琉球王朝

目次

琉球古代王朝

舜天王朝

英祖王朝

察度王朝

第一尚氏王朝

第二尚氏王朝

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小林教授
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琉球

現在、沖縄県となっているこの地域は、対外的に琉球と呼ばれていた。

琉球に住む人々の祖先は日本本土の人々の祖先と同じであり、 言葉も文化も共通している。

しかし国家・国境が確立しはじめた頃から地理的に離れた琉球文化は 自然に独自化していった。

尚巴志により「琉球国」として統一されるまでは小国がお互いに勢力を争う戦国時代であり、様々な歴史ドラマが繰り広げられた。

しかし記録が少ないこともあり、不明な部分も多い。

統一琉球王国は中国や日本本土との交易で大変栄えた。

のち薩摩の島津支配下となるが人々の努力により繁栄を続けることができた。

明治維新により一旦沖縄藩となり、さらに沖縄県へ再編され王国は消滅した。

按司(あじ)=地方領主。日本本土の大名にあたる。

天孫王朝

天孫王朝

伝説上の王朝。

25代17802年間。だそうです。無茶を言ってはいけません。

753年、日本へ帰る途中であった阿倍仲麻呂の乗る遣唐使船が阿児奈波(おきなわ)に漂着。

そこから出航するものの船は風に押し戻され、中国に戻ってしまう。

仲麻呂は帰ることができなかった。

利勇

利勇

天孫王朝の臣下。天孫王朝を滅ぼした。

舜天王に滅ぼされた。

舜天王朝琉球

舜天王(1166〜1237)(在位1187〜1237)

名は尊敦。そんとん。しゅんてんおう。

源為朝と大里按司の妹の息子。浦添按司。中山王。

…であると伝えられているがさだかではない。

反逆者・利勇を倒し浦添に王朝をひらいた。

舜馬順燕(1185〜1248)(在位1238〜1248)

名は舜馬順燕。しゅんばじゅんき。

舜天の息子。

義本(1206〜?)(在位1249〜1259)

名は義本。

舜馬順燕の息子。

疫病の発生などの責任を取り大臣であった英祖に譲位。

その後、彼がどうなったかは不明。

惨殺されたともいわれる。

英祖王朝琉球

英祖(1228〜1299)(在位1260〜1299)

名は英祖。えいそ。

浦添恵祖世主(うらぞええぞのよのぬし)の息子。英祖日子(えぞのてだこ)。

自称天孫王朝の末裔。伊祖(いそ)城(ぐすく)を領する。

舜天王朝の禅譲を受け即位。

日本から仏教を受容。

1296年、元(モンゴル)・成宗の攻撃を撃退する。

大成(1247〜1308)(在位1300〜1308)

名は大成。たいせい。

英祖の息子。

英慈(1268〜1313)(在位1309〜1313)

名は英慈。えいじ。

大成の息子。

八重瀬(やえじ)?

玉城(1296〜1336)(在位1314〜1336)

名は玉城。たまぐすく。

英慈の息子。

だらけた政治で国を乱した。

北山(今帰仁按司)と南山(大里按司)が独立していった。

と言っても、元々浦添王朝が全琉球を支配していたわけではないので 浦添王朝と同様のものが南山・北山にも生まれたってことだな。

西威(1328〜1349)(在位1337〜1349)

名は西威。せい。

玉城の息子。伊礼(いりい)? 10歳で即位。国威を回復できず王朝は滅亡する。

察度王朝琉球(三山時代)

察度(1321〜1395)(在位1350〜1395)

名は察度。さっと。

奥間大親の息子。浦添按司。浦添謝名。謝名思い(じゃなもい)。

中山王。琉球中山王。

天女の息子。そのエピソードは昔話「天女の羽衣」そのまんま。

日本からやってきた貿易船に載せられていた鉄をまるごと買って 農具を作らせ、農民から喜ばれたそうな。

西威王の死後、後継者の幼さ(5歳)を理由に即位。

例によって「群臣に推戴されて…」である。

北山王(帕尼芝/はにじ)・南山王(承察度/うふざと)と共に 琉球島を三分割して統治した。

北山・南山と競って中国・明王朝に朝貢した。

留学生を送り、知識人を招いた。

小国分立の状態だった琉球だったが このころ「山北」「中山」「山南」の三王国にまで統一が進んでいた。

中でも中山は最も勢力が強く、明の洪武帝に朝貢して冊封された。

琉球がひとつの「国」として対外的に認知されたのはこの時が初めて。

彼は琉球の対外的歴史上に登場した最初の人物。

続いてライバルの山北・山南も中国に朝貢した。

この時期を「琉球三山時代」という。

彼の死後、息子の武寧(1356〜1406)が継いだが 尚巴志によって滅ぼされた。

武寧(1356〜1406)(在位1396〜1406)

