新羅

目次

伝説新羅

奈勿王朝

実聖王朝

再興奈勿王朝

混乱期

元聖王朝

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新羅

●新羅

朝鮮半島南東部・現在の韓国東半分を占めた古代国家。

北方民族系高句麗王族の一派が南下し韓族を支配したのが国の始まりだという。

三国史記などの歴史書には日本書紀の「欠史八代」のような水増しされた記述があるが、それを排除すれば 356年即位の奈勿王が初代のようだ。

遠交近攻の定石に従い、北朝〜高句麗〜新羅のラインに対抗する南朝〜百済〜日本の同盟が発生。

そのため日本とはおおむね敵対関係となったが、戦略上一時的に友好関係となることも多かった。

中国が統一され隋唐王朝は高句麗を攻撃開始。新羅は隋唐王朝と同盟を続け、援護しながら様子を見た。

侵略してくる中国唐軍と高句麗・百済・日本が激戦し、高句麗・百済は中国に滅ぼされた。しかし中国も疲弊しており 漁夫の利を得た新羅は苦戦しながらも中国を追い出し、半島南半分(現在の韓国)の統一を果たした。

ちなみに高句麗の後継者である渤海王朝も成立し、新羅と南北対立を続けた。

渤海の領土は半島北半分(現在の北朝鮮)+満州。ただしピョンヤンは中国領。

統一後の新羅と日本は友好的で、共に唐と敵対していたが、しだいに 遠交近攻の定石に従い中国〜新羅の同盟と渤海〜日本の同盟という関係ができた。

新羅と渤海は滅亡の時まで終始敵対していた。

日本(日本書紀)では「しらぎ」と呼ばれたが、これは「新羅城」という表現が語源。

928年、後百済や高麗に領土のほとんどを奪われたため、高麗に降伏。滅亡した。

新羅王室は高麗の貴族となった。

伝説新羅

●朴赫居世(在位前57?〜4?)

姓は朴。名は赫居世。伝説上の新羅初代王。かくきょせい・ほこせ。

卵から生まれた。新羅三王家のひとつ「朴家」の始祖。

13歳で即位。在位61年。

瓢(ひょうたん)を腰につけ海を渡ってやってきた倭人「瓢公(ここう)」を重臣として持っていた。

時代設定が高句麗建国(前37)の数十年前となっており、高句麗に対する対抗意識丸出し。

高句麗より古いぞ、と主張したいだけのことで、年代設定については創作とみるべきでしょう。

あくまで伝説です。

●昔脱解(在位57?〜80?)

姓は昔。名は脱解。伝説上の新羅4代王。せき だっかい。

卵から生まれた。新羅三王家のひとつ「昔家」の始祖。

箱に入れられて金官国の海岸に流れ着いたところで村人に拾われ育てられた。

漁民として生活していたが、上京。

倭人の大臣「瓢公」の屋敷をだまし取るなど知恵の廻る所を王に見込まれ 2代王南解王の娘婿になり、3代王儒理王にも仕え、ついには指名され4代王になったという。

海を渡ってきた人物がふたりも(瓢公と脱解)登場したり、王の姓が簡単に変わったり、この伝承には異様な印象をうける。物語の形成になにかいわれがあるのだろうが、謎。

あくまで伝説です。

●金閼智

姓は金。名は閼智。あっち。

脱解王のとき、木の上にひっかかっていた黄金の入れ物から瓢公が発見した。

新羅三王家のひとつ「金家」の始祖。

実質金家の初代王は奈勿王。以後滅亡までほとんどの王がこの金家出身。

新羅三王家すべてに倭人・瓢公がからんでいるのが気になる。

なんか理由があるのか。謎。

ちなみに金官国の首露王の妃も海を渡ってきたとあり 済州島の始祖の王妃も日本から渡ってきたとある。

国ができる前は国境線も無いので当然といえば当然なのですが。

あくまで伝説です。

奈勿王朝

●奈勿王(在位356〜402)

姓は金。名は楼寒とも表記される。初代新羅王。尼斯今。なもちおう。

ほぼ同時期に勃興した勢力は「百済初代・肖古王」と「仁徳王朝初代・神功皇后」。

中国分裂により中国大陸からの影響力が低下し、東アジア各地で同時に自立が進んだのか?

