後漢

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後漢王朝

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後漢

●光武帝(5〜57)(在位25〜57)

姓は劉。名は秀。字は文叔 漢の皇帝の一族。といっても、遠い親戚。

西暦8年、漢が滅び王莽が皇帝となると国は乱れ、赤眉や緑林といった盗賊軍が幅をきかせた。

22年、反乱軍・劉玄の武将として兄と共に反乱に参加。

23年、王莽が滅び、劉玄など各地の反乱者はそれぞれ皇帝を名乗る。

25年、劉玄が自滅。劉玄に兄を殺されていた劉秀は独立して皇帝となる(光武帝)。

各地の自称皇帝たち(反乱軍)を次々と撃破。

36年、群雄たちを平定。晴れて漢の後継皇帝となる。

40年、交趾(ベトナム)の徴姉妹(徴側・徴弍)が反乱・独立。

42年、馬援により交趾の反乱鎮圧。

56年、倭国から使者がやってくる。光武帝は彼に「漢委奴国王」の印綬を授ける。

使者は無事帰国して復命したらしく、福岡県の志賀島からこのときの金印が発掘されている。

かつて春秋時代までは「天下に王はただひとり」と言われていたのに 倭国の族長にまで「王」の称号が与えられたのですから、時代は変わりました…。

57年、死亡。廟号は世祖。

●東海王劉疆(〜58)

姓は劉。名は疆。

光武帝の息子。明帝の兄。母は真定王劉楊の姪・郭皇后。

真定王劉楊は光武帝に謀殺されている。

26年、皇太子となる。

41年、郭皇后が廃された。

43年、降格。東海王となる。

57年、明帝即位。

58年、死亡。

●明帝(〜75)(在位57〜75)

姓は劉。名は陽。のち荘。顕宗。

光武帝の息子。母親は陰麗華(陰皇后)。30才で即位。

光武帝の業績を受け継ぎ善政を行った。

皇后は馬援の娘だが皇后の一族に権力を持たせないようにした。

62年、北匈奴に攻撃されるが南匈奴により防がれる。

64年、北匈奴から使者来朝・友好。逆に南匈奴が離反。

南北匈奴は友好してしまい漢は苦境にたたされる。

73年、竇固を派遣し匈奴を撃つ。

74年、竇固の部下となった班超が西域を攻略。

75年、死亡(48才)。

●章帝(〜)(在位75〜88)

姓は劉。名は。肅宗。

明帝の息子。母親は賈貴人。19才で即位。

班超の遠征により西域を支配した。

皇后の竇皇后一族が権勢を得始めた。

皇后は皇太子の劉慶の母親(宋貴人)を自殺させ養子の劉肇を皇太子にした。

しかし外戚の勢力はまだ抑えられていた。

●劉慶(〜106)

姓は劉。名は慶。

章帝の息子。和帝の兄。母は宋貴人。

章帝の皇太子。

82年、宋貴人は竇皇后に謀殺されている。皇太子から降格される。

92年、弟・和帝や兄・劉伉と共に外戚・竇氏を排除する。

106年、息子の安帝が即位。同年劉慶は死亡。

●和帝(〜)(在位88〜105)

姓は劉。名は肇。穆宗。

章帝の息子。母は梁氏だが早死。養母は竇皇后。10才で即位。

皇后は搓c后。

88年、竇太后の兄・竇憲が罪を償うため遠征を進言。匈奴を破る。

91年、再征。西域制圧。班超西域寥となる(102年まで)。

92年、皇帝と劉慶と劉伉、宦官を使い外戚の竇氏を粛清する。

105年、27才で死亡。

●殤帝(105〜106)(在位105〜106)

姓は劉。名はヘ。

和帝の息子。母は搦=B1才で即位。

●安帝(〜)(在位106〜125)