名は武寧。ぶねい。

察度の息子。中山王。

建文帝と永楽帝の抗争中だった明王朝に使者を派遣。永楽帝から中山王に冊封された。

南山の佐敷按司・尚巴志の攻撃を受け滅亡。

第一尚氏王朝琉球

尚思紹(?〜1421)(在位1406〜1421)

鮫川大主の息子。南山・佐敷の領主。しょうししょう。

息子の尚巴志が中山を滅ぼした時に王に推された。

尚巴志(1372〜1439)(在位1421〜1439)

姓は尚。名は巴志(はし)。勢治高真物(せじたかまもの)。

尚思紹の息子。南山の佐敷按司(1392〜)。しょう・はし。

貿易船に載せられていた鉄をまるごと買って 農具を作らせ、農民から喜ばれたそうな。

どっかで聞いたような…。

舜天王朝、察度王朝、と続いた琉球王朝。

しかし琉球は山北・中山・山南の三山に分裂した状態だった。

尚巴志は山南(南山)の有力者の息子。彼は中山を攻撃した。

中山は察度の息子・武寧が治めていたが巴志により滅亡。

尚巴志は首里を首都とし父親を中山王にした(1406)。

さらに山北を攻撃し併合(1416)。

父親が死んだため、中山王に即位(1421)。

そして山南も併合し(1429)、琉球最初の統一王朝が誕生した。

これを琉球第一尚氏王朝という。

1402年、南山の島添大里按司を滅ぼす。

1406年、浦添の中山王武寧を滅ぼす。

1416年、今帰仁の北山王攀安知(はんあんち/元羽地按司?)を滅ぼす。

1429年、島尻大里の南山王他魯毎(たろまい)を滅ぼす。

明から尚の姓を与えられる。

尚忠(1391〜1444)(在位1439〜1444)

姓は尚。名は忠。

尚巴志の息子。

1422年、北山監守となる。

尚思達(1408〜1449)(在位1444〜1449)

姓は尚。名は思達。

尚忠の息子。

尚金福(1398〜1453)(在位1449〜1453)

姓は尚。名は金福。

尚巴志の息子。尚忠の弟。

1441年、足利義教は恩賞として島津忠国に琉球国を与える。

尚泰久(1415〜1460)(在位1453〜1460)

姓は尚。名は泰久。越来(こえぐ)王子。那之志与茂伊(なのしよもい)。

尚巴志の息子。尚忠・尚金福・尚布理の弟。

金福の死後、王位をめぐり金福の息子・志魯と弟・布理が殺し合った。

金丸の推薦を受けた泰久は即位。

1458年、中山の勝連按司阿麻和利(あまわり)が中城(なかぐすく)按司の護佐丸(ごさまる)を讒訴し滅ぼす。

中山の大半を支配下においた阿麻和利は反乱し首里城を襲撃。

しかし王朝側は阿麻和利を撃退。勝連に退却した阿麻和利は滅ぼされた。

尚徳(1441〜1469)(在位1460〜1469)

姓は尚。名は徳。八幡王子。

尚泰久の息子。

彼の死後、内間金丸により王朝は奪われ、第一尚氏王朝は滅ぼされる。

極悪な王であったと記録されているが、その内容は紂王のそれとおんなじ。

要するに、「負ければ賊軍」。最後の王であったがために新王朝から押された烙印ってとこだな。

馬鹿殿だったのか。

1466年、喜界島遠征。

第二尚氏王朝琉球

金丸/尚円(1415〜1476)(在位1469〜1476)

姓は尚。名は円。内間金丸(うちまかなまる)。

尚稷の息子。尚泰久の部下。内間に住む。

尚徳の死後、群臣に推されて即位。

尚徳を暗殺したのではないかという疑いもある。

前王朝と同系であると示す必要があったため尚円と改名する。

同じ尚姓でも前王朝とは全く違う系統なので 彼の王朝を第二尚氏琉球という。

尚宣威(?〜1476)(在位1476)

姓は尚。名は宣威。

尚稷の息子。尚円の弟。

尚真の母に糾弾され変死。

尚真(1465〜1526)(在位1476〜1526)

姓は尚。名は真。於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。

尚円の息子。幼くして即位したため母が執政する。

刀狩りを行う。地方の軍事力を奪い按司を無力化。反乱は鎮圧した。

地方の独自性を奪い、以後反乱は減った。

1516年、足利義晴が三宅国秀に琉球遠征を許可。出兵した三宅は島津に討たれる。

妹・音智殿茂金(おとちとのもいかに)を初代聞得大君(きこえおおぎみ)にする。。

尚清(1497〜1555)(在位1526〜1555)

