木曽義仲

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木曽義仲軍

●木曽義仲1154〜1184)

木曽次郎源義仲。旭将軍。征夷大将軍。清和源氏為義の孫。義賢の子。頼朝の従弟。

世間では彼が誤解されており、悲しい。

当時の京都貴族の日記によると、「乱暴狼藉」は義仲入京前から始まっているんだよね。

彼はそれを鎮圧してる。

逆賊でもない。以仁王の命令書を受けて信州木曽にて挙兵。

頼朝に攻撃された時も平家打倒のために反撃せず息子を人質に送り耐えた。

平家の大軍を破り、最も危険な仕事を命を懸けてなしとげる。

安徳天皇の次の天皇を選ぶ時、平家打倒の功労者以仁王の子・北陸宮を推薦。

これが後白河法皇の意に添わず、死にに行けとばかりに 平家追討の命令を出すが義仲はこれに答え西に兵を進めた。

この間に義仲は「逆賊」に指定されて しまった。これほどの忠義のひとはいないのにね。

默って殺されるわけにもいかず、ここで最初で最後の「反逆」。

平家と頼朝に挟撃されて滅びるが、その最期まで部下との信頼関係はあつかった。

●今井四郎兼平?〜1184)

中原兼遠の四男。

巴御前の兄。木曽義仲の部下であり親友でもある信州の武将。

幼少の頃から義仲と兄弟同然の生活を送り 挙兵から最期まで常に義仲に従った。

兼平を心配した義仲と 義仲を心配した兼平が出会ったのが粟津。

兼平が敵をひきつけている間に 自害しようとする義仲だったが ふと兼平の事が気にかかり、振り向いたその眉間に矢を受け最期を迎える。

これを見た兼平はその場で自害した。

●巴御前?〜?)

中原兼遠の娘。

木曽義仲と共に育つ。その武将でもあり、妻でもある。

「巴」とは「渦巻」という意味。

怪力の持ち主であり、牛を片手で持ち上げたりするらしい。

しかも見た目は「巨体レスラー」では無く「美女」。

太い腕の怪力女なら珍しくもないが…。

精神的ないしは物理的な作用で 筋肉の本来の能力が100%発揮されているのだろうか?

倶利伽羅峠などで戦功をあげ最後まで義仲に従ったが 義仲に諭され落ちのびる。

一説によると巴は鎌倉で頼朝の前に引き据えられ殺される所だったが 名乗り出た和田義盛により助けられその妻となったそうだ。

和田一族は反乱を起こし滅亡。巴は越中(富山県)で尼となり死んだという。

●覚明?〜?)

