百済

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百済

●百済

朝鮮半島南西部・現在の韓国西半分を占めた古代国家。

北方民族系高句麗王族の一派が南下し韓族を支配したのが国の始まりだという。

三国史記などの歴史書には日本書紀の「欠史八代」のような水増しされた記述があるが、それを排除すれば345年即位の近肖古王が初代のようだ。

遠交近攻の定石に従い、中国北朝〜高句麗〜新羅のラインに対抗する中国南朝〜百済〜日本の同盟が発生。

そのため日本との交流が深かった。

日本(日本書紀)では「くだら」と呼ばれるが、これは百済語で「大きな村」という意味だそうだ。

660年、中国・唐により占領され滅亡。

663年、亡命政府も消滅。

●温祚王(在位前18?〜28?)

姓は余。名は温祚。

高句麗初代・朱蒙の息子。

伝説上の初代百済王。

架空の人物。

古い歴史を持つ高句麗との関係をむりやりこじつけた結果だと思われるが百済王族が高句麗の民族に近いというところから発想されたものだとも考えられる。

つまり、高句麗と百済が共有する神話があった、ということ。

●邑君 臣智(在位245頃)

百済の前身・馬韓の有力族長。

個人名ではなく役職名のようだが不明。

三国志などに登場。魏の毋丘倹によって高句麗が壊滅していたころ、同じく魏の帯方郡太守・弓遵によって馬韓は攻撃され、一度は降伏している。

しかし246年、再び戦いが始まり帯方郡太守・弓遵は戦死。

馬韓各国も打撃をうけ、魏の領土となった。

●近肖古王(在位345〜375)

三国史記によると、百済の5代王は「肖古王」、6代目が「仇首王」だという。

しかし13代目の王も「肖古王」、14代目も「仇首王」だというのだ。

まぎらわしいので便宜上13代・14代のほうを近肖古王・近仇首王と呼んで区別しているのだが…。

どうもこれは日本の「初代・神武天皇」と「10代・崇神天皇」と同様の現象らしい。

つまり、国の歴史を古く見せかけるために初代の年代を過去にさかのぼらせ、しかし初代本来の現実の歴史もまた抹消せず残したため記述上「初代」がふたりになってしまう現象だというのだ。

つまり、現実歴史上の初代は「近肖古王」や「崇神天皇」ということ。

虚構の初代王の年代(前18)が高句麗建国(前37)の頃に近い所から考えると、この虚構は高句麗との対抗上生まれたものと思われます。

百済は4代と21代も同じ「がいろおう(蓋鹵王)」。

紛らわしいのでこのページでは12代までの架空歴史は無視し、近肖古王を初代とします。

姓は余。名は句。日本書紀には速古王と表記される。初代百済王。

ほぼ同時期に勃興した勢力は「新羅初代・奈勿王」と「仁徳王朝初代・神功皇后」。

中国分裂により中国大陸からの影響力が低下し、東アジア各地で同時に自立が進んだのか?

新羅への共同作戦に対する謝礼として日本に七支刀を贈ったのは彼だと思われる。

371年、平壌を攻め落とし高句麗・故国原王を戦死させもしている。

372年、東晋に使者を派遣し楽浪太守に任命されている。

外交にも戦争にも優れた建国の英主。

「余」という姓は彼ら王族が属する「扶余族」の名称に由来するものらしい。元々は扶余という姓だったが、中国風の一字姓に改姓したようだ。

●近仇首王(在位345〜384)

姓は余。名は須。日本書紀には貴首王と表記される。2代百済王。

近肖古王の息子。

●枕流王(在位384〜385)

姓は余。名は。3代百済王。とむるおう。

近仇首王の息子。

東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。

●辰斯王(在位385〜392)

姓は余。名は暉。4代百済王。しんしおう。

近仇首王の息子。

日本書紀によると仁徳王朝より攻撃され、謝罪のため殺害されたというがさだかではない。

●阿華王(在位392〜405)

姓は余。名は阿芳。5代百済王。あかおう。

枕流王の息子。

高句麗・好太王と同世代。

英雄・好太王の率いる高句麗の圧迫に悩む。

399年、日本との通好をはかる(好太王碑の記述)。

402年、日本と同盟するべく息子(のちの腆支王)を日本に人質に送る。

403年、日本との同盟を成立させる。

404年、百済の要請に答え、日本の軍勢が高句麗を攻撃。

405年、阿華王死去。日本より帰国した腆支王が即位。

●腆支王(在位405〜)