在位年数からみて若くして王者となったと思われる。

また死後子供が幼少だったところからみると…いや、想像はこのへんでやめときましょう。

同じく新興国家である百済・倭(日本)と激しく戦っていたらしい。

382年、前秦に使者を派遣。見慣れぬ訪問者に皇帝・符堅がいぶかしがる一幕も。

392年、王族のひとり(のちの実聖王)を高句麗・好太王のもとに人質として送る。

399年、倭の軍勢(倭王讃・仁徳天皇?)に囲まれ危機となるが 400年、高句麗・好太王の援軍を得て倭を退却させる(好太王碑)。

外交にも戦争にも優れた建国の英主。

実聖王朝

●実聖王(在位402〜417)

姓は金。名は。2代新羅王。尼斯今。じっせいおう。

王族のひとりで奈勿王の親族らしい。

364年 392年、高句麗・好太王のもとに人質として送られる。

奈勿王の死後、その子たちが幼少であったので遠縁の彼が即位。

即位直後に奈勿王の王子・未斯欣を人質として倭王讃(仁徳天皇?)に送る。

412年、同じく奈勿王の王子・卜好を高句麗に送る。

417年、同じく奈勿王の王子・訥祇を排除しようと画策するが計画が漏えい。

訥祇の逆襲により殺害され彼の時代は終わった。

奈勿王により高句麗に送られた恨みなのか、王族同士の派閥争いなのか 奈勿王の子供たちを次々に人質として他国へ送る行為。謎です。

再興奈勿王朝

●訥祇王(在位417〜458)

姓は金。名は訥祇。3代新羅王。麻立干。とつぎおう。

奈勿王の息子。実聖王の娘婿。

実聖王を殺す。

実聖王に流刑同然で人質に送られた弟(倭へ行った未斯欣と高句麗へ行った卜好)はあいついで帰還。

未斯欣の日本からの逃亡劇は三国遺事・三国史記・日本書紀に記載がある…んだけど ぜんぶ年代がバラバラ。三国史記がいちばん本当っぽいんだけど。

彼の在位中、倭の五王のうち讃・珍・済・興の四王が次々立った。

●慈悲王(在位458〜479)

姓は金。名は。4代新羅王。麻立干。じひおう。

訥祇王の息子。母は実聖王の娘。

倭王興・武からの攻撃に苦戦する。

倭国と同盟していた百済とは対立していたが 高句麗の百済総攻撃に際しては百済救援の兵を出す。

しかし百済王は戦死。高句麗の脅威を強く受けるようになる。

知王(在位479〜500)

姓は金。名は處。5代新羅王。麻立干。しょうちおう。

慈悲王の息子。母親は未斯欣の娘。

高句麗と倭国が強力な時期で、百済と同盟して高句麗と戦った。

●智証王(在位500〜514)

姓は金。名は智大路(ちどろ)。至都盧(しどろ)。葛文王(かつぶんおう)。6代新羅王。

奈勿王の孫の孫。っていうか、そんな遠い親戚、他人じゃんか。

梁に冊封される。

●法興王(在位514〜540)

姓は金。名は原宗。牟即智(ぼうそくち)。寐錦王(みきんおう)。7代新羅王。

智証王の息子。

加羅を分割・併合した。加羅は滅亡した。

継体天皇が筑紫君磐井と戦っていた頃の新羅王。

●立宗

姓は金。名は立宗。従夫智(じゅうふち)。葛文王(かつぶんおう)。

智証王の息子。真興王の父。

即位はしていないが王扱いされている。

●真興王(534〜576)(在位540〜576)