姓は尚。名は清。

尚真の息子。

尚元(1528〜1572)(在位1555〜1572)

姓は尚。名は元。

尚清の息子。

1570年、薩摩島津貴久の使者来る。

尚永(1559〜1588)(在位1572〜1588)

姓は尚。名は永。

尚元の息子。

157年、薩摩島津義久の使者来る。

1575年、薩摩島津の追求を受ける。

1582年、秀吉が亀井琉球守茲矩に琉球を与える。

1587年、秀吉、薩摩島津を撃破。

尚寧(1564〜1620)(在位1588〜1620)

姓は尚。名は寧。

尚宣威の孫であり尚真の長子だったのが尚維衡。

維衡の息子が尚弘業。弘業の息子が尚懿。懿の息子が尚寧。つまり尚寧王だ。

1591年、朝鮮出兵の支援を要求される。

1600年、家康、関ヶ原で薩摩島津を撃破。

1606年、明国から冊封される。薩摩島津、家康から琉球出兵の許可を得る。

1609年、薩摩・島津家久の攻撃を受け降伏。占領される。

王は薩摩に連行され、2年間抑留。その支配下となる。

1610年、王が島津家久により江戸に連行される。家康・秀忠が謁見。

1611年、王帰国。

秀吉や家康と戦ってきた島津兵と長い平和に慣れた琉球兵では全く勝負にならなかったようだ。

尚豊(1590〜1640)(在位1620〜1640)

姓は尚。名は豊。佐敷王子。

尚元の孫。尚久の息子。

1609年、薩摩に連行される。

1615年、帰国。

1620年、島津の意向により即位。

1633年、明に冊封される。以後、薩摩支配下の「擬装冊封」が続く。

尚賢(1625〜1647)(在位1640〜1647)

姓は尚。名は賢。

尚豊の息子。

尚質(1629〜1668)(在位1647〜1668)

姓は尚。名は質。

尚豊の孫。尚享の息子。

1650年、羽地朝秀が中山世艦を編集。

1658年、羽地朝秀が使者として薩摩に渡る。

1666年、羽地朝秀が摂政となる。財政・文化政策の改革を行う。

羽地朝秀は舜天王が源為朝の息子であるという伝説を持ち出し強く主張した。

島津家は「源頼朝の末裔」を主張しているが、これに対抗したのか。

尚貞(1645〜1709)(在位1668〜1709)

姓は尚。名は貞。

尚質の息子。

1675年、羽地朝秀死亡。

1701年、蔡鐸、中山世譜を編集。

1708年、蔡鐸の息子・蔡温(具志頭文若)、中国に渡る。

尚純(?〜?)

姓は尚。名は純。

尚貞の息子。

尚益(?〜1712)(在位1709〜1712)

姓は尚。名は益。

尚純の息子。

1710年、蔡温帰国。

1711年、蔡温、尚敬の師傅となる。

尚敬(1700〜1751)(在位1712〜1751)

姓は尚。名は敬。

尚益の息子。

蔡温の指導により現実的な改革を行う。

1716年、蔡温、清国に渡る。

1719年、冊封される。

1728年、蔡温を三司官とする。

尚穆(1739〜1794)(在位1751〜1794)

姓は尚。名は穆。

尚敬の息子。

尚哲(?〜?)

姓は尚。名は哲。

尚穆の息子。

尚温(1784〜1802)(在位1794〜1802)

姓は尚。名は温。

尚哲の息子。

尚成(1800〜1803)(在位1802〜1803)

姓は尚。名は成。

尚温の息子。

(1787〜1834)(在位1803〜1828)

姓は尚。名は

尚哲の息子。

尚育(1813〜1847)(在位1828〜1847)

姓は尚。名は育。

の息子。

尚泰(1843〜1901)(在位1847〜1879)

姓は尚。名は泰。

尚育の息子。

1854年、ペリー来航。琉米修好条約締結。

1866年、末期の清国より最後の冊封を受ける。

1868年、明治維新。

1871年、廃藩置県。宮古島の船が台湾に流され、殺害される。日本政府は清国に抗議。

1872年、琉球国は沖縄藩となる。尚泰は沖縄藩王となる。

1876年、清国に最後の進貢船を送る。

1879年、沖縄藩は沖縄県となる。琉球王朝消滅。王は東京に移った。

廃藩置県により日本各地で「藩」が消えていくなか 琉球では逆に今までに無かった「琉球藩」が新設された。

尚典(〜)

姓は尚。名は典。

尚泰の息子。