姓は余。名は映(腆の誤記かもしれない)。6代百済王。てんしおう。

阿華王の息子。直支王ともいわれる。

皇太子時代、高句麗に対抗するためみずから人質になり日本へ行く。

日本からの援軍をひきだし、高句麗との決戦が行われるなか先代王が死去。

急遽帰国して即位する(その間、末弟が次弟を殺し一時王位を奪うなど混乱があった)。

●久爾辛王(在位420〜427)

7代百済王。くじしんおう。

腆支王の息子。

日本書紀によると、王が幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。

有王(在位427〜455)

姓は余。名は。8代百済王。ひゆうおう。

久爾辛王の息子。

美しく弁が立つ王。

●蓋鹵王(在位455〜475)

姓は余。名は慶。9代百済王。がいろおう

有王の息子。近蓋鹵王ともいう。

高句麗・長寿王による圧迫のなか

461年、人質として弟・昆支が日本へ渡る。

472年、北魏に援軍を要請するが拒否される。

475年、高句麗・長寿王自身が参加した総攻撃の前に首都は陥落。百済は一時滅亡した。

逃亡した息子・文周王が南方で新しく国を再興した。

高句麗からやってきた僧侶の指導に従い寺院を建てるなどの事業を行うが、この僧が実は高句麗の間諜。

百済の国費を浪費させる作戦だったのだと気づいた時にはもう手遅れだった…という話しが残されている。

●昆支

姓は余。名は昆支。

有王の息子。蓋鹵王の弟。

461年、人質として日本へ渡る。

462年、息子の武寧王が日本で誕生。

蓋鹵王の命令で日本に出発するとき、蓋鹵王の妃を自分の妃にしたい、と願い出て、蓋鹵王の妃と共に日本に渡ったが、この妃は妊娠しており、筑紫の国(九州)で産まれたのが武寧王なのだという。

故国へ帰り文周王の重臣として活躍。

477年、死去。重臣が死んだその直後に文周王は殺害された。

●文周王(在位475〜478)

姓は余。名は牟宦Bあるいは宦B10代百済王。

蓋鹵王の息子。日本書紀では蓋鹵王の弟となっている。

高句麗長寿王の総攻撃の前に国が滅びた時、彼は新羅へ援軍要請に出ていた。

しかし新羅に到着した時にはすでに王は捕縛殺害されていた。

やむなく木i満致らと共に逃亡して半島南部にあらたな地盤をかため、百済を再興した。

重臣の昆支が死んだ後、権臣・解仇により殺害された。

●三斤王(465〜480)(在位478〜480)

姓は余。名は壬乞。11代百済王。

文周王の息子。

父・文周王を殺した解仇の傀儡として即位したが

466年、反乱をおこした解仇を倒した。

早死にした。

●東城王(在位480〜501)

姓は余。名は牟大。12代百済王。

日本で生活していた昆支の息子。末多王ともいう。

幼少の頃より優秀で雄略天皇にかわいがられた。

三斤王の急死により百済は混乱状態となったため、雄略天皇は護衛の兵士をつけて彼を百済に送り返し、即位させた。

中国南朝の南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。

臣下の恨みを買い、暗殺された。

●武寧王(462〜523)(在位501〜523)

姓は余。名は隆。13代百済王。

日本で生活していた昆支の息子。日本(島)生まれのため斯麻(しま)とも呼ばれる。日本書紀では「嶋王」と表記。

彼が産まれた「島」とは、佐賀県鎮西町加唐島らしい。

東城王を殺した臣下を斬ることから治世が始まった。

中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇と友好関係を維持し、圧迫してくる高句麗と戦い、また南方にも勢力を広げた。

日本生まれのため日本とも友好的であり、また中国とも友好を保ち、使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王という位を与えられている。

国が一度滅ぼされ、再興後も何代にもわたって王が殺され続けてきた百済を、見事に復活させた英傑。

20世紀になり、彼の王墓が未盗掘の状態で発掘された。

●聖王(在位523〜554)