姓は金。名は彡麦宗。法雲。8代新羅王。

立宗の息子。法興の甥・婿。

百済は高句麗に占領されたかつての国土を回復するべく兵を出した。

高句麗と百済の決戦が行われ、百済は勝利しかつての首都・漢城を回復。

両者が死闘をくりひろけたあとに、戦力を温存した新羅が襲いかかった。

漢城を含む百済・高句麗双方の領地を大きく奪い取った。

自ら兵を率いた百済王と戦い、百済王を殺害。

北齊からの冊封を受け、半島の覇者となる。

●真智王(在位576〜579)

姓は金。名は舎輪。輪。9代新羅王。

真興の息子。

●真平王(在位579〜632)

姓は金。名は白浄。伯浄。10代新羅王。

真智の甥。

王の死後、男子は無く、善徳女王が跡を継いだ。

●善徳女王(在位632〜647)

姓は金。名は徳曼。11代新羅王。真平の一人娘。母親は摩耶夫人。

善徳女王は幼い頃から賢かった。

あるとき新羅王朝に中国の唐王朝から珍しい牡丹の種が贈られてきた。

同時に見本としてその牡丹が咲き誇っている絵も贈られてきた。

真平王は唐からのプレゼントに喜び、早速その種を植えようとしたが 幼い娘である善徳女王は、この牡丹の花は、咲いても匂いが無いはず、と指摘した。

やがて王が植えた種が育ち花が咲いたが、女王の言ったとおりこの牡丹には匂いが無かった。

育って花が咲く前に、なぜ匂いが無いことが解ったのか?

女王は、同時に贈られてきた絵を観察し、その絵に昆虫が描かれていないことを発見し、匂いの無い花が咲くのだ、と推理していたのだ。

このように賢い女性であったため、父親である真平王が死に、後継ぎの息子がいない状態になると、自然に周囲から女王に推挙され、即位した。

4年、唐王朝から正式に新羅王に任命された。

5年、百済からの侵入軍を撃破。

7年、高句麗からの侵入軍を撃破。

11年、百済軍が新羅に侵入。新羅は金春秋を高句麗に派遣して救援を求めたが、高句麗は使者の金春秋を捕らえてしまった。女王は金信(595〜673)に高句麗を攻撃させ脅し、春秋を解放させた。

12年、唐王朝の太宗に、百済・新羅の侵略を止めさせるように訴えた。

唐は救援の代償として唐の王族を新羅王にするように要求。善徳女王は退位させられそうになるが、金信が反発。唐帰順派を倒し要求を拒否した。

13年、善徳女王の要請を受けた唐の太宗が高句麗に使者を送り撤兵を求めたが高句麗はこれを無視。

南方の百済からも攻撃されたが、金信が活躍してこれを撃破。

14年、唐の太宗は善徳の要請を受け新羅を救うために高句麗を攻撃。

善徳女王も兵を送り高句麗を攻撃させたが、背後の百済から侵入されてしまった。

百済と戦うため再び金信が派遣された。金信は出撃が重なり家に帰る暇も無く、自宅の前を通りかかっても水を飲み味を確認するだけで再び出陣していった。

将軍のそのような態度に感服した兵士たちは奮起し、百済を撃破した。

また、戦争だけでなく、この年は文化施設である天文台を慶州に造った。占いに使ったらしい。

16年、死去。

●真徳女王(在位647〜654)

姓は金。名は勝曼。12代新羅王。

真平の姪。真平王の弟である葛文王と朴月明夫人の間の娘。

先代の女王が死去したため跡を継ぎ即位した。

真徳女王が次期女王として擁立されようという時 大臣が女王の即位をを否定して反乱をおこした。

政府軍と反乱軍の激闘が続いたが、あるとき政府軍の陣地に流星が落ちた。

こは不吉なことであり、政府軍側の兵士に動揺が広がった。

しかし将軍・金信はそんなことを気にもとめず、そんなものはなんとでもなる、と一計を案じた。

将軍は火をつけたタイマツを凧にくくりつけ、その凧を夜空に上げた。

そら、落ちた星がまた昇っていくぞ、と言って兵士たちの不安をとりのぞき 反乱軍を打ち破った。こうして即位した真徳女王だったが、百済が混乱に乗じて攻めてきた。金信が出撃したが戦況は不利。

