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小林教授
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●曹操 武帝(〜)(在位〜)

姓は曹。名は操。字は孟徳。夏侯嵩の息子。安徽省出身。

父親の夏侯嵩は曹騰(漢の名門である曹家出身)の養子となった。

漢の朝庭において宦官は大権力者。曹家は各種の利権を持つ超・大金持ちだった。

超・大金持ちの息子・曹操は若い頃からのカブキ物。

学問に優れた優秀な若者だったが不良仲間の袁紹などと悪さを繰り返していた。

黄巾の乱がおきると将軍として追討に活躍。

何進と袁紹が宦官全滅を狙い失敗し、どさくさ紛れに董卓が宮廷権力を握ると曹操は董卓討伐のため袁紹と共に挙兵した。

しかし董卓討伐の同盟軍は振るわず、突出して董卓軍と戦った曹操は敗北して逃走した。

董卓は自滅したが以後は各武将と黄巾軍が入り乱れる群雄割拠の状況となり、曹操は黄巾軍を打ち破り、その兵力を吸収しながら群雄の一角として成長していった。

曹操は、名目だけの存在となり放浪をしていた漢の皇帝・献帝の重要性にいちはやく気づき献帝を迎え入れた。

徐州の陶謙配下の兵士に父親の曹嵩を殺されてしまう。

陶謙を討つための遠征中に本拠地を呂布に攻撃される。

曹操は呂布を追うが呂布は陶謙の後継者である劉備のもとに逃れ、やがて呂布は徐州を奪う。

追い出された劉備を収容した曹操は呂布を討ち果たした。

群雄の張繍を苦闘の末に倒すが

●夏侯惇(〜)(在位〜)

姓は夏侯。名は惇。字は元譲。

曹操の従兄弟。

●陶謙

燕(公孫氏の国)

●公孫氏

後漢が衰弱し、三国志の英傑たちが各地で割拠していた頃。

中国と高句麗の間にある遼東地域を支配した群雄がいた。

それが公孫度。彼と彼の一族は、50年間にわたりこの地域を領有し、半独立の状況だった。

●公孫度(〜)(在位190〜204)

姓は公孫。名は度。

の息子。

出身不明。

西暦190年、中国では董卓の乱がおきていた。

この混乱に乗じて遼東地方を切り従え、遼東候。平州牧を名乗り独立した。

●公孫康(〜)(在位204〜221)

姓は公孫。名は康。

公孫度の息子。

父のあとを継ぎ、遼東を支配した。

曹操に敗れた袁尚(袁紹の息子)が遼東に逃げ込んできた時、

これを捕らえて首を斬り、曹操に送った。

この功績により襄平候の地位を得る。

209年、高句麗の伊夷模=山上王高延優を大破する。

公孫氏の勢力は強くなるが、中国はしだいに曹操により統一されようとしていた。

曹氏と公孫氏。共通の敵が消えていき、直接国境を接するようになった。

●公孫恭(〜)(在位221〜228)

姓は公孫。名は恭。

公孫度の息子。公孫康の弟。

公孫淵に殺される。

●公孫淵(〜)(在位228〜238)

姓は公孫。名は淵。

公孫康の息子。

叔父・公孫恭を殺して地位を奪い取る。

229年、皇帝に即位した呉の孫権からの使者を受け入れた。

236年、呉の使者が来る。

233年、呉から燕王に任命されるが、その使者を斬殺する。魏から楽浪公に任命される。

234年、諸葛孔明五丈原にて病死。蜀からの圧力減少。

237年、魏の将軍・毋丘倹による攻撃を受けるが撃退。燕王に即位。紹漢元年。

238年、魏の将軍・司馬懿による攻撃を受け、敗北。殺される。

高句麗や鮮卑族も公孫淵攻撃に加わった。

かつて高句麗は公孫度・公孫康に破られており、貰った分を返した、というところか。

公孫淵の滅亡により魏と韓半島や倭国の間に障害物は無くなった。

滅亡したその年に馬韓から魏に使者が送られた。

滅亡の翌年、邪馬台国から魏に使者が送られた。

匈奴

●羌渠単于
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鮮卑

●壇石塊
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高句麗

●故国川王
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