注
古代史なので推測・空想で書いてます。まるまる鵜呑みにしないでね。
生没年とか根拠薄弱だし。
あまり本気になって「あなたの説はすばらしい」とか言われても困る。
批判されるのならまあいいけど。
仁徳王朝
- 神功皇后
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■神武=崇神天皇が創立した奈良県の崇神幕府。しかし仲哀天皇の時、滅亡する。
九州にまだ存続した宗教教祖・女王の命令で南九州・南朝鮮への遠征に出た天皇は、北九州で暗殺される。女王=神功皇后? ■仲哀天皇の死後、奈良県に帰ってきたのは神功皇后と仲哀の子供だという幼児(応神=仁徳)だった。
■鎖国的だった倭国はこの革命以来急激に海外進出していく。倭の五王初代の「倭王讃」=仁徳天皇?
- 応神天皇(330〜394)
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応神と仁徳の記録は混乱しています。
この年表では「神功皇后が連れてきた幼児天皇・新王朝初代天皇」を仁徳と命名。
「仁徳の叔父?父親?記録に現れない謎の実力者」に応神と命名しました。
「仲哀天皇が変死した翌年、神功皇后が仁徳天皇を産んだ」という設定です。
- 仁徳天皇(393〜427)(在位393〜427)
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■倭王讃=仁徳の頃、倭国は非常に威勢が良かった。中国南朝に柵封され、高句麗と対立。
百済と新羅の王子が人質として同時に倭国に来ていた時期もあった。
■高句麗と倭国。ふたつの強国に挟まれた百済と新羅は、この頃かなり厳しい状況だった。
もちろん高句麗にも人質を送っていた。
■有名な好太王碑が作られたのがこの頃。高句麗の王様が作った。
「我が国は強い!好太王は偉い!手強い倭国の軍勢を撃ち破った!」と書いてある。
自慢のたねになるのだから、倭国の軍は実際かなり強かったのだろう
- 武内宿禰(309〜?)
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記紀の記録でしばしば歴代天皇は100歳を超えている。大変不自然です。
しかも、天皇の偉大さを示すために寿命を水増ししたにしては中途半端な数字です。
しかし古代倭国では年に二回「年末」があったという説もあり、それなら年齡の数字は半分になります。
年表はこの仮説に従い記述しています。
そうすると応神王朝までの天皇は、全て自然な年齡で死んでいることになります。
また、三代の天皇に仕えて、少なくても300歳を超えているはずだ、と言われてきた (否定論者からはこれにより記紀は嘘だと批判された)武内宿禰ですが、 年表を見てもらえば觧りますが彼も70歳程生きれば十分三代に仕える事ができます。
死亡年は不明です。一応99歳まで記入してありますが。
- 履中天皇(401〜432)(在位427〜432)
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仁徳天皇の息子。
- 反正天皇(408〜437)(在位432〜437)
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倭王珍。
仁徳天皇の息子。履中天皇の弟。
- 允恭天皇(416〜454)(在位437〜454)
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倭王済だと思われる。
仁徳天皇の息子。履中天皇・反正天皇の弟。
- 安康天皇(439〜466)(在位454〜466)
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倭王興だと思われる。
允恭天皇の息子。
倭王済(允恭)の死後、興(安康)が中国に使者を派遣します。
王子として名乗っているので、倭王ではなく世子興。
- 雄略天皇(428〜489)(在位466〜489)
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倭王武だと思われる。
允恭天皇の息子。
倭王武(雄略)の時、高句麗の攻撃によって百済が一時滅亡します。
雄略は盛んに半島に派兵しています。
中国に出した文書には「東(蝦夷)と西(熊襲)と海北(半島)を平定した」と書いています。
日本帰りの百済王・東城王や日本生まれの百済王・武寧王など… 再興後の百済では、倭国に縁の深い王が続きます。
対外的な影響力という視点から見れば彼の時代が倭国の最盛期ということができると思います。
- 清寧天皇(453〜493)(在位489〜493)
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雄略天皇の息子。
英雄・倭王武(雄略)は死んだ。次の清寧天皇は、生まれつきの白髪だったそうだ。
おそらくアルビノ(色素が無くなる病気)だったのだろう。
先代の拡大政策と病弱な後継ぎ。王朝は弱体化していく。清寧は死んだ。子供は無い。
- 飯豊
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履中天皇の孫。
市辺押磐皇子の娘。
清寧天皇の死後しばらく政治を行ったという。
- 顕宗天皇(464〜501)(在位493〜501)
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履中天皇の孫。
市辺押磐皇子の息子。
庶民として暮らしていたが、皇位継承者がいなくなってしまったため 探し出されて即位した。
- 武烈天皇(492〜509)(在位501〜509)
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■中国で梁王朝が成立した時、景気づけに各国王の位を無条件で昇進させた。
中国では雄略の死を知らなかったので、そのまま「倭王武」に官位を与えた。武烈天皇の時。
■武烈天皇は邪悪な王者だったと伝わっている。しかしそれは彼が最後の王だったからだ。
前王朝の王が悪でなければ、新王朝の大義名分が立たないから。
■武烈は死んで、応神天皇の王朝は消滅した。
後継者、つまり応神王朝正統の王女、手白香姫の夫の地位をめぐって争いが起きた。
(1)京都府の倭彦、(2)福井県の継体。そして王朝のライバルとして(3)九州の筑紫君磐井が現れる。
さらに弱体化した王族に替わって強力になってきた大伴・物部・蘇我などの豪族たちも 権謀術数のかぎりをつくした。
■最後の勝者は継体天皇。豪族たちの支持を得て、愛知県の実力者とも同盟。倭彦は逃亡。
新羅との同盟を図る九州の磐井を討伐する。
安閑・宣化両天皇は尾張の実力者の娘との間に産まれた。
欽明天皇の母は仁徳王朝正統の王女、手白香姫。
仁徳王朝は平和的に消滅し、婿である継体の系統王朝に移行していった。
- 倭の五王 メモ
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■倭王讃=応神(誉田別・ほむたわけ)ほめる、という意味。
■名称不明の倭王=履中 ■倭王珍=反正(瑞歯別・みずはわけ)めずらしい、という意味。
■倭王済=允恭(済=調整する、允=調和の取れた) ■世子興=安康(「こう」つながり?) ■倭王武(1)=雄略(幼武・わかたけ)武 ■倭王武(2)=武烈(中国の一方的な叙勲で彼とは無関係) ■文明度が高い事がそのまま軍事力の強さには繋がらない。
劉邦は「野蛮」な匈奴に負け、百済は「野蛮」な倭国より弱かった。