている様子)。結局自分は、よく眼が故障するので眼と、頭が悪いので頭を集中的に擦ってきました。

さて、このとげぬき地蔵の周りには商店街が広がっていて、これがまた凄い。お年よりの原宿だけあって、どのお店もお年より向けのものばかり。例えば洋品店、ちょっとそこらの大型店(○イエー、○トウヨーカドー、○ャスコ等)では見かけない1,2世代前のデザイン?といった品々が目に付く、しかも値段も安い。また、薬局がみょうに沢山あったのは気のせいだろうか。その他には、仏具店、お線香などを売る店、和菓子屋、佃煮屋、お惣菜屋、漬物屋、路上には植木屋、などがのれんを連ねていた。そしてどうやらここ巣鴨の名物でもある塩大福のお店が行列を作るほどにぎわっており、自分達も並んでお土産に買って帰りました。

巣鴨にはとげぬき地蔵にしろ商店街にしろ、お年よりの心を引き付ける魅力が沢山あるようです。町を行くお年よりの顔が生き生きしているのが直に感じられます。その後、巣鴨から地下鉄で都庁に向かったのですが、巣鴨駅の地上に出る階段ですれ違った、お年よりは(推定年齢80代後半)一緒にきた家族に歩行介助用の押し車を預け、活力に満ちた表情で階段を手すりも持たずに登り地蔵方面へ向かっていきました。世界大戦戦時中、戦後復興といった激動の時代を生き抜き、今の豊かな日本作り上げたつわものどもは今も健在といった感じで、冒頭で述べた、日本の健康寿命が世界一というのを肌で実感できる一日でした。


日本国のスケープゴート「森首相」(2001年3月25日)

先日、とある番組で森首相の良い面を取り上げ、叩かれてばかりいるが実はこういった良い面も数々もっている人物であることを報道していた。この番組の意図、制作目的であったようだが、我々はどうもマスコミの偏った報道に踊らされている、言い換えればマスコミが我々を操っているような気がしてならない。この問題については昔から気になっていたが、この番組を通して再度考えさせられたような気がする。

この番組で取り上げたのは先の潜水艦事故の時の首相の対応である。各マスコミでは(マスコミのみならず国会でも大きく叩かれていたが)こぞって、森首相のゴルフシーンの過去の映像を持ち出して、船が沈んでいくさなか、優雅にゴルフをする森首相、といった構図を強く打ち出し、我々に森首相の悪いイメージを押し付けた。

よくよく考えてみれば、これはある意味し方がないことのような気がする。確かに焦って何かをしてもどうにかなる問題ではない。すぐに対策をとっても何千キロも離れたところの船を浮かび上がらせることは出来ないし、とりあえず詳しい情報が入ってくるまでは被害が最小限であることを祈ることが精一杯のような気がする。そして、原因究明の手立て、人的被害を最小限にするための救援の要請をすることぐらいである。これを森首相はゴルフ場から事故の第一報が入った時点で行っている。一方アメリカのブッシュ大統領は週末のバカンスを別荘で過ごし、休みが明けてから対応を始めてのだからこちらのほうが非人道的で問題のような気がする。変な例えだが、車のひき逃げ事件で轢きに逃げして闘争した車(アメリカのブッシュ大統領)はそのまま見のがし、轢かれた被害者(日本の森首相)に何ですぐに救急車と警察を呼ばなかったんだと責めているのと同じような気がする。

どうもここ最近の日本の首相は国民のストレス発散の的のような気がしてならない。日本の首相は日本国のいけにえ(スケープゴート)に過ぎないような気がする。何か問題、不都合があれば全部首相の責任に押し付け、ある程度それが溜まれば切り捨て次を持ってくる。このままでは誰もすすんで首相になりたいといってくる人はいないだろう。そもそも、今の政権では責任の擦り付けあいが精一杯になって来ている。マンネリ化した現政権、政権の交代など刺激がこの先必要な気がする。一方、先の番組で、官僚の一人がいっていたが、我々国民も首相(政党)を選んだら、そのことに責任を持って首相をよりよく育てていく責任があるような気がする。そのためにも首相選出の直接選挙をするべきだと思うのだが・・・


