高句麗

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小林教授
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高句麗

●高句麗

事実上朝鮮半島最古の王朝。漢王朝の頃より発生し中国史書にも記録されている。

中国分裂に乗じて313年、楽浪郡を滅ぼす。

560年、高麗と改称。現代も使われる「コリア」の呼称はこれに由来している。

668年、中国・唐により占領され滅亡。

世界帝国である隋・唐の攻撃を数度にわたって撃退した事実は特筆に価する。

●檀君(在位前2333?〜1500年間?

だんくん。

4200年以上前に朝鮮を建国したのだそうです。が。

世界最古の文明のひとつ、中国ですら「中国3000年」とか「中国4000年」などと言っているのに これはふかしすぎ。こんな早い時代に建国したなんて、ホラにも程がある。

紀元前2333年ってあなた…。

伝説によると彼は帝釈天・インドラの孫であり、父親は天から太伯山山頂に降りたのであり 母親は熊なのだという。朝鮮半島全体と中国東北部を1500年間にわたり支配したのだという。

「中国の政権争いに敗れ落ち延びてきた箕子(紂王の叔父)」に追い出され お隠れあそばした。享年1908歳。

アホか!と叫びたくなるような、とんでもないような伝説だが、「昔話」としてならまあいい。

驚愕するのは彼に対する北朝鮮考古学会の態度だ。

なんと、彼の突拍子もない伝説をそのまんま史実として認めてしまっているのだ。

さらに「檀君陵(墓)」と称する馬鹿でかいピラミッドを建造してしまったのだ。

民衆は飢えているというのに。

不細工極まるというか。原人の石器を捏造した藤村さんもびっくりの巨大ニセモノには言葉もありません。

びっくりするような極端に誇張された英雄像には理由がある。

朝鮮半島の住民たちは、高句麗のような強い王朝は例外として、ずっと弱小な王朝しか作ることができなかった。

北方民族には毎度毎度侵略され、中国にも侵略され 野蛮人だと見下し差別の対象であった倭人にすら攻められる。

強く湧き上がる自尊心と現実のわが身の落差。

傷ついた(国力には不相応の)誇りを回復させるため、代償行為として 過去に栄光を求めた。俺たちは偉大な神様の末裔なんだぞ、と。

醜悪な野蛮人どもめ、お前らは力が強いだけだ、我々は高貴な生まれなのだぞ、と。

迫害を受け続けたユダヤ人が強烈な自己中心的宗教を作りあげたのに似ているかな。

で、普通の国だったらだんだんおとなしくなっていく童話的建国神話が この半島では逆に極端に先鋭化していく、というような、なんていうか。

コンプレックスがあるからウソをつくんだよね。

自信があれば中国みたいに神話を全面否定できる。

ともかく、朝鮮神話に比べれば日本神話なんて全然普通です。

島国生まれの温室育ち民族ですし、のんきなもんです。

●朱蒙 (?〜12)

名は鄒牟(すうむ)。中国からは;王(すうおう)と呼ばれた。高句麗初代王。

前漢の滅亡にあわせて勢力をのばした。

前漢を滅ぼした新の王莽は周辺民族に対して高圧的な態度をとる皇帝だった。

高句麗も王国から候国に格下げされた。王は王莽に従わず、「匈奴を攻撃せよ」という王莽の命令にも従わなかった。

そのため高句麗は攻撃され、王は捕らえられ殺害された。

高句麗の記録と中国の年代記録がくいちがうが、中国側史料のほうが正確のようだ。

●琉璃 類利(?〜?)