木曽義仲の祐筆(書記係)。

謎の人物。名前を次々変えていくので混乱しないでね。

祖父は中原氏・祖母は藤原氏。下級貴族・官吏の一族。

大江広元や中原親能の従兄弟にあたる。中原兼遠の甥にあたる。

中原兼遠と共に信州に下ってきた父(海野幸親)が 信州の実力者「海野一族」の養子となったため在地豪族となる。

最初の名前は海野通広

彼は本来の身分・下級貴族として京都で官吏を目指していた。

元来の藤原姓、藤原道広を名乗っていた。

貴族の官位が平家の勢力に奪われていくご時世でもあり、挫折。

出家して最乗坊信救と名乗る。

信救が奈良の興福寺に居た頃、以仁王が反平家の兵を挙げる。

以仁王を支持する園城寺から興福寺に「味方してくれ」との手紙が届き その返事を書いたのが信救だった。

清盛は平氏の糟糠・武家の塵芥、共に戦いましょう」。

↑この言葉、教科書にも出ていて有名だよね。

これに激怒した清盛は出兵。

以仁王は興福寺を目指して南に逃走。宇治の平等院に入った。

信救は以仁王を救助するため僧兵たちと北上、平等院を目指した。

信救の到着直前、平家の軍勢が平等院を襲い、以仁王は戦死。

王将を失った信救は 清盛の怒りの捜索を受けることになってしまった。

指名手配犯となった信救は、漆(うるし)を顔に塗り 顔をつぶして人相を変え信州に逃亡した。

途中で出会った源行家と共に木曽義仲の部下となり 大夫坊覚明と名乗る。

以後義仲の参謀として従軍し、倶利伽羅峠の戦いの前には 八幡社に戦勝を祈る願文を書き奉納した。

「清盛は日本を支配し万民を苦しめています。

この暴悪をみて義仲は無謀であるのもかまわず 運を天にまかせ、身を国家に投げ出しました。云々」

また覚明は比叡山に対しても説得工作をして 戦わずして味方につけ、血を流すことなく義仲は入京した。

後白河法皇や頼朝という妖怪たちに振り回され、義仲は滅びた。

覚明は信救得業と名乗り何を企んでいたのか 鎌倉のすぐそば、箱根山の僧侶になりすました。

頼朝が親戚の法事に参列した時に信救得業が坊さんとして呼ばれ 頼朝と北条政子に説法をした。(どんな説法をしたんだ?)

のちに正体がばれてしまい、またもや逃亡。

円通院浄寛と名乗り比叡山に入る。

そこで若き日の親鸞(浄土真宗の開祖)に出会う。

法然のもとで西仏という僧侶となり 越後(新潟県)に流罪となった親鸞を追い かつて進軍した北陸の道を逆に北上。親鸞に従った。

親鸞は関東へ行き教えを広め 西仏は信州で活動。そのまま信州で死んだ。

凄い人生だ。

<おまけ>

覚明が活躍する小説

●高梨高信?〜1183)

源平時代の信州の武将。中原兼遠の壻?

木曽義仲に従い戦う。

平家を追って備中水島(今の岡山県)にて海戦。

平重衡・平教経らに敗れ戦死。

山国信州の武将なので海には弱い。残念。

●高梨忠直?〜1184)

源平時代の信州の武将。木曽義仲に従い運命を共にする。

宇治川の先陣争いに勝利し攻め寄せる佐々木高綱の前に立ち塞がるが戦死。

●笠原行連

(?〜?)

笠原頼直の一族だが義仲に従う。

のちに頼朝に従う。

●山吹

木曽義仲が連れていた女性。中原家の出身とも、海野家の出身とも言われるが不明。

木曽の日義村に「山吹山」という山があり、地元の伝説では この山に山吹が住んでいた、といわれる。

義仲に従い京都に至る。攻め寄せる頼朝軍に対し義仲は出撃するが 山吹は病のため京都に残る。

●葵御前?〜1183)

巴御前と共に木曽義仲に従い戦った女将軍。

倶利伽羅峠の戦いにて戦死。

●伊子

関白藤原基房の娘。

当時藤原家は平家に圧迫されていた。

清盛は基房を関白から解任し、後白河法皇を幽閉。

挙兵した以仁王は戦死するが 呼応した木曽義仲が平家を打ち破る。

平家の都落ちののち木曽義仲の正妻となる。

頼朝の軍が攻めてきた時、さっさと逃げれば良いものを 「この伊子をどうしようか」とぐずぐずしていた。

最期に虞美人をたたき殺した項羽と 伊子も巴も生き延びさせた義仲は対照的だ。

義仲戦死後久我道親の側室となり道元を産む。

道元:曹洞宗永平寺(福井県)を開いたひと。坊さん。

●中原兼遠?〜?)

信濃権守。木曽氏を名乗る。

母は道綱末裔の藤原氏であり、藤原姓や大江姓を名乗る事もあった。

源頼朝の参謀である大江広元の叔父?

文筆を專門とする下級貴族の家柄。

地方官として東国に赴任する。

兼遠の妻が源義賢の息子の乳母になっているところから 義賢のグループに所属していたものと思われる。

子に

  • 中原太郎兼秀:早死
  • 樋口次郎兼光:義仲の兄貴分
  • 中原三郎兼好:中原家後継者
  • 今井四郎兼平
  • 落合五郎兼行

がいる。

彼ら子供たちは木曽で育った。

父親の世代までは学問で身を立てていたが 彼ら「木曽世代」は馬に乗り自由に山野を駆け巡る戦士に成長していった。

義仲一族

●源仲家(〜)