社会科見学(日本中央競馬、中山競馬場編)(2001年1月30日)

まずだらだらと書く前に一言。自分はギャンブラーではありません。競馬、競輪、競艇、パチンコ、カジノといったものには全く縁のない人間です。唯一やるギャンブルといえば宝くじ、それもジャンボ宝くじ(1億3千万当たるやつ)に限って毎回10枚程度買うぐらいです。とにかく、自分にはギャンブルの素質がなく、また性に会わないことからこういった些細のもの以外は全くやったことがなく、またこの先もやるつもりはありません。ただ、周りで競馬をやっている知人・友人を見ているうちに、好奇心旺盛?の自分として一度競馬場、競馬の世界を見てみたいと思うようになり、競馬に詳しい友人(仮名Aさんでははありふれているのでちょっとひねって)仮名Zさんに一度見に行くとき同行させてくれと頼みました。そして、先日「今度の日曜日、あまり大きなレースではないけど行きますか」というメールが来て、その日たまたま用事がなかったので迷わず行くことに決めました。

というわけで、生まれてはじめて競馬場に行って来ました。この日は生まれてはじめてがこの他にも2つありました。まずは、スポーツ新聞を生まれて初めて自分で買いました。そもそも好んでスポーツ新聞を読むほうではなく、もちろん読んだのは初めてではありませんが、今まで誰かが持っているのをその後読んだり、時には電車の座席や網棚に置かれたものを時間つぶしにとって読んだり、図書館でなんとなく読んだりといった具合です。また、読んでも興味のあるスポーツの話題、芸能・社会面、テレビ欄ぐらいで、競馬のところに真剣に目をやったのはその日がはじめてでした。そしてもう一つのはじめては、生まれてはじめて馬券(勝ち馬投票券)を買ったということです。

行ってまず驚いたのは設備の広さ。駅からは動く歩道が整備されスタンドも 広々としていて羽田空港や成田空港顔負けの建物の造り。また驚いたのは飲食店がかなり充実していてバーガーキング(アメリカNO.1のハンバーガーショップ)までもが入っているのには驚かされた。また、親子でピクニックが出来るような芝の広場など至れり尽せりの設備で、家族で来てもまるまる一日遊べるような感じでした。また、来ている人も、自分は競馬場というものをテレビでしか見たことがありませんが、中年の男どもの熱気がむんむんと漂うような場所といったイメージしかありませんでしたが(地方競馬、マイナーなレースに行けばこれが当てはまるそうですが)、中年の男集はさながら(時よりやじを飛ばしたり、友人と話していると横から急に現れて講義を始める人など)、家族ずれ、若いカップル、女性だけのグループ、お婆ちゃん、お爺ちゃん、外国人労働者、学生(中には高校生みたいなのが警備につかまっていたけど)、老若男女いろんな方々がいました。ここならJRAのCMのように松島奈々子みたいな美女がいてもおかしくはないなと思いました。

さて、上で設備が素晴らしいという話をしましたが、更に驚かされたのはこのような設備が使われているのは土日曜日だけで、それ以外の日は閉鎖されているという点である。なんだかせっかくの設備が宝の持ち腐れになってしまっているのが気になってなりませんでした。一緒にいった友人にも話したんですが、何か別の設備も一緒に併設すれば有効的に使えるのではないかとつくづく思いました。

例えば、他のスポーツ施設、コンサートホール、ショッピング・アウトレットモール、映画館といった具合に。そう、いっそうのこと、千葉県県庁舎なんかを移動させてしまうのは・・・、どうせ平日しか(一部業務を除いて)使わないんだから、利用日が重ならなくて良いのでは。もしくは、どこかの大学のキャンパスをどーんと持ってきてしまうとか、例えば「東京大学中山キャンパス」獣医、統計・確率研究学科併設。成田に新東京国際空港、浦安に東京ディズニーランドがあるので、別に東京大学が中山(船橋市)にキャンパスを出すのも変な話ではないでしょう。おそらく大学も試験や、部活動、研究施設を除いては週末はもぬけの殻になるのだし。なんだか、だらだらと現実味のないことを綴ってしまったが、県庁案、大学案を除けばなんか頑張れば実現可能なような気がするのですがどうでしょう。