丕寧子の一族が命を捨てて敵陣に飛び込み死んでいったため新羅軍は奮起。

なんとか撃退した。

2年、唐王朝に金春秋を派遣。

3年、唐王朝の年号や制度を積極的に取り入れた。

●武烈王(在位654〜661)

姓は金。名は春秋。13代新羅王。

ところで、この場合われわれが考えなければならないことは、わが民族には文化を 破壊する習性が強いということだ。

戦争によって偶然にあるいはやむを得ず失われる こともあろうが、いちど局面が変わると、以前のものは余すところなくばっさりとな くしてしまおうとする習性がある。

慶州に行けば太宗[新羅]武烈王碑というのがある。

支石と題字の部分は残っているが、 肝心の碑文はなくなっている。

のちの高麗朝にいたってわざと消したのである。

そのような例は他にもある。

伝わる話しによると、金富軾(キム・ブシク)は『三国史記』 を書き終わったあと、参考にした古い記録をすっかりなくさせたという。

それで、わが 国本来の精神、思想のおもかげは失われてしまった。

金富軾はもともと中国崇拝主義者 であったので、彼の目には、わが国の古くからの言い伝えや考えがみな俗っぽいものに しか映らなかったのだろう。

それで、こういうものを恥と思って全部を漢文式に直してしまい、古くから伝わるものをことごとくなくさせた。

『苦難の韓国民衆史』(咸錫憲著)

真智王の孫。

●文武王(在位661〜681)

姓は金。名は法敏。14代新羅王。

武烈の息子。

●神文王(在位681〜692)

姓は金。名は政明。15代新羅王。

文武の息子。

●孝昭王(在位692〜702)

姓は金。名は理洪。16代新羅王。

神文の息子。

●聖徳王(在位702〜737)

姓は金。名はヘ基。17代新羅王。

神文の息子。

●孝成王(在位737〜742)

姓は金。名は承慶。18代新羅王。

聖徳の息子。

●景徳王(在位742〜765)

姓は金。名は憲英。19代新羅王。

聖徳の息子。

●恵恭王(758〜)(在位765〜780)

姓は金。名は乾運。20代新羅王。

景徳の養子。

幼くして即位。悪政により反乱が続発。

殺害され、王朝は滅亡した。

混乱期

●金志貞(在位780)

姓は金。名は志貞。

反乱をおこし王たちを殺害する。

宣徳王と元聖王に鎮圧される。

●宣徳王(在位780〜785)

姓は金。名は良相。21代新羅王。

自称奈勿10世孫。っていうか他人じゃんか。

母は聖徳王の娘。

王を殺した反乱者を倒し即位。

元聖王朝

●元聖王(在位785〜799)

姓は金。名は敬信。22代新羅王。

自称奈勿12世孫。世間一般ではこれを他人という。

宣徳王の盟友。

前王の後継者がいなかったため群臣に推戴されて即位。

…というが実際のところはどうだか。

完全に別王朝。

●昭聖王(在位799〜800)

姓は金。名は俊。23代新羅王。

元聖の孫。太子仁謙の息子。

●哀荘王(在位800〜809)

姓は金。名は。24代新羅王。重煕

●憲徳王(在位809〜826)

姓は金。名は彦昇。25代新羅王。

元聖の孫。

哀荘王を殺害。

●興徳王(在位826〜836)

姓は金。名は景徽。26代新羅王。

元聖の孫。

●僖康王(在位836〜838)

姓は金。名は俤ヘ。27代新羅王。

元聖のひ孫。

●閔哀王(在位838〜839)

姓は金。名は明。28代新羅王。

元聖のひ孫。

僖康王を殺害。

●神武王(在位839)

