年表
| 日時 | 記事 |
|---|---|
| 昔 | 田中康夫がファディッシュ考現学で関西の暴力団の親族を名指しで嘲弄する記事を書く |
| 昔 | 暴力団から抗議を受け、震え上がった田中は担当編集者を関西に行かせ、編集者が暴力団に謝罪 |
| 2000年10月 | 県知事選挙にあたり、飯田市の暴力団組長が独自に田中康夫支持者名簿を取りまとめ、田中康夫後援会に提出 |
| 2000年10月 | 田中後援会に対して暴力団組長とその息子が現金20万円を献金 |
| 2000年10月 | 県内ゼネコンなども、田中後援会に多額の献金 |
| 2001年3月 | 長野県内で暴力団組員による抗争発生・発砲 |
| 2002年3月 | 田中後援会が暴力団から献金を受けていた事実が発覚 |
| 2002年3月 | 勝谷誠彦が「暴力団から田中知事への献金は見返りを求めない清い献金だった」と妄言を吐く |
| 2003年9月 | 田中康夫が会見で、山口組を賞賛する発言をする |
| 2003年12月 | 田中知事が選任した委員が長野県暴力追放県民センター(暴追センター)廃止を答申 |
| 2004年1月 | 長野県警が警察官の増員を要求するが、田中知事は拒否。 |
| 2004年1月 | 長野県警が治安悪化を指摘し再度警官増員を要求。田中知事は「警察官のかわりに経験の無い一般県職員を交番勤務で派遣する」と人事発表。 |
| 2004年1月 | 田中知事が県職員に対して「交番勤務派遣職員」の志願者を募集するが応募者ゼロ。 |
| 2004年2月13日 | 田中知事は「長野県の警察官を「経験の無い一般職員」から「公募」で採用する」と発表。ただし志願者はゼロのため、事実上は業務命令での「転勤」となる。 |
| 2004年2月20日 | 田中知事、諏訪警察署の建て替え予算を出さず。諏訪署は老朽化し耐震強度不足であり災害時を考えれば建て替えは最優先のはずだった。 |
| 2004年3月 | 長野県議会が田中知事の「でっちあげ警察官」増員予算を否決。経験も無く志願者でもない一般職員に交番勤務を任せられない、というのが否決理由 |
| 2004年5月 | 田中康夫が車座集会で、山口組を賞賛する発言をする |
| 2004年6月 | 田中知事が長野県暴力追放県民センターを廃止する方針を発表 |
| 2005年2月 | 田中知事、諏訪警察署の建て替え要望を拒絶。これで2度目 |
| 2006年2月 | 田中知事、諏訪警察署の建て替え要望を拒絶。これで3度目 |
| 2006年4月 | 田中康夫が会見で、山口組を賞賛する発言をする |
| 2006年5月 | 「田中康夫の政治集会を中止しろ」と要求する脅迫ファックスが送付される |
| 2006年5月 | 勝谷誠彦が「田中知事車座集会に脅迫 また始めたな学習なき猿ども。」と長野県民を中傷恫喝。 |
| 2006年7月 | 暴力団と徹底的に戦う「民暴対策大会」が長野で開催されるため、大会事務局が知事に主催者として出席することを要請するが田中康夫は拒否。そのため田中への招待状は送付せず。 |
| 2006年7月10日 | 田中康夫が会見で「ボクに招待状が来ていない」と民暴対策大会事務局に因縁をつけ中傷。 |
| 2006年7月12日 | 田中康夫が、自分も大会に参加させろ、と事務局に恫喝文書送付 |
| 2006年7月14日 | 第65回民事介入暴力対策長野大会開催 田中康夫、民暴対策大会事務局を誹謗中傷する発言を繰り返す |
| 2006年8月6日 | 知事選挙・田中康夫落選 選挙結果に逆上した勝谷誠彦や田原総一郎が長野県民を中傷・恫喝する発言を繰り返す |
| 2006年9月6日 | 長野県警が田中県政時代の治安対策費について会見。田中知事による予算削減により、県民1人当たりの治安経費が47都道府県中 長野県が最下位となっていた事を公表 |
| 2006年11月17日 | 村井知事、諏訪署建替を推進する方針を決定。 |
| 2006年12月22日 | 村井知事、治安維持のため繁華街の警戒活動を視察。犯罪への取り組みを強調 |
| 2006年12月26日 | 長野県警諏訪警察署が、山口組系暴力団組員に対して出されていた「生活保護費」を中止し、福祉事務所が組員に対する生活保護が取り消した事を公表 |
| 2007年1月 | 長野県暴力追放県民センターが「暴力団からの不当請求」に対応するためのマニュアル小冊子を発行。 |
| 2006年1月31日 | 村井知事、老朽化している諏訪署と長野中央署の建替予算を計上。これは田中前知事が3年連続で拒絶していた建替予算。 |
| 2007年4月 | 村井知事および長野県警の陳情により、長野県警の警察官が増員される。田中時代は警官増員要望が全て却下されていた。 |
