- ●〜呪術と迷信の時代から
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中国4000年と言いますが、確認されている最古の中国王朝が「商王朝」です。
のちに「殷」という土地に遷都したので、その後は「殷王朝」と言います。
確認されている、と言いましたが、戦前まで歴史の学問上で
殷王朝は「架空の王朝」だと言われていました。
歴史書『史記』には系図まで残っているのに、なぜでしょう?
歴史書『史記』には
殷の神様が出てきたり、超能力者が登場したり、
その内容は現実ばなれしていたので、
殷は物語のなかの伝説だ、と言われていたのです。
しかし!
日中戦争のまっただなか、
殷墟にて殷の遺跡が発掘され、その存在を証明する
甲骨文字の文書が発見されたのです。
甲骨文字に記された王様の名前は
驚くべき事に歴史書『史記』に記録された系図と一致したのです。
架空と思われた殷の実在が証明されたのです。
トロイアの遺跡もそうです。
かつてトロイアの伝説は作り話だと言われていました。
伝説の中では神様や超人が登塲して活躍します。
だれひとり実在すると思う人はいなかったのです。
シュリーマンが伝説通りの場所に遺跡を発見するまでは。
甲骨文字とは、古代人が占いのために動物の骨に刻んだ文字の事です。
占いたい内容を骨に書き込み、高温で熱して「ひび割れの方向」で判断します。
占いの儀式で嘘を言ってもしかたがないので、その内容はすべて事実だと推測できます。
殷では、全てを占いで決定していたようです。
殷の最後の王様は紂王(ちゅうおう)と言います。
伝説では「優秀だが極悪な王様」で、
「御先祖様を大切にしない」し、
「儀式をしないで遊んでいる」上に、
「戦争ばかりする」ので
反乱をおこされ滅亡した、となっています。
しかし、本当にそうでしょうか?
占いと呪術が全てを決めていた殷王朝。
何か悪いことがあると「祖先の霊のたたりだ」と判断され、
いけにえを殺して祖先に捧げたのです。
奴隸や捕虜が殺されたと言われ、
無意味で残酷な儀式でした。
国は衰えます。反乱が起きます。鎮圧できなくなります。
おそらく紂王は「儀式」を減らしたのです。
改革して、反乱を平定。
しかし国家はすでに弱体化していて手遅れだったのでしょう。
周辺民族の連合軍に攻撃され、滅亡します。
殷を倒した周王朝の軍師が有名な「太公望」です。
彼は「占い・呪術・迷信」のたぐいを信じない、殷王朝とは正反対の人物でした。
彼が戦争を始めようとした時、「大凶」の占い結果が出ました。
しかし太公望は「そんなものは無意味だ」と、
占いの道具を足で踏みつけて壊してしまいます。
そのまま軍を出発させ、殷の大軍に圧勝します。
古い迷信の時代が敗れ、
新しい歴史が始まったのです。
商
- ●商()
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商王朝の王たちは必ず十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)のひとつを名前に使っている。
「政権奪取」した「初代」湯王以前の代々の「商王」を並べると
契、昭明、相土、昌若、曹圍、冥、振、上甲微、報丁、報乙、報丙、主壬、主癸、大乙(湯王)となっている。
上甲微あたりから十干名を持っているもののそれ以前は十干と無関係。
しかも契から湯王まで全て親子相続で、兄弟相続の多い湯王以後の系図と大きく違う。
偉くなる前の記録は、はっきりしていなかったんだろうね。
適当にこじつけた部分があってもしょうがないかな。
でも、政権についた湯王以後の歴史は彼等もはっきりと自覚していたみたい。
…あたりまえか。
- ●契
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商王朝の創始者。せつ。
帝?の
帝舜のもとで働く。
簡狄が燕の卵を飲んで生んだ。
- ●相土
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馬車を発明。
- ●冥
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治水中に溺死。
- ●王亥
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名は振。
牛飼いを始める。
牛車を発明。
- ●上甲微
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名は微。
商の一族のなかで甲乙丙…という「十干」名を最初に使った人物。
- ●報丁
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名は。
- ●報乙
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名は。
- ●報丙
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名は。
- ●主壬
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名は。
- ●主癸
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名は。
- ●湯王(在位13年)
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姓は子。名は天乙。大乙。唐。湯。成湯。初代商王。とうおう。
主癸の息子。
伊尹という名臣による補佐を得て
暴政をふるう夏王朝の桀王と戦い、これを放伐。
王(天子)となる。
- ●伊尹
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名は阿衡。湯王の臣下。盟友。実質的な商王朝の創始者。いいん。
湯王に仕えるため料理人として湯王に近づき、
味の話にたとえて政治の理想を語り臣下に採用されたという。
- ●太丁
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姓は子。名は太丁。湯王の太子。たいてい。
外丙・中壬の兄。
二代目を継ぐはずだったが湯王より先に死んだため即位することはなかった。
- ●外丙(在位3年)
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姓は子。名は外丙。卜丙。2代商王。がいへい。
湯王の息子。太丁の弟。
- ●中壬(在位4年)
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姓は子。名は中壬。仲壬。3代商王。ちゅうじん。