名は類利。朱蒙の息子だという。

●太祖 宮(在位?〜121)

名は宮。琉璃王の孫だというが不明。

111年、楽浪郡を攻撃して歴史に名をあらわす。

121年、死亡。

高句麗の記録と中国の年代記録がくいちがうが、中国側史料のほうが正確のようだ。

●次大王 高遂成(在位121〜165)

姓は高。名は遂成。

太祖王の弟だという。

121年、太祖の跡を継ぎ、玄菟郡を攻撃。

122年、漢に帰順。

高句麗の記録と中国の年代記録がくいちがうが、中国側史料のほうが正確のようだ。

●新大王 高伯固(在位165〜179)

姓は高。名は伯固。

太祖王・次大王の弟だという。

●故国川 高男武(在位179〜197)

姓は高。名は男武。国襄王ともいう。

新大王の息子。三国志の時代のひと。

●山上 伊夷模 高延優(在位197〜227)

姓は高。名は延優。

新大王の息子。故国川王の弟。

公孫氏と同盟した兄と政権争いをして敗れ、南に逃れ、あらたに高句麗国を建設した。

●東川 位宮 高憂位居(在位227〜248)

姓は高。名は憂位居。位宮。宮。

山上王の息子。

邪馬台国の卑弥呼と同世代人。

魏の毋丘倹による征討を受け、丸都城は壊滅。

しかし魏の引揚げ後に再び国を再興した。

●中川 高然弗(在位248〜270)

姓は高。名は然弗。

東川王の息子。

魏による打撃の後遺症か、派手な動きはない。

明臨於漱・沸流沛者陰友などどう読むのか教えてください。

●西川 高薬慮(在位270〜292)

姓は高。名は薬慮。若友。

中川王の息子。

攻め寄せた粛慎に対し弟・逹賈を派遣し撃退。

反乱した弟・反を経略を用いて殺す。

●烽上 高相夫(在位292〜300)

姓は高。名は相夫。

西川王の息子。

叔父・逹賈を殺害。

弟・咄固を殺害。

咄固の子・美川王を擁立した家臣に廃位され、自殺。

ライバルを次々と消していくのはいいが、周囲の人間の気持ちは遠のいていく。

まして民衆の反感まで買ってしまえば、王としてはもうおしまいだ。

9年、(300年)の高句麗は大凶作で、国民が飢えているにもかかわらず 王は宮殿を造営させ、民衆を苦しめた。そのため家臣の倉助利が諫言したが 王はこれを無視。見かねた倉助利が家臣たちを集め、美川王を擁立して 王を退位させたのだという。

●美川 高乙弗(在位300〜331)

姓は高。名は乙弗。憂弗。好壤王。

西川王の孫。咄固の息子。烽上王の甥。

家臣が父の仇、烽上王を退位させたため即位。

おりしも中国では八王の乱に始まる大分裂期となっており影響力が低下していた。

そこで高句麗は 313年〜314年、楽浪・帯方郡を攻撃して太守・張統は燕の慕容氏のもとに逃亡。

これにより高句麗の領域は大きく拡大した。しかし 319年〜320年、燕の慕容仁による反撃があり、遠交近攻の策に従い 燕の背後・後趙の石勒と同盟した。

伝統のある楽浪郡を完全に抹殺したことにより 高句麗は「部族」から「国家」へと変貌していった。

国としての歴史はこの美川王から始まるといっていいと思う。

同時に勃興してきた百済・新羅とともに「朝鮮三国時代」が始まる!

●故国原 高氈i在位331〜371)

姓は高。名は氈iしょう)。斯由(しゆう)。国岡上王ともいう。

美川王の息子。

336年、燕の慕容仁が文明帝との権力争いに敗れ、配下の冬寿が亡命してきたため受け入れる。

翌年、燕王を自称した(のち東晋に冊封された)文明帝による圧迫が高句麗に及び 342年、燕来襲。大敗北を喫し王は逃走。母と妻は捕虜となり、父・美川王の遺体を奪われる。

翌年降伏。財宝を献上して父の遺体を取り戻す。

353年、東晋へ使者派遣。

355年、母の帰国を許される。

369年、百済を攻撃して勢力挽回をはかるが 気鋭の王者・百済肖古王は七支刀を日本に贈り新羅を挟み撃ちするなど脂ののりきった最盛期。

371年、百済の逆襲をうけ戦死。

やることなすこと裏目に出て、ふんだりけったりの王様。

●小獣林 高邱夫(在位371〜384)