姓は劉。名は。恭宗。

章帝の孫。殤帝のイトコ。章帝→劉慶→安帝。13才で即位。

皇后は閻皇后。

106年、父親劉慶が死亡。

まるっきり傀儡であり、竇太后の一族(外戚)に実権を握られていた。

121年、比較的良い政治を行ってはいた竇太后が死亡。

竇氏の外戚政治が終わるかと思われたが しかし安帝は宦官政治を始めた。閻皇后の一族も外戚としてはびこり 以前よりもむしろ状態は悪化した。

125年、32才で死亡。

●少帝(〜)(在位125)

姓は劉。名は懿。

章帝の孫。才で即位。

閻一族の傀儡としてかつがれた幼帝。すぐに死亡。

●順帝(〜)(在位125〜144)

姓は劉。名は保。敬宗。

安帝の息子。母親の李貴人は閻皇后に殺されている。11才で即位。

皇后は梁皇后。

124年、安帝の皇太子だった彼は閻皇后にうとまれ廃立される。

125年、少帝の死に乗じて閻一族を粛清。閻太后は翌年病死。

外戚退治に宦官が活躍し、権威が高まる。曹騰も重用された。

132年、梁皇后立后。

135年、宦官の養子世襲を認める。

●冲帝(〜)(在位144〜145)

姓は劉。名は炳。

順帝の息子。母は虞貴人。2才で即位。

翌年死亡。

●質帝(〜)(在位145〜146)

姓は劉。名は纉。

章帝の孫の孫。章帝→劉伉→劉寵→劉鴻→質帝。8才で即位。

幼いながらも外戚・大将軍梁冀の横暴を知り、これを「跋扈将軍」と呼んだ。

それを聞いた梁冀に質帝は殺された。

●桓帝(〜)(在位146〜167)

姓は劉。名は志。威宗。

章帝のひ孫。章帝→劉開→劉翼→桓帝。15才で即位。

皇后は梁太后の妹。

質帝が質帝が殺された時 外戚の大将軍梁冀にロボット皇帝として擁立され即位した。

桓帝はすでに父親を亡くしており、操りやすいと思われたのか。

外戚の梁氏や宦官の曹騰がはばをきかせた。

159年、宦官たちを使い梁冀一族を滅す。

●霊帝(〜)(在位167〜189)

姓は劉。名は宏。

章帝の孫の孫。桓帝のイトコの子。ほとんど他人じゃん。

章帝→劉開→劉淑→劉萇→霊帝。13才で即位。

●廃帝(少帝・弘農王)(173〜190)(在位189)

姓は劉。名は辯(弁)。

霊帝の息子。母は何皇后。17才で即位。

彼が後継者となったため何皇后の兄・何進は庶民から最高権力者へと出世することができた。

一方彼の弟劉協(献帝)は皇太后や宦官に支持されており 少帝派の何進と劉協派の宦官たちは対立していた。

何進は、「皇帝を自在に操り国を腐らせてきた宦官たち」を一掃するべく 袁紹や董卓をひきいれクーデターを起こすが失敗。

何進と宦官たちは両者滅亡した。

少帝と弟の劉協(献帝)は宦官の生き残りによって連れ去られるが盧植が取り戻す。

この空白に乗り込んできた董卓は袁紹を追い出し少帝を退位させ何皇后を殺し献帝を擁立した。

少帝は弘農王となり翌年殺された。

●献帝・山陽公(〜)(在位189〜)

姓は劉。名は協。母親の王氏は何皇后に殺されている。

霊帝の息子。少帝の弟。9才で即位。

霊帝の死後、後継者を少帝にするか献帝にするかで 外戚と宦官が宮廷内で争い、殺しあった。

共倒れしたすきに董卓が現れ、外戚・宦官両者の生き残りをも殺し 外戚派の少帝を廃位・殺害。献帝は董卓に擁立され即位する。

しかしもちろん幼帝の彼は傀儡であり、実権は無かった。

董卓が倒されたあと国内は群雄割拠の状態となり皇帝は放浪を続けることになる。

196年、献帝は曹操に擁立される状態となり、献帝=曹操の建安時代が始まる。

220年、曹操が死亡。曹丕が即位し献帝は退位させられた。

以後、山陽公として生きた。形式的には「禅譲」ということになっているので 一応、大事に扱われた。

●皇甫嵩(〜)(在位〜)