湯王の息子。太丁・外丙の弟。
書物によっては外丙・中壬の記事がなく湯王から直接4代太甲につながるものもある。
甲骨文字の文章に登場しない。
- ●太甲(在位33年)
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姓は子。名は太甲。太宗ともいう。4代商王。たいこう。
太丁の息子。外丙・中壬の甥。
行いが悪かったので在位3年にして大臣・伊尹により逮捕され幽閉される。
幽閉3年で「反省」したため伊尹に許され復位したという。
しかし『竹書紀年』によると「伊尹が即位し7年間在位したのち太甲に殺された」となっている。
- ●沃丁(在位29年)
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姓は子。名は沃丁。芍丁。5代商王。よくてい。
太甲の息子。
伊尹の記録をまとめたという。
甲骨文字の文章に登場しない。
- ●太庚(在位25年)
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姓は子。名は太庚。大庚。6代商王。たいこう。
太甲の息子。沃丁の弟。
- ●小甲(在位17年)
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姓は子。名は小甲。高。7代商王。しょうこう。
太庚の息子。亳(はく)で執政。
- ●雍己(在位12年)
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姓は子。名は雍己。中己。8代商王。ようき。
太庚の息子。小甲の弟。
弱体化。
- ●太戊(在位75年)
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姓は子。名は太戊。9代商王。たいぼ。
太庚の息子。小甲・雍己の弟。
国勢を再興させたため中宗といわれる。
- ●中丁(在位13年)
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姓は子。名は中丁。仲丁。10代商王。ちゅうてい。
太戊の息子。
毫から敖に遷る。
- ●外壬(在位15年)
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姓は子。名は外壬。卜壬。11代商王。がいじん。
太戊の息子。中丁の弟。
南方遠征。
- ●河亶甲(在位9年)
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姓は子。名は河亶甲。戔甲。12代商王。かたんこう。
太戊の息子。中丁・外壬の弟。
弱体化。
- ●祖乙(在位19年)
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姓は子。名は祖乙。13代商王。そいつ。
河亶甲の息子。ただしこれは『史記』によるもので甲骨文では中丁の息子であると記されている。
また甲骨文字や『竹書紀年』では中宗とも記される。
- ●祖辛(在位16年)14?
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姓は子。名は祖辛。14代商王。そしん。
祖乙の息子。
- ●羌甲(在位25年)
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姓は子。名は羌甲。芍甲。羌甲は甲骨文によるもので『史記』では沃甲となっている。15代商王。きょうこう。
祖乙の息子。祖辛の弟。
- ●祖丁(在位32年)
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姓は子。名は祖丁。16代商王。そてい。
祖辛の息子。
- ●南庚(在位25年)(在位前1433?〜前1409?)
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姓は子。名は南庚。17代商王。なんこう。
『史記』では沃甲の息子となっているが甲骨文では祖辛の息子となっている。。
- ●陽甲(在位7年)(在位〜)
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姓は子。名は陽甲。羊甲。象甲。18代商王。ようこう。
祖丁の息子。
殷(商)
- 第1期「力強い文字」旧派勃興期
- ●盤庚(在位〜)
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姓は子。名は盤庚。19代商王。ばんこう。
祖丁の息子。陽甲の弟。
- ●小辛(在位〜)
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姓は子。名は。代商王。しょうしん。
祖丁の息子。陽甲・盤庚の弟。
- ●小乙(在位〜)
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姓は子。名は小乙。斂。代商王。しょういつ。
祖丁の息子。陽甲・盤庚・小辛の弟。
- ●武丁(在位59年)
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姓は子。名は武丁。昭。代商王。ぶてい。
小乙の息子。
鬼方・人方などに対する遠征を盛んに行い勢力を広げ、高宗と呼ばれる。
甲骨文字は、この武丁の頃以後からのものしか発見されていない。
しかし「甲骨」自体が祖先をまつる目的で使われるものなので
武丁以前の王の名などを甲骨から読み取ることができる。
彼の姿は宮城谷昌光の小説『沈黙の王』に描かれている。読んでみて。
傅説という奴隷の才能をみいだし、登用したいと思った武丁は
夢のお告げで聖人を見た、それはこんな男だ、と言って傅説の似顔絵を示し
傅説を探させ、見事宰相に登用することができた。
初めて「文字」をつくりだした。
25年、祖己を追放。
- ●婦好
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武丁の奥さん。ふこう。
殷墟で墓が発掘され、独自の兵力を持っていたことがわかった。
記録に残ってはいなかったが考古学的発見により
当時の女性の地位の高さが実証された。
- ●祖己
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姓は子。名は祖己。孝己。そき。
武丁の息子。孝行息子だったため孝己ともいわれる。
母である王妃が死に、ほかの王妃に讒言されて追放され、即位することなく死亡。
実母=婦好?義母=婦好?