義仲の兄。父親である源義賢が悪源太義平&頼朝に殺された時 幼い義仲は畠山重能&斎藤別当実盛に命を救われ中原兼遠に引き取られたが同じく親を失った仲家は京都の源氏嫡流・源頼政に引き取られた。

頼政の養子となった仲家は、頼政の反平家挙兵に従う。

しかし平家は日本の半分を支配する勢力。状況は極めて悪く、決起は失敗。

養父頼政や以仁王を守りながら京都から奈良へと逃亡する。

しかし途中・平等院で平家の追討軍に追いつかれ、戦いのさなか仲家は死ぬ。

彼が守っていた以仁王も死んだが、以仁王の平家討伐の命令書は全国に発信され遠く信州に育った弟・義仲がこれに応じることになる。

仲家と義仲は一度も出会わなかったのかなあ…。

●源行家(〜)

義仲や頼朝の叔父。源義盛。

保元・平治の乱の生き残り。彼の兄弟は全滅。この世代でまともに生き残ったのは彼だけ。

源頼政による反平家の決起計画に参加する。

行家は以仁王の伝令役として東日本へと旅立ったが 不用意に情報をばらまいたために秘密の反乱計画は露見。おいおい馬鹿だな。

平家の捜索を受け頼政・以仁王は逃亡。

宇治川の合戦にて頼政一族や以仁王は死んだ。

行家は木曽義仲・源頼朝・志田義広・武田信義ら源氏武士に平家追討命令を伝えた。

以後頼朝に仕え、尾張の国(愛知県)で平家の頼朝追討軍と戦う。

平家の猛将・平重衡に木っ端みじんに敗れ逃走。頼朝の弟・源義円は戦死した。

平家の総大将・平知盛の発病に助けられ、なんとか逃げ延びる。

以後頼朝からの待遇が悪いことに不満をいだき、義仲の配下となる。

以後義仲の進軍に武将として従い、共に京都に入る。

平家を追撃するため播磨(兵庫県)に派遣されるが 今度もまた知盛・重衡にあっさり敗れる。

以後、頼朝のときと同様のいさかいをおこし義仲から離反。

義経が義仲・平家を滅ぼし頼朝と対立すると、今度は義経の配下となる。

義経・行家は全くいいところなく敗走を続け、さいごは逮捕され殺された。

源平合戦のキーパーソンであり 登場する人物たちのほとんどと関与経験があるという珍しい人。

●木曽義高(〜)

木曽義仲の息子。

義仲は以仁王から平家討伐の命令を受けた時、すぐさま決起し進軍を始めた。

木曽から北上し信濃の国(長野県)を制圧。

そのまま上州(群馬県)までも進出して平家武将を追った。

同じ頃、源頼朝は平家方武将にに負け続けており 偶然の幸運と敵将の寝返りに助けられようやく南関東に根拠地を築き始めていた。

源氏同士の勢力争いが始まっていた。

頼朝を嫌った源行家や志田義広が義仲のもとへ行き、逆に 義仲配下の甲斐源氏武田一族は頼朝方に寝返り

「義仲は平家と結託しています」

と讒言した。

両者の対立が進む中、頼朝はついに義仲攻撃軍を信濃に進める。

源氏同士の戦いを嫌った義仲は一時退却して戦闘を避けたが 頼朝は進軍をやめなかった。

源氏の同士討ちを避けるため義仲は兼平を和平の使者として派遣。

頼朝は条件として11才の息子・義高を人質として差し出すように強要。

義仲はやむなくそれに従う。

鎌倉に送られた義高は武勇の父の名を汚さなかった。

義高は頼朝の娘・大姫の婿として木曽・鎌倉の同盟に貢献したが 義仲は頼朝配下の義経軍に殺されてしまう。

一族を平然と殺していく冷血の頼朝にとって、義高抹殺の命令を出すことなど当然のことだった。

許嫁の大姫はそれを知り計略をもって義高を逃がす。

しかし義高は追っ手に捕らえられ斬られる。

大姫は泣き悲しみ死んだという。

御伽草子参照のこと

義仲のライバルたち

●笠原平五頼直?〜?)