姓は余。名は明。14代百済王。聖明王ともいう。

武寧王の息子。

日本の欽明天皇と同盟。高句麗からの攻撃を新羅と共同で撃退。

一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。

百済の勢力を大きく広げた。

しかし直後に漢江流域を新羅に奪われる。

新羅への反撃中、突出しすぎた王子(威徳王)が危機に瀕し、その息子を救うため危険な前線に出て王は戦死した。

善光寺縁起によると、インドから渡ってきた仏像「善光寺如来」は中国を経由して一度聖明王の百済に滞在したという。

聖明王はインドの月蓋長者の生まれ変わりだ、と書かれている。

百済にご利益をもたらしたのち、「日本へ行く」とのお告げを出す如来。

残念がりながらもお告げに従い聖明王は豪華な船をしたてて如来を日本の欽明天皇のもとに送り出す…という物語。

仏を追って海に飛び込み多くの百済宮廷の人々が死んだ…と書いてある。

船は難波(いまの大阪市)に到着。初めて見る仏像に、仏教導入派の蘇我稲目と仏教反対派の物部尾輿が対立。

尾輿は如来を難波の堀江(いまの大阪)に投げ捨て、仏罰により滅亡。

仏は宮廷に帰ってくる。その後、尾輿の息子物部守屋が仏像を壊そうとするが壊れず、やはり難波の堀江に投棄。

守屋は仏の使いである聖徳太子と蘇我馬子により滅ぼされる。

堀江に沈む如来像を信州から上京してきた本田善光(よしみつ)という男が発見し、故郷信州に持ち帰り祭ったのが「善光寺」なのだという有名な話。

●威徳王(在位554〜598)

姓は余。名は昌。15代百済王。

聖王の息子。

戦死した聖王のあとをうけ即位。

王子(恵王)を日本に派遣し同盟を強化した。

●恵王(在位598〜599)

姓は余。名は季。16代百済王。

聖王の息子。

554年、聖王が戦死。

555年、援軍要請のため日本へ渡る。

556年、帰国(562年日本、高句麗へ出兵)。

●法王(在位599〜600)

姓は余。名は宣。孝順ともいう。17代百済王。

恵王の息子。

●武王(在位600〜641)

姓は余。名は璋。18代百済王。

法王の息子。

隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。

●義慈王(在位641〜660)

19代百済王。

武王の息子。

唐や新羅からの侵略が脅威となっていた。

462年、唐の侵攻に備えるため非主流派の貴族や王族を追放。

追放された貴族や王族は日本に亡命した。

この時代は新羅に金春秋や金捨信といった英傑が現れた頃。

その新羅と盛んに戦争をするのだが半島制覇を狙う新羅にうまくあしらわれる。

そしてついに唐と新羅に両面攻撃を受け百済は滅亡。

王族のほとんどが唐に連れ去られた。

●余豊璋

姓は余。名は豊璋。20代百済王。

百済王義慈王の子。

強力な統一王朝・唐帝国成立により圧迫の強まる国際情勢のなか、

631年、人質として日本へ行く。以後30年間日本で生活。

その間、唐の圧迫からの武力防衛をめざし高句麗の泉蓋蘇文や日本の中大兄皇子がクーデターを決行。

日本にやってきた金春秋(のちの新羅王武烈王)との会談はあったのか?

660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。

亡国の王子となった彼は亡命政府のあるじとなる。

662年、天智天皇(中大兄皇子)の支援を受け帰国するべく出撃。

斉明天皇も同行するが彼女は九州で死去。

海峡を渡り鬼室福信と合流し反撃の準備を進める。

しかし鬼室福信との対立があったのか彼を殺してしまう。

有力重臣を失った余豊璋は翌年、百済再興を賭け白村江で戦うが完全な敗北。

豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全消滅した。敗残日本水軍は帰国。

百済王族などの生き残りの多くは日本へ亡命し、そのまま日本に同化していった。

●鬼室福信

姓は鬼室。名は福信。武王の甥。百済滅亡後、唐への反乱軍を組織。再興を目指す。

日本に行っていた豊璋王子を呼び寄せ王朝を再建し、日本の大和朝廷からの援軍も取り付けた。

しかし内部対立があったのか、彼は豊璋王に殺されてしまった。

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