別に競馬・ギャンブルを肯定するわけではありませんが、初めて競馬をして意外や意外面白いことに気づきました。楽しみ方もいろいろあるように思いました。ただ単に馬を見て気に入ったものに賭けるも良し、念入りに計算し統計に基づいて賭けるも良し、気に入った名前に賭けるも良し、賭けなくても走る馬をただ眺めたり、いろんな馬を見比べたり、馬じゃなくて人間観察に徹するのも面白いかもしれません。一人でも、大勢でも充分楽しめる感じがしました。動物好きな方、ちょっとアバンチュールな週末を過ごしたい人、お金があり余っている方ぜひ出かけてみては如何でしょうか。自分も機会とお金があればまた行ってみたいと思いました。(ちょっと遠いけど・・・)


頑張れバリアフリー発展途上国ニッポン(2000年11月28日)

卒業論文で自分は公共交通機関におけるバリアフリーについて論じたが、先日NHKの週間子供ニュースで東京駅のバリアフリーについて取り上げているのを見て再度、バリアフリーの必要性を感じたため訴えておきたい。

番組では子供たち2人が、1人は車椅子に乗って、もう1人は足や手に錘入りのバンドや視界を悪くするための特殊サングラスなど高齢者の体を模擬体験できるスーツを着用して、実際駅の改札からプラットホーム・電車車内までたどり着くまでにどれだけのバリアがあるかを実証・体験していた。

高齢者に扮したほうは、階段の上り下りなど時間を普段より多く要したが自力で何とかホームに到着した。一方車椅子のほうはというと、まず駅員に頼んで東京駅を反対側まで横断、更に駅のはずれの方まで行き「関係者以外立ち入り禁止」の扉を開けてもらい、薄暗い煉瓦造りのトンネルを抜け、その先にあるエレベータでやっとの思いでプラットホームに到達するのであった

これは東京駅に限ったことではない。自分がたまに利用する同じくJRのM駅でも、エレベータが改札とは正反対の「関係者以外立ち入り禁止」のところにある。たまたまホーム先端のエレベータ近くで列車待ちをしていると、車椅子の方が駅員に付き添われホームに下りてくることがあった。その方は、もう少し真中の方に行きたいと言っていたが、駅員は「ここでお願いします」とそのまま列車の先端車両の一番前に乗せられいた。その方は、次の駅で下車したがその日はあいにくの雨で土砂降り、しかもその駅には中央部分にある階段周辺にしか屋根がなく、車椅子で傘もさせずびしょぬれになりながらこいでいく姿が今でも印象に残っている。

自分が思ったのは、何故バリアフリー(障害を取り除く)として作られたエレベーターが「関係者以外立ち入り禁止」なのか、またそうでもなくても「車椅子の方専用」と限定した表示をしたりするのかという点である(乳母車を押している人、重い旅行用スーツケースを転がしている人、などはだまなのでしょうか。)。

また、なぜいちいち駅員を呼び出して利用せざる得ない形にしてしまったのかという点である。現状、駅員が「関係者以外立ち入り禁止」の扉を開けたり、車椅子対応エスカレータを操作したりするため1人ないし2人で車椅子の方1人に対応しているようである。さて、ここでちょっと過激な話になるが、もしある日、丸の内のオフィス街の一角でビジネスアワーにガス爆発、もしくは東京直下型地震で手抜き工事だったビル数棟が倒壊しバリバリの企業戦士たち数百人が足を不自由にし翌日から車椅子で通勤するようになったら(ちょっと無理があるけど)・・・。数百人もの車椅子利用者が同時に、しかもラッシュアワーに押しかけたら果たして東京駅は機能するのでしょうか。