姓は皇甫。名は嵩。字は義真。

雁門太守皇甫規の息子。

霊帝に党錮の禁解除を献策した。

黄巾軍鎮圧のため出撃。地公将軍張宝を倒す。

しかし宦官に讒言され失脚。

●朱儁(〜)(在位〜)

姓は朱。名は儁。字は公偉。

会稽の下級役人の子。

●盧植(〜)(在位〜)

姓は盧。名は植。字は子幹。北中囂ォ。

黄巾軍鎮圧のため出撃し張角を破るが宦官に賄賂を送らなかったため讒言され逮捕されてしまう。

かわって出撃したのが董卓。

のち何進・袁紹の宦官排除事件の時、少帝(劉弁)と劉協(献帝)を連れ去る十常侍を捕らえた。

しかしこの皇帝兄弟も董卓に管理されることになった。

●何進(〜)(在位〜)

姓は何。名は進。字は遂高。

献帝の母親である何皇后の兄。つまり外戚。

身分は低かったが妹のおかげで出世した。

黄巾の乱がおきると、配下として、のちの群雄である劉表や曹操・袁紹・袁術らを率いた。

189年、甥である劉協(献帝)を擁立して宦官たちと宦官が擁立する少帝に対抗するため 袁紹や董卓を仲間に引き入れた。

しかし宦官排除計画は露見し何進は殺された。

直後に袁紹軍が宮廷に突撃。宦官を皆殺しにした。

劉協は即位したが、宦官も何進も死んでおり、結局董卓の天下となった。

後漢末群雄

黄巾軍

●張角

河北省鉅鹿で新興宗教太平道を始めた教祖。

後漢末の混乱期、人心不安に乗じて信者を増やした。

その信者数は中国東部と中心に恐るべき人数となり、彼らは独自の軍隊組織を結成。漢が滅び自分たち新しい王朝に交代する、という予言をばら撒いた。

挙兵準備中に計画は発覚したが、反乱は強行された。漢の朝廷は無力だったが各地の豪族たちの抵抗は強力で、反乱は鎮圧された。

以後、反乱軍を鎮圧した豪族たちが勢力を争う『三国志』の世界へ突入していく。

西暦だと、ふつう70年代とか80年代とか10年単位で世代をまとめてますよね。100年で1世紀。でも、それは西洋式の数え方。

東洋式だと世代の単位は10年じゃなくて12年。つまりネズミ・ウシ・トラ…のエトですね。「あいつは俺と同じトラ年で、ひとまわり下だ」とか。このエト式計算法にも、西暦と同じで「1世紀」というガイネンがあります。12×5=60年、これが1世紀。還暦(かんれき)です。

12進法&60進法。変だなあ、なんて思わないで下さい。アナログの時計の文字盤を見てみて下さい。短針が12進法。長針・秒針が60進法。時間の数え方では、こちらのほうが標準なんです。

「紀元前」から続く由緒正しい数え方なんです!

西暦184年が、ちょうどその世紀が切り替わる年でした。西暦の「世紀末思想」と同じで、中国でもそれは運命が逆転する「革命」の年だという伝説がありました。

これを利用したのが「病気を治す超能力者」新興宗教の教祖、張角です。国が滅亡して我々の時代が来る、と予言して、反乱を起こしたんです(黄巾の乱)。国の軍隊は負けてしまい、威勢が良かったのですが、天下は取れませんでした。なぜって、「病気を治す超能力者」の教祖様が「病死」してしまったから(馬鹿だなあ)。

…予言通り、滅亡しました(彼が)。

彼の教団に負けてボロボロになった国軍のかわりに教団と戦った義勇軍の中に、劉備たち英雄がいました。引き立て役の前座・張角は退場し、三国時代が始まります。

●楮飛燕(〜)(在位〜)