甲骨文字のなかでは王として扱われている。
殷(商)第2期「正確な文字」新派安定期
- ●祖庚(在位〜)
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姓は子。名は。代商王。そこう。
武丁の息子。祖己の弟。
祖甲に位を譲られ即位。
- ●祖甲(在位〜)
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姓は子。名は祖甲。帝甲。代商王。そこう。
武丁の息子。祖己・祖庚の弟。
兄に位を譲り王室を去り野に下っていた。
兄の死により即位。
貧民の窮乏をあわれみ善政をしいたが
殷の衰退を招いたという。
福祉に力を入れすぎて国家予算がパンクしたってとこですか。
殷(商)第3期「弱弱しい文字」新派衰弱期
- ●廩辛(在位〜)
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姓は子。名は。代商王。りんしん。
祖甲の息子。
『帝王世紀』では馮辛と記される。
甲骨文字の文章に登場しない。
- ●康丁(在位前1219?〜前1199?)
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姓は子。名は康丁。代商王。康丁
祖甲の息子。
『史記』では庚丁と記される。
殷(商)第4期「力強い文字」旧派再興期
- ●武乙(在位〜)
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姓は子。名は。代商王。ぶいつ。
康丁の息子。
2年、毫から河北に遷る。
4年、落雷にうたれ死亡。
神や天というものを軽蔑し、神像と賭け事をして負かしたり天に矢を放ったりした。
極めて迷信的な殷王朝にあって、異色の王。たぶん織田信長のご先祖(うそ)。
迷信を信じない現代人である私としては、その行動は少し共感できる。
- ●文武丁(在位〜)
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姓は子。名は。代商王。ぶんぶてい。
武乙の息子。
『史記』では太丁と記されている。
『竹書紀年』では文丁と記されている。
娘婿・周公季歴を殺害。
殷(商)第5期「正確な文字」新派爛熟期
- ●帝乙(在位〜)
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姓は子。名は乙。帝乙。羨。文武帝乙宗。代商王。ていいつ。
太丁の息子。
周の姫昌(文王)を西伯に任命する。
- ●紂王(在位〜)
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姓は子。名は受。帝辛。代商王。
帝乙の息子。
頭脳の回転が速く理解力が高く弁が立ち
素手で猛獣を倒すほどの怪力を持っていたという。
10年、東方に遠征。
11年、帰国。
20年、東方に遠征。
22年、帰国。
23年、文王を投獄?
25年、青銅器鋳造。
29年、文王を釈放?
- ●妲己だっき
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姓は己。名は妲。有蘇氏の娘。
紂王のきさきとなる。
紂王を悪行に走らせた張本人だという。
酒池肉林の宴を催し、残虐な刑罰で人々を苦しめたという。
殷の滅亡の日に紂王と共に自殺。
殷を破滅させるために周公旦が送り込んだ女だともいわれる。
(旦に女偏をつけると妲になる)
- ●蜚廉ひれん
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姓は贏。名は廉。飛廉。
小国・秦の国王だったが周に滅ぼされ、紂王の配下になる。
神速。
彼の息子・季勝の子孫は戦国七雄・趙国を興した。革の子孫は秦の始皇帝に続く。
- ●悪来あくらい
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姓は贏。名は来。悪来。
蜚廉の息子。紂王の配下になる。
怪力。
孤竹国
- ●伯夷と叔斉
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孤竹国王の息子たち。
国王が死んだ時、位をお互いに譲り合って、
ついにふたりとも王位につかなかった。
ふたりは揃って周の文王姫昌のもとに向かう。姫昌の評判が良かったからだ。
その頃姫昌は死に、後継ぎの武王姫発が紂王打倒の軍を進めていた。
ふたりは姫発の前に立ちふさがり、「それは謀叛ではないか!」と言って止めた。
紂王が死に、殷が滅び、周の天下になってもふたりは「謀反人・周」を認めず、
周の食べ物は受け取れない、と言ってついに餓死した。
理想を実行した人物として誉めるべきなのだろうが…・そこまでやるか!
朝鮮
- ●箕子
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伝説上の朝鮮王。きし。姓名は「子胥余」。
文丁の息子。帝乙の弟。紂王の叔父。
殷の紂王が暴虐をつくしていたとき、殷王族の箕氏がこれをいさめた。
しかし紂王はこれを聞かず、殺されそうになったため箕子は狂人のふりをしてのがれた。
のちに周の武王が紂王を倒したのだが、武王は箕子を尊重し、
朝鮮王に任命したという。
しかし彼の存在を肯定する考古学的根拠は全くない。
高麗王朝や李氏朝鮮の時代には中国中心の儒教思想により朝鮮人に尊敬され
朝鮮の建国者として墓(捏造)が作られたりした。
近代朝鮮では、さらに偏狹な朝鮮国粋主義が強くなり
「外国人が建国者とは許せない」と思想的に否定された。(この項目、文章カタイ)
殷(復興)
- ●武庚禄父
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紂王の息子。
宋
- ●微子啓
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姓は子。名は啓。帝乙の息子。紂王の兄。