このようなことは、あってはならないこと、ほしくないことだが、そうでなくても、実際仲のいい車椅子利用者仲間が5,6人ともにそろって電車に乗ってちょっとそこまで旅行するすら極めて困難なのが現状のようだ。

1、車椅子利用者はラッシュ時間帯は電車を利用するべからず。2、駅を利用するときは1人ずつ、事前に駅に連絡を入れてもらえばなお良し。3、利用に当たっては駅員を呼び指示に従うべし。このような決まりは実際はないが、間接的に暗黙の了解でこのような決まりがバリアとして根強く残っているような感じがしてならない。車椅子利用者まだまだ当分の間、行動・移動の自由を妨げられ・制限をされ、不自由を強いられる様子である。


日本の総理大臣は子供でもOK?(2000年11月14日)

今に始まったことではありませんが、森総理の失言が大きく国会、日本社会全体を、さらには世界中を揺さぶっています。なんだか日本でもそろそろユーゴスラビアのように民衆が立ち上がって、暴れだしクーデターってのも不思議じゃない状態のような気がする今日この頃です。

さて、こないだ2000年沖縄サミットにまつわるエピソードを耳にしました。もうご存知の方も多いかと思いますが(自分はついこの間まで知らなかった)森総理がチャーター便で空港に乗り入れたクリントン米大統領を迎えた際に、一番最初に森総理が階段から降りてきたクリントン大統領にかけた言葉がなんと "Who are you?" だったそうです。おそらく "How are you?" と言おうとしたのを緊張なさって間違えたのかもしれないのですが、いきなり「あんた誰?」と言われたクリントン大統領はさぞかしびっくりされたことでしょう。確かに綴りをずらせば "Who" にはなりますが全く一国の責任者とあろう者がお粗末な話であります。

この話はどうやら沖縄サミット後のワイドショーなどで取り上げられたそうですが、サミットを取材していた某ジャーナリストによるとこの話には続きがあるとのことです。場所と時間は変わって、レセプションが開かれたときの話です。森総理はクリントン大統領とクリントン大統領と一緒に来日した娘のセーラ(だったかな?間違っていたらごめんなさい)の3人で会話をされていました。そこにウエイターがやってきて "What drink would you like sir?" 「お飲み物は何になさいますか?」とクリントン大統領に尋ねたそうです。そこで大統領は飲み物を注文され(飲み物が何であったかちょっと度忘れしてしまいました)、ウエイターは続いてセーラに "How about you mademoiselle?" 「お嬢様いかがなさいますか?」と尋ねました。するとセーラは "(Same for) me too please" 「私も同じでお願いします」と答えました。このやり取りを聴いていた森総理は、最後にウエイターが自分に飲み物の注文をきいたときに何をとち狂ったのか自身満々の顔で "Me three !" と答えたそうです。"Me two (too)" の次は "Me three" とでも思ったのでしょうか。あまりの非常識、子供並みの勘違いでこちらが恥ずかしくなるぐらいです。クリントン大統領と娘のセーラはジョークにもならないこの発言を冷ややかな顔で見てみぬふりをしていたそうです。

日常、我々もひょっとした思い違い、思い込みで、思ってもいないことや、誤ったことを発することがあります。例えば家で親子けんかをして「親父なんか嫌いだ、死んでしまえ!」なんて言ったことはないでしょうか?おそらく森総理の「第三国で発見」発言はこれに近いものがあるような気がします。ただおおきな違いはこのような発言をどのような身分で場所でしたかです。森総理がちゃぶ台越しに、親父に向かって「第三国で発見されればいい」と言うのであればそれはかまいませんが、一国の長として外交といった国際的に公な場面で言ったのが問題なのです。言い換えれば、いい大人が、駅のプラットホームで親父に向かって「親父なんか嫌いだ、死んでしまえ!」と言うのと同じぐらい非常識だと言うことです。これが子供であれば、周りからジロジロと見られはしますが、子供が言ったことだから可愛いもんだというぐらいにしか受け止められないでしょう。なんだか、だらだらと前置きを書いてしまいましたが言いたいことは、森総理の発言行動は子供と一緒だと言うことです。上の "Who are you?" "Mr three" のように思ったことを考えもせずズバット言ってしまう。そして一回失言してまた懲りずにすぐまた失言。総理という立場をわきまえているのであれば、ある程度一言一言を選ぶもの、選んで発言するのは当然に思える。発言のコントロール(=自己感情のコントロール)これは総理に限らずごく一般社会人としての常識なのに、それが出来ない人間、子供並み人間がのが総理大臣になる国って・・・