姓は楮。名は飛燕。常山の盗賊。黒山賊の頭目。ちょひえん。

184年、張角の黄巾軍が挙兵し滅びたが混乱は続いた。

185年、盗賊軍反乱。

討伐できないくらい強力だったため漢から平難中囂ォに任命される。

張燕と改名。

董卓

●董卓(〜)(在位〜191)

姓は董。名は卓。字は仲穎。

チベット系の羌族を討伐していた武将。羌族の勇猛な兵を収容した彼の軍は強力となっていた。

宦官と対立していた外戚の何進に誘われるが日和見。

何進と宦官が共倒れするのをみて皇帝をおさえ権力者となる。

何皇后と少帝を殺害して献帝を擁立。相国となる。

しかし袁紹・曹操・孫堅などの連合軍に攻撃され、洛陽を破壊して長安へ引く。

寝返った部下の呂布に殺される。

●李傕[かく]・郭レ・樊稠・張済

姓は李。名は傕。りかく。

姓は郭。名はレ。かくし。

姓は樊。名は稠。はんちょう。

姓は張。名は済。ちょうさい。

董卓の部下たち。董卓の死後互いに争った。

●呂布(〜198)(在位〜)

姓は呂。名は布。字は奉先。

北方の内モンゴル出身。匈奴系の猛将。州刺史丁原配下の武将。

丁原に従い董卓と戦うが寝返り丁原を殺す。

董卓に従い反董卓軍と戦うが寝返り董卓を殺す。

呂布の主君は、丁原→董卓→王允→袁術→張楊→袁紹→張→(独立)→劉備→(独立)

…というぐあいに裏切りながらめまぐるしくあるじを変えていった。

最後は曹操・劉備に捕らえられ、処刑される。

もう、裏切り者の代名詞のごとく言われているけど、この時代この程度は当たり前なんで 彼だけ責めるのは酷というもの。ふらふらしていたことにかけては劉備だって似たようなもんです。

袁紹

●袁紹(〜202)(在位〜)

姓は袁。名は紹。字は本初。河南出身。

名門袁家の子。

後漢初期、貧乏儒者の袁安は苦しむ民衆を助け悪い官吏を厳格に裁いたため人々の信望を集め司徒にまで出世。

息子の袁aは司空に、孫の袁湯は太尉なった。袁湯には袁成・袁逢・袁隗という息子があり、袁成は早死にしたが袁逢は司空に・袁隗は司徒・少帝の大傅になった。

司空袁逢の息子が袁紹と袁術。兄の袁紹は母親の身分が低かったため早死にした伯父・袁成の「養子」として出されてしまった。

コンプレックス付きの御曹司・袁紹は、同じく宦官の一族出身という負い目をかかえる曹操とつるんで悪事を繰り返していたが、人並みに出仕。

漢の司隸校尉となる。

189年、宦官が支配し自分たち高級官吏が押さえつけられている朝廷に反発して何進のクーデターに参加。

何進は殺されたものの長年朝廷を腐らせてきた宦官たちを一掃し再起不能とした。

しかし入京した董卓に敗れ結局朝廷は董卓の支配下となってしまった。

190年、今度は反董卓の兵をあげた。彼を盟主として袁術・曹操・孫堅などが参加。

しかし董卓は洛陽を破壊。皇帝を連れ去り長安へ逃亡。群雄割拠の時代になる。

袁紹は地位・名声・財産など全てにおいて恵まれており、河北に割拠する巨大勢力の首領となった。

董卓が殺され、献帝は流浪していたのだが袁紹には彼を擁立することができず 結局献帝は曹操の下に収まった。

群雄の中での筆頭的存在としての地位は、このとき曹操に移ったといえる。

200年、官渡の戦いにて曹操に完敗。

●袁譚(〜)(在位〜)

姓は袁。名は譚。字は顕思。

袁紹の息子。

●袁尚(〜)(在位〜)

姓は袁。名は尚。字は。

袁紹の息子。

●袁術(〜199)(在位197〜199)