源平時代の武将。平家方。信州笠原牧(長野県中野市)の人物。

笠原牧は古代律令制の頃からの馬の生産地。当然、騎馬戦に優れる。

源頼政が反平家の挙兵をしたとき(宇治川の合戦) 平家方武将として参戦(1180/4/26)。

以仁王・頼政・仲家(義仲の兄で頼政の養子)が死亡。

その功により勘解由判官に任命される。

木曽で義仲が挙兵するとその前に立ち塞がる。

市原の戦い(1180/9/7) 横田河原の戦い(1181/6/13)において激突。

敗北して逃亡。消息不明。

頼直も義仲も信州育ちの騎馬戦の専門家。

その決戦はどんなに豪快だったでしょうか?

●石田次郎為久

(?〜?)

木曽義仲を殺した悪いやつ。源平時代の雑兵。

矢尽き刀折れ動けない義仲に運良く遭遇し、射殺して歴史に名を残した。

●源義経1159〜1189)

挙兵した頼朝の前に突然現れた謎の人物。

「弟」を名乗るこの男の登場に、味方の少ない頼朝は喜んだ。

当時の戦争は、「やーやー我こそは…」とお互いに名乗りを上げて作法にのっとって戦った。

しかし義経の戦争は背後に回り込んだり奇襲をかけたり卑怯な戦法ばかり。

源氏軍主力の範頼が平家の大軍と堂々と決戦しているのを横目に こそこそと敵本陣に接近し奇襲&手柄をかっさらって消える、この卑怯っぷり!

こいつに侍としての誇りは無いのか?と疑うところだが 戦闘中に海に流してしまった自分の弓を

「こんな弱い弓を使っている事を人に知られたら笑われる」

と 危険をかえりみず拾いに行ったエピソードなどをみると、彼なりの誇りは持っていたのかなあ、と思う。

兄の頼朝や従兄弟の義仲は堂々とした体格の美男子だったのに 義経は低身長&出っ歯。腕力も弱かった。

本当に血縁者なのか疑わしいなあ…でもなんか俺、すこうし親近感を感じたりして…。

なお、こいつは義仲を殺した戦犯のひとりですので、基本的に悪いやつです。

ええ、悪いです。極悪人です。決定。←無茶苦茶

●源頼朝1148〜1199)

初陣にて叔父・帯刀先生義賢の殺害に参加。

従弟・木曽義仲を殺害。

従弟の子・木曽義高を殺害。

叔父・新宮十郎行家を殺害。

弟・源義経を殺害。

弟・源範頼を殺害。

その他源氏一門の多くを殺害。

血で血を洗うという言葉はまさに彼のために存在すると言えるだろう。

彼の子孫たちもお互いに殺し合い断絶。

●北条政子)

尼将軍。源頼朝の妻。

●和田義盛(1147〜1213)

源平時代の武将。三浦半島を支配する三浦一族の一員。

頼朝挙兵の時からこれに従い戦う。

平家や奥州藤原氏との戦いで名をあげ、幕府の重臣となる。

しかし北条氏の陰謀により追い詰められ、反乱をおこすが 衆寡敵せず敗北し死亡。

その墓地は鎌倉和田塚に残る。

義仲滅亡後、生き延びた巴御前を義盛が妻にした、とゆー伝説がありまして 「巴は尼として長生きした」とゆー伝説と整合させよーとすると…・

そーすると巴は夫を二度も殺され、二度も生き延びたことになります。

さてどっちなのか?どちらも違うのか?

●朝比奈義秀(?〜?)

和田義盛の息子。母は巴御前だという。

実は義仲の子供、という伝承もあるが、彼の存在自体が伝説の霧に包まれていて定かではない。

安房(千葉県)の朝夷郡で育つ。

怪力で水泳の達人。曽我物語にも登場する。

1213年、和田合戦を戦うが敗れ、安房に逃亡。

以後の行方は不明。

御伽草子参照のこと

木曽義仲探訪

木曽 平等院 宇治川 倶利伽羅峠 嵐山 瀬田

よし、また行こう。

以下制作中