大日本帝国

目次

天皇たち

太政大臣

下野元勲

政府元勲

内閣総理大臣

太平洋戦争

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小林教授
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●大日本帝国

蘇我氏や藤原氏による政治が行われていた古代から天皇は常に宗教的尊敬の対象にすぎなかった。政治的にはカイライそのものでありつづけた。

天智・天武や後醍醐などの異端児を除けば日本の歴史はずっと貴族や武士のものだった。

蘇我氏の登場以来失っていた専制君主として権力が形式的とはいえ天皇の手に戻ったのがこの時代。日本史上ではごく例外的な時期だといってもいい。

西欧列強からの侵略の前に無為無策で服従していくアジア各国のひとつとして危機感をもった日本人志士たちが列強各国に留学してその文化を吸収して中世江戸幕府を一気に近代国家に改造した。それがこの新生明治日本。

天皇の威厳をたかめ、権力を集中させるというその制度は、ぶっちゃけた話、帝政ドイツの皇帝のマネである。身もフタもない話になるがイギリス帝国・ロシア帝国・ドイツ帝国などから制度をまるまるパクって実施してしまったのが明治政府・文明開化の正体。しかしそれは最善策だったらしく、同時期に同条件だった無為無策の隣国韓国は中国の属国であり、フランスやアメリカに攻撃され放題。

大国だった中国清朝は腐敗し欧州各国の庭になってしまった。

国を守るために夢中で努力を続け白人国ロシアに有色人種国として初の大勝利。

日本を世界の一等国にした時期までを「坂の上の雲」時代。

ロシアに勝利し慢心し、無益な戦争に突入して敗戦するまでを「名誉白人」時代とでも呼ぶべきか。

日露戦争を境にしてふたつの時代に分けて考えたほうがいいかもね。

皇室

●明治天皇(1852〜1912)(在位1867〜1912)

孝明天皇の第二息子。睦仁親王。祐宮(さちのみや)。

母は中山忠能と松浦愛子の娘中山(藤原)慶子。

父孝明天皇が早死にしたため15歳で即位。

皇后は一条美子(はるこ・昭憲皇太后)。皇后に子供はいない。

他に5人の妻と多くの子供を得た。

明治維新の頃、彼はまだ少年であり、即位時ようやく15歳。

急死した孝明天皇(公武合体論者)の代役として 江戸幕府に対抗する名目(倒幕)として使われた。

即位後も先代の「慶応」年号を使いつづけ そのあいだに大政奉還・戊辰戦争・江戸開城・榎本武揚の逃亡があり 明治改元。天皇は江戸改め東京へ移った。

新政府樹立後はドイツ皇帝を模倣した専制君主としてしつらえられた。

明治維新により世襲の無能な人物は退場し、若く有能な人物が政府要職にいた。

明治元勲の藩閥政治家は優れた国家経営を進め、その近代化は異常なまでの速度だった。

やがて有力な元勲たちが死に議会が開かれるようになると 藩閥政党と民権政党の対立する情勢となり 過激な民権政治家を抑えるのに苦心した。

こののち日本は「中華帝国」「ロシア帝国」というふたつの世界帝国との 戦争にまきこまれたが、「大英帝国」との同盟して国際世論も味方につけて勝利。

日本は世界の大国として認知されるまでになる。

少年の頃に即位した明治天皇は「皇帝」としての鍛錬を続け 帝王としての強い自意識を持ち、愛すべき自国民のための努力を惜しまなかった。

臣下からは信頼され、民衆からは慕われるという 古きよき時代の「名君」だったのは間違いない。

●大正天皇(1879〜1926)(在位1912〜1926)

明治天皇の息子。嘉仁親王。明宮(はるのみや)。

母は柳原愛子(なるこ)。34歳で即位。

皇后は九条節子(さだこ・貞明皇后)。

皇后との間に昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮の4人の息子を持つ。

若くして死んだ兄たちにかわって皇太子となる。

湯本武比古による教育を受けるが継続して病弱だった。

旅行好きで皇太子時代は日本中(沖縄以外の全都道府県)を「視察」してまわった。

明治天皇の崩御により即位。

しかし病状が悪化し晩年は政務のほとんどを皇太子(昭和天皇)にゆだねた。

幼少の頃から病弱で、社会との関わりが薄く、社会規律を嫌うところがあった。

まあ、早い話がワガママな子供ということ。

皇太子時代は自由奔放に出歩いており国民の人気も高く、予定に無い所を突然訪問したりして本人も楽しんでいたようだ。

しかし即位後はこれ以上無いくらいのガンジガラメな「天皇」として、ストレスが溜りまくって病弱となり、ノイローゼが治らないまま死去。

「一般人の心を持った天皇」といったところですか。

病弱だったがゆえに通常の「皇族教育」のレールからはずれてしまい、フツーの人として育ってしまった天皇。

皇族教育により作りあげられる「異常な忍耐強さ」を持たなかったために天皇としての政務に耐えられなかったのでしょう。

初めて一夫一妻制を取り入れた天皇でもある。

●昭和天皇(1901〜1989)(在位1926〜1989)

大正天皇の息子。裕仁親王。迪宮(みちのみや)。

母は貞明皇后。26歳で即位。

皇后は久邇宮良子(ながこ)女王。

皇后との間に5人の娘とふたりの息子(明仁平成天皇と常陸宮)がいる。

父親である大正天皇が病弱だったため即位前から摂政として政務を行う。

国民の意識は威勢の良い「戦争」を求め初めており、即位後すぐに軍部の暴走が始まる。

軍閥の張作霖を暗殺し満州事変につながる軍部の跳梁に憂慮する天皇だったが、立憲君主である以上実権をふるうこともできず、現人神に