姓は高。名は邱夫。小解朱留王ともいう。

故国原の息子。

372年、前秦の符堅から仏教の経典を贈られ仏教がひろまる。

377年、百済の攻撃を撃退。前秦の符堅に朝貢。

百済の英雄・肖古王が死に、また中国では理想主義者の符堅(前秦)が 高句麗の宿敵・燕を滅ぼしてくれていたため 彼の時代は比較的平和が続いた。

彼の死と同じ年、中国の前秦が瓦解。

宿敵である燕が復活してしまう。

●故国壌 高伊連(在位384〜391)

姓は高。名は伊連。於只支。

故国原の息子。小獣林王の弟。

385年、燕を攻略するが燕・慕容農により奪回される。

386年、百済を攻撃。

389年〜390年、百済反撃。

●広開土 好太王 高談徳(374〜412)(在位391〜412)

姓は高。名は談徳。安。永楽太王。国岡上王ともいう。

故国壤王の息子。「永楽」の年号を使用。

有名な「好太王碑」があるため詳細で生々しい当時の国際関係があきらかになっている。

391年、倭国・倭王讃による百済・新羅への大攻勢のなか即位。

392年、百済王、倭への謝罪のため殺害される。新羅、高句麗へ人質を送り助勢を願う。

395年〜396年、倭国の影響下にあった百済が反攻。これを討ち降伏させる。

395年、燕、北魏に大敗。このすきに乗じて 396年、燕を攻撃。

397年、百済は倭国に人質を送り服従。

399年、百済を再攻撃。

400年、新羅が倭国に攻められたため新羅に出兵。包囲した倭軍を追い払い加羅まで進軍。

401年、新羅からの人質を帰国させる。

402年、新羅が人質を倭国に送る。百済・新羅が両方倭国に通じてしまい好太王ピンチですね。

404年、倭国の倭王讃、大攻勢。ソウル付近で決戦。

407年、ピョンヤン付近で倭国と決戦?このあたり碑文が欠けており勝敗は不明。

400年〜406年、倭国との戦闘中も燕との交戦は続くが 407年、高雲により燕(後燕)は滅亡。宿敵のひとつは消滅した。

409年、燕と高雲の領域をのっとった北燕と通好。

412年、死亡。

414年、王の業績をたたえるため好太王碑を建設。

現代人の目から見ても彼は「記念碑建設」に値する英傑であると思います。

中国王朝のひとつ「燕」との戦争を続けながら倭とも激しい勢力争い。

碑文は王を誉めたたえる目的で書かれているのだが、それを割り引いてもたいしたもんだ。

半島南端まで派兵したかと思えば半島北部で決戦。

燕にも逆に攻め込んだり北方に勢力を広げたり…。

この後、新羅は高句麗と、百済は日本と同盟するという形勢で安定期に入っていくのだが 彼の時代はそれにいたるまでのまさに混乱期といっていいくらい戦争が多く、また 外交戦争も猛烈だった。

以下、思い入れ100%の思い込みコラム。読み飛ばしてもok。 さて、一部の自称歴史学者の「朝鮮右翼」により「好太王碑は贋作だ」との主張がなされていますが…。

要するに「日本軍人が日本に有利なように碑文を書き換えた」というような意味の主張だと思うのですが。

でも碑文をよ〜く読んでみると「倭国をやっつけた」という記述ばかりで(欠けた部分を除く) とてもじゃないが改竄したようには見えない。

これでもしカイザンされているのだとしたら、カイザンしたやつ(日本人)はよっぽどの馬鹿だということになる。

「わが朝鮮民族は偉大なのである」と主張するのは結構なんだけど 歴史をねじまげて解釈するのはよくないよ。

太平洋戦争中、戦果を捏造した日本軍人の醜悪さ。歴史を捏造する現代の朝鮮右翼の醜悪さ。

醜悪さの共通点は「歴史ねじまげ」です。思想家が歴史をやっちゃいけないよ。

そーゆーのは好太王に対して失礼なんじゃないかとおもいます。

十分彼は立派じゃないか。それを、カイザン呼ばわりとは。なんかむかついてきたなあ。

だいたいこのころの百済や新羅は面積もちいさい小国で高句麗や倭国に翻弄されていても ごく当然のことで自尊心を傷つけられることなんてないと思うんだけどなあ。

小国でも頭を使えば大国をうまく使いこなせるんだぞ、というところを 歴史に学ぶべきだと思うよ。むしろ。

ああ、余談が多くなった。ごめんなさい。フォントちいさくしておこう。

●長寿 高巨P 高P(394〜491)(在位412〜491)