姓は袁。名は術。字は公路。袁本家の産まれ。

袁紹の弟。しかし兄・袁紹は庶子であり、伯父の養子として出されたため、袁術は本家の正統を継ぐ嫡子となった。

系図上、袁紹と袁術は従兄弟になる。

董卓討伐の群雄連合の中心人物のひとり。

周囲の群雄と争い勢力を拡大。部下の孫堅から玉璽を手に入れ慢心。

ついに皇帝を名乗り新王朝「仲」を建国するが支持を得られず自滅していく。

名門袁家の嫡流であることが彼を傲慢にし、兄である袁紹を見下し協力することができなかった。

受け継いだ財産は大きかったのだが全て台無しにしてしまった袁術。

群雄たち

●公孫(〜199)

姓は公孫。名は。字は伯珪。

涿県(たくけん)の盧植に学ぶ。

涿県(たくけん)の県令。

張純・張挙・烏丸族長丘力居たちの反乱軍と戦う(187年)。

191年、黄巾・黒山の賊を討つ。

袁紹と争いながら勢力を広げ 193年、劉虞を討ち「燕・幽州(北京付近)」の地を領有する。

195年、劉虞・烏丸の連合軍に敗れるが回復。

199年、袁紹に攻められ自殺。

袁紹の領地は最大となり翌年の官渡の戦いに続く。

●劉焉(〜)(在位〜)

姓は劉。名は焉。字は君郎。

幽州(燕)の太守。

黄巾の乱がおきたとき劉備・関羽・張飛の義勇軍が現れたが この三人がいたのが幽州。

義勇軍の活躍のあり黄巾軍を鎮圧することができた。

のち劉焉は益州(蜀)へ赴任。蜀を統治する。

●陶謙

燕(公孫氏の国)

●公孫氏

後漢が衰弱し、三国志の英傑たちが各地で割拠していた頃。

中国と高句麗の間にある遼東地域を支配した群雄がいた。

それが公孫度。彼と彼の一族は、50年間にわたりこの地域を領有し、半独立の状況だった。

●公孫度(〜)(在位190〜204)

姓は公孫。名は度。

の息子。

出身不明。

西暦190年、中国では董卓の乱がおきていた。

この混乱に乗じて遼東地方を切り従え、遼東候。平州牧を名乗り独立した。

●公孫康(〜)(在位204〜221)

姓は公孫。名は康。

公孫度の息子。

父のあとを継ぎ、遼東を支配した。

曹操に敗れた袁尚(袁紹の息子)が遼東に逃げ込んできた時 これを捕らえて首を斬り、曹操に送った。

この功績により襄平候の地位を得る。

209年、高句麗の伊夷模=山上王高延優を大破する。

公孫氏の勢力は強くなるが、中国はしだいに曹操により統一されようとしていた。

曹氏と公孫氏。共通の敵が消えていき、直接国境を接するようになった。

●公孫恭(〜)(在位221〜228)

姓は公孫。名は恭。

公孫度の息子。公孫康の弟。

公孫淵に殺される。

●公孫淵(〜)(在位228〜238)

姓は公孫。名は淵。

公孫康の息子。

叔父・公孫恭を殺して地位を奪い取る。

229年、皇帝に即位した呉の孫権からの使者を受け入れた。

236年、呉の使者が来る。

233年、呉から燕王に任命されるが、その使者を斬殺する。魏から楽浪公に任命される。

234年、諸葛孔明五丈原にて病死。蜀からの圧力減少。

237年、魏の将軍・毋丘倹による攻撃を受けるが撃退。燕王に即位。紹漢元年。

238年、魏の将軍・司馬懿による攻撃を受け、敗北。殺される。

高句麗や鮮卑族も公孫淵攻撃に加わった。

かつて高句麗は公孫度・公孫康に破られており、貰った分を返した、というところか。

公孫淵の滅亡により魏と韓半島や倭国の間に障害物は無くなった。

滅亡したその年に馬韓から魏に使者が送られた。

滅亡の翌年、邪馬台国から魏に使者が送られた。

匈奴

●羌渠単于

鮮卑

●壇石塊

高句麗

●故国川王