| 2007年4月18日 | 長崎市 伊藤一長市長が暴力団幹部に銃撃され死亡 「行政対象暴力」があった事が発覚 |
| 2007年4月20日 | 長野県暴力追放県民センターが調査したところ、「行政対象暴力」「行政対象不当請求」が長野県内で頻発していた事実が発覚 |
| 2007年4月23日 | 長野県内の暴力団幹部が指定暴力団山口組系国粋会会長に就任 |
解説
脱・記者クラブ・シンポジウム
2001年10/10
※ シンポジウム
そんなわけで8日の月曜日夕方行われた脱記者クラブを巡るシンポジウムに出かけて来ました。
シンポジウム自体は、盛況でした。椅子の7割が埋まっている。100人はいましたね。ただ受付が「一般人受付」卓と、案内を出した「新聞人受付」卓に別れていたのには笑っちゃいましたが。入り口ですでに記者クラブの選別が出来上がっている(~_~;)。
お客の顔つきを見ると、みんな業界人かそのOBと思しき人々ばかりで、皆さん熱心にテープ回してメモ録っているんですよ。
私、思わず、貴方がたこんなに熱心なのに、どうして新聞はあんなにつまらないの? と呟いてしまいましたが。
司会は、毎日新聞政治部デスクの世良正男氏。
ゲストに朝日新聞論説委員の藤森研氏と辻元清美議員。
藤森さんが現れた瞬間、「ヅラじゃねえか……」と呟いたのは私です(~_~;)。
10年前より髪がふさふさしている。血色が良いのは日焼けじゃなく持病のせいだろうか。昔より若返っている感じがするんだな。
主催者が登壇時に拍手を求めるも、別にめでたいことでも礼しなきゃならん話でもないので、私は拍手せず。
たまたま座った席が康夫ちゃんの真正面の、かなり後ろだったせいで、肝心の康夫ちゃんの顔は全然見えない。
ちなみに、藤森さんはどういう方かと言うと、過去に一度だけご自身が取材される側に回ったことがありまして、それは、昔、康夫ちゃんがファディッシュ考現学で、関西の暴力団の家族のことをうっかり書いたことがあったんですね。
で、
「俺たちが叩かれるのは我慢するが、真人間として暮らしている子供たちを晒しもんにするとはなんだ」
と当然の抗議が来まして、当時ジャーナルで原理担当として鳴らした藤森さんが担当編集として、ま、事実上のお詫びと尻ぬぐいに関西へ出かけたわけです。
何しろ、ご存じの通り、康夫ちゃんというのは、昔も今も威勢が良くて他人をカワード呼ばわりするくせに、自分の尻ぬぐいは全く出来ない男ですから。
で、藤森さん、
「こりゃ面白い世界だ」
と、ヤクザさんとのおつきあいが始まり、家族の結婚式に顔出したりして、何のきっかっけだったか(たまたま政治家がその結婚式に顔を出していたとか、そういう流れだったように記憶している)、記憶が薄いんだけど、それが公になって、一躍時の人になったことがりました。
そんなわけで、実はこの人自身は、記者クラブとはほとんど縁のない、調査報道がモットーのジャーナリストです。
ついでに辻元と康夫ちゃんですが、神戸運動当時に、すでに議員になっていた辻元からろくな応援を得られなかったことを康夫ちゃんはいつもブツブツ言ってました。
でまあ、何かここで紹介できる面白い話があればと思ったのですが、康夫ちゃんはいつもの、われわれが百編聞かされた話のリピートで、個人的には全然面白く無かった。
辻元の
「噂の真相が入れない記者クラブはおかしい」
というのが面白かったけれど。
辻元清美って、私好きじゃないけれど、この人、聴衆に聞かせるための話術を心得ているんですよ。康夫ちゃんとは全然違う。
たとえば、康夫ちゃんはれいによって、
「自分はぶら下がりにも応じるし、携帯の番号だって教えている」
と豪語するんだけれど、それ自体は何ら記者会見に代わるものではないし、それこそ為政者にとってただの逃げ口上でしかないということを司会者も藤森さんも突っ込まない。
藤森さんが「主催」を巡る問題で僅かに、
「そうは言っても、われわれは田中康夫みたいな人間だけを想定は出来ない。小沢一郎は、いざ自分が会見を仕切ると言ったが一ヶ月間全く会見しなかった」
とか、「権力の内視鏡」としての記者クラブの有用性を力説した程度。もっと藤森さんの話を聞きたかったけれど、ちょっと議論が噛み合っていない感じがしました。
毎日新聞の世良さんの話で面白かったのは、辻元が、外務省の機密費問題で、読売の記者が
「あんなのみんな知っていた」
と言っていたというのを受けて、
「そんな奴がいたなら殴ってやるから連れてこい。われわれの中では、それは知らなかった。
個別の事実に関しては、全く知らなかったというのが真実である」
と力説した辺りでしょうか。
観客席との質疑応答のようなものは一切無しでした。
http://www.ne.jp/asahi/eiji/home/main/yasuo-chan_2001_10.htm