姓は高。名は巨P。P。

広開土王の息子。

「長寿王」はその名の通り長生きした王様。好太王碑を建設した人。

即位直後に南朝・東晋に使者を派遣し高句麗王に封ぜられる。

人質を受け入れ新羅と同盟。

南朝・宋が成立すると、すぐさま使者を派遣。抜け目が無い。

427年、平壌に遷都。南下政策を実現させるため。

433年、同盟国だった新羅と断交。新羅は百済と同盟する。

435年、北朝・北魏に封建される。

436年、北魏が北燕を攻撃し、北燕は滅亡。北燕皇帝・昭成帝が高句麗に逃亡。

438年、北魏から昭成帝の引渡しを要求されるが無視。昭成帝を殺害する。

450年、高句麗の将軍が新羅人に殺害されたため報復攻撃。新羅の謝罪をうけて引き上げる。

454年、新羅を攻撃。

455年、百済を攻撃。

464年、新羅に大攻勢をかけ追い詰めるが日本からの援軍に敗れる。

468年、末鞨・新羅を攻撃。

474年、スパイとして百済に送り込んでいた道琳の計略を用い百済を攻撃。新羅は百済を救援。

475年、百済・義慈王を殺す。百済滅亡。百済の領土を併合して高句麗最大領土の時代を迎える。

高句麗歴代王のなかでも随一の英雄。

●文咨 高羅雲(在位491〜519)

姓は高。名は羅雲。明治好王。

長寿王の孫。助夢の子。

長寿王が長生きしたので息子の方が先に死んでしまった。

そのため長寿王の次に位を継いだのは長寿王の孫である彼だった。

北朝・北魏から高句麗王に封ぜられる。

南朝・南斉から楽浪公に封ぜられる。

百済・新羅と戦いさらに勢力を広げた。

●安蔵 高興安 高安(在位519〜531)

姓は高。名は興安。安。

文咨王の息子。

北朝・北魏から高句麗王に封ぜられる。

南朝・梁から高句麗王に封ぜられる。

●安原 高宝延 高延(在位531〜545)

姓は高。名は宝延。延。安岡上王。

文咨王の息子。安蔵王の弟。

南朝・梁から高句麗王に封ぜられる。

●陽原 高平成 高成(在位545〜559)

姓は高。名は平成。成。陽崗上好王。

安原王の息子。

北朝・北斉から高句麗王に封ぜられる。

百済と激闘。

かつて義慈王を殺され、領土を奪われた百済は新羅の援軍を得て善戦。

高句麗の領土となっていた百済の旧領土は百済に奪回された。

しかし、結果として高句麗・百済領国の衰弱を招く。

両国は新羅の攻撃を受け、百済旧領土は新羅に奪われ、百済王は戦死。

高句麗と百済は共倒れとなってしまった。

●平原 高陽成 高湯(在位559〜590)

姓は高。名は陽成。湯。平崗上好王。

陽原王の息子。

国名を高麗に改称。

北朝・北斉から高句麗王に封ぜられる。

北朝・北周から高句麗王に封ぜられる。

分裂中国の各王朝に朝貢したが、隋の統一をみて様子が変わり始める。

●嬰陽 高元(在位590〜618)

姓は高。名は元。

平原王の息子。

隋との抗争を続け、煬帝による大規模な「高句麗征討」の事態を招く。

煬帝自身も出陣して全力をあげての攻撃だったが高句麗は守りを固めてこれを撃退した。

隋はこの戦いで敗れた影響を受けて滅びた。

●栄留 高建武 高成(在位618〜642)