「投票証明書発行制度」(2000年6月26日)

先日は衆議院の選挙の日であった。前回よりもは高かったにしろ、投票率の低さが相変わらず問題になっている。私も前回の選挙では利用したが、前回の選挙から、レジャーなど遊びの用事でも不在者投票をすることが可能になった。それに加え今回の選挙からは外国に行っている(働いている)日本人の選挙も比例区に限って可能になったり、船からファクシミリを活用した洋上選挙ができるようになったり、選挙の投票時間が午後8時までと大幅に延長されたりした。にもかかわらず投票率は低かった。

このように選挙管理委員会やそれぞれの自治体では投票率アップのために四苦八苦している様子が伺える。しかし、個人的にいくらこのように宣伝をしても投票時間を延ばしても、よほどのこと(例えば、今回もそのようなムードになりつつあったが、総理が全国民を敵に回すような行動・発言をとったり、渋谷の若者の中で政治がブームになったり)がないかぎり投票率はあまり上がらないようにおもう。政治に対する無関心さ、自分の「一日曜日のひと時」と「選挙」を秤にかけたとき「一日曜日のひと時」のほうが価値があると判断する人がやはり多いのだろうか(もちろん、病など特別な理由で参加できない人も中にはいると思うが、今回はこれをはずして考える)。

では、「選挙」を価値のあるものにすれば投票率の向上につながるのではないか・・・というわけで、一つ投票率アップのためのアイディアを提案してみたい。

「投票証明書発行制度」:文字通り選挙をした人に対して各自治体(選挙管理委員会でもかまわないけど)が何らかの形で証明書を発行する制度。証明書と書いたがこの際何でもいいと思う、一枚のわら半紙の印刷物でも、河童のバッジなどの選挙グッズでも。これによってまず、心理的に今までは投票に行っても行かなくてもそれを証明するものがないので他人に行った振りをすることが出来たが、何か証明するものがあることからそれもらいに行かなくてはいけない、それを持っていないと仲間はずれになるといった心理がはたらくであろう。

ただこの心理的効果ほんの一部分過ぎず、この制度の核は、この証明書(グッズ)を持っていれば都民の日や○○県民の日のように選挙当日に限り博物館・美術館などの公共施設が無料になったり、その自治体の交通機関が無料もしくは割引で乗れたり、ディズニーランドなどの遊園地が割引では入れたりといった具合にすることである。また、さらには地域活性化の一環として商店街などで証明書(グッズ)を提示すれば1割引になるといった便乗効果もねらいの一つである。また、各自治体が割り引き額の差額をバックアップするのも一つの手であろう。地域振興券などをばら撒くのではなくこういったことにお金を使ってもらいたかった。

選挙の日は国民サービスデイ,投票して、遊園地に行って買い物をして有意義に休日を過ごそう。このように投票日というイベントを半分祭り化する、そして選挙に行く価値を目に見える形で大きくするのがこの「投票証明書発行制度」の真の目的。ちょっと、お金がかかるが下手な地域振興券よりはいいのでは・・・。さてこの制度、いかがでしょう?

もう一つ、「巡回投票箱」といったものも考えてみたのだが、やはり警備上の問題コストがかかりすぎてしまう。でもせめて、病院や特別養護老人ホームなど選挙に身体的理由でいけない人がいるところを巡回する、「巡回投票箱」があってもいいような気がするのは私だけでしょうか。


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