姓は金。名は佑徴。29代新羅王。

元聖のひ孫。

閔哀王を殺害。

●文聖王(在位839〜857)

姓は金。名は慶膺。30代新羅王。

神武王の息子。

●憲安王(在位857〜861)

姓は金。名は誼請。31代新羅王。

元聖のひ孫。神武王の弟。

憲安王に王子が産まれたとき、「この子は国を滅ぼす不吉な子だ」との占いが出た。

王は仕方なくこの王子を殺させた。しかし実は王子は死んでいなかった。

刺されて片目を失ったものの、乳母が実家に隠し命拾いをしたのだ。

この片目の王子は乳母の子として村で育った。

片目の王子はやがて成長し、自分が新羅王朝に殺されかけたことを知った。彼は新羅を強く恨んだ。

そして、彼は弓裔と名乗り反乱を起こした。

憲安王の息子は、のちに本当に新羅を滅ぼすことになったのだ。

しかし、当の憲安王はそのようなことを知ることも無く在位4年で死去。

後継ぎの息子を殺してしまっていたため(実は生きていたのだが) 遠縁の景文王が跡を継いだ。

●景文王(在位861〜875)

姓は金。名は膺廉。32代新羅王。

僖康王の孫。

●憲康王(在位875〜886)

姓は金。名は。代新羅王。

景文王の長男。

●定康王(在位886〜887)

姓は金。名は晃。代新羅王。

景文王の次男。憲康王の弟。

病弱なため、在位2年で病死した。

死の病を得た王は病床で 「私はもう死ぬ。私には子供がいない。妹の曼は賢く王にふさわしい。

善徳・真徳女王の先例に従え」と遺言。これに従い真聖女王が即位した。

●真聖女王(在位887〜897)

姓は金。名は曼。代新羅王。

景文王の娘。憲康王・定康王の妹。

善徳女王・真徳女王のような優秀な女王とは違い、乱れた政治を行った。

お気に入りの人物ばかりをひいきすることがあったらしい。

3年、各地で反乱続発。

5年、山賊の梁吉・弓裔が略奪を開始。

女王は農民出身の武将・甄萱を登用し重用したが 6年、野望を持つ甄萱は反乱。

8年、山賊の弓裔も攻め寄せ、混乱を抑えることができなくなった。

9年、兄の子の嶢を後継者に指名。

この甄萱・弓裔の反乱を受け、「不徳のいたすところ」として引責退位。

嶢が孝恭王として即位した。真聖女王は直後に死去。変死?

●孝恭王(在位897〜912)

姓は金。名は嶢。代新羅王。

憲康王の息子。

各地の反乱が続くなか真聖女王から位を譲られ即位。

甄萱の後百済と弓裔の後高句麗が南北から競って新羅に攻め込み 新羅王はなすすべもなかった。

2年、弓裔侵攻。

5年、甄萱侵攻。

6年、甄萱即位。

8年、弓裔建国。

11年、甄萱侵攻。

13年、弓裔侵攻。

14年年、甄萱・弓裔侵攻。

国土は削られ続け、新羅の衰亡は急激に進んだ。

●神徳王(在位912〜917)

姓は金。名は。代新羅王。

の息子。

前王の死後位を継ぐが甄萱・弓裔の前に無力だった。

●景明王(在位917〜924)

姓は金。名は。代新羅王。

の息子。

弓裔の部下・王建が弓裔を倒し「高麗」を建国した。

新羅王は高麗に実質的に従属し、後百済と戦った。

●景哀王(在位924〜928)

姓は金。名は。代新羅王。恵文王。

の息子。

新羅は高麗の庇護のもとわずかに存続していた。

後百済の攻撃を受け、死亡。

●敬順王(在位928〜935)

姓は金。名は。代新羅王。

の息子。

一応即位したものの国土は全て高麗と後百済のものとなり 新羅王といっても名前だけとなっていた。

ついに高麗に降伏し、その臣下となった。

長い歴史を持つ新羅だが、その末路は「消滅」という寂しいものだった。