姓は高。名は建武。成。

平原王の息子。嬰陽王の異母弟。

宿敵・隋が滅びた頃に即位。

敵の敵は味方、ということで隋の敵である唐とは友好関係を結んでいたが、隋は滅亡。

しだいに唐との関係は悪くなり、いつ唐から侵略されるかわからない情勢になってきた。

唐からは圧力をかれられ、気の弱い栄留汪は唐に対して屈辱的なほど卑屈な態度を取り 高句麗は唐のいいなりとなった。大臣の泉蓋蘇文は異議を唱えたが王や宮廷貴族は無視。

唐に反抗的な泉蓋蘇文は左遷され、殺害されそうになった。

貴族の合議制である高句麗の古い体制では世界帝国・唐に勝てず、滅ぼされる、と判断した 泉蓋蘇文は栄留王を殺害。役に立たない宮廷貴族たちも殺し、宝蔵王を擁立。

権力を泉蓋蘇文に集中させる戦時体制にして唐の侵攻に備えた。

唐からの圧力に屈した、という王だったが、相手は日の出の勢いで世界を席巻する 英雄・李世民が率いる世界帝国・唐王朝。屈服してしまうのが普通の対応。

だから、この王をそんなに責められないな。むしろその唐と戦おうとした 泉蓋蘇文のほうが凄すぎる英雄なのであって この王様が王失格というほど無能なわけじゃないと思う。

●宝蔵(在位642〜668)

姓は高。名は宝蔵。

平原王の孫。大陽王の息子。栄留王の甥。

泉蓋蘇文に擁立されて即位。泉蓋蘇文の厳格な指導のもと唐の侵略に備えた 戦時体制が敷かれるなか、新羅が高句麗征討を唐に要請。交渉も決裂し 3年、ついに唐からの攻撃を受ける。唐帝国建国の英雄・皇帝李世民と その天下統一を助けた名将・李勣が出陣した総力戦。

泉蓋蘇文の高句麗軍は度重なる圧倒的な唐からの攻撃を苦戦しながらなんとか撃退。

高句麗征服を計画した太宗李世民は敗北し目的を果たせないまま死去。

660年年、唐が方針転換。唐は百済を先に滅ぼした。

英雄・泉蓋蘇文の死後、唐と新羅の挟撃を受け高句麗は滅亡。

長い歴史を誇った高句麗だが 668年、消滅した。

捕らえられた王は唐に連行された。

677年、唐は宝蔵王を朝鮮王に任命。

●泉蓋蘇文(614〜666)

唐と死闘を繰り広げた気骨の武将。

唐からの圧力に屈し屈辱外交を続ける栄留王や貴族たちに反発。

唐に対抗することを主張するが、恭順派の王や貴族たちから排除され左遷される。

そして暗殺されそうになるが、泉蓋蘇文は逆襲。王や貴族たち恭順派を殺害。

宝蔵王を擁立して唐と対抗する政策を採った。

多くの人々は唐の脅威を感じていたのでこのクーデターに従った。

また泉蓋蘇文の強硬な行動に威圧され彼に逆らう人間はいなかったが 同じく気骨の武将である梁万春は、王を殺害したことについて泉蓋蘇文を非難。

両者は激しく戦ったが、泉蓋蘇文は梁万春の気骨に感銘して和解。

唐の李世民や李勣が攻め寄せた時、先頭にたって戦い撃退したのは梁万春だった。

泉蓋蘇文のクーデターの3年後、日本では大化の改新というクーデターが行われた。

こちらも有力貴族の権力を奪い王権の一極集中を目指すもの。

唐からの脅威に対抗するための動きだと思われる。

大化の改新の3年後、新羅でも政争があり、唐への降伏派貴族が女王を廃立しようとしたが 金?信によって阻止され貴族たちを倒した。


韓国や北朝鮮では極端な右翼的捏造教育が行われており、朝鮮古代史については妄想に基づく誇大な学説を信じる人が多いです。

インターネット上では、良く見かけますが、あまり気にしないほうがいいです。

私も図書館で韓国の歴史教科書を読みましたが、驚くべき内容です。あんな物で教育を受けている彼の国の子供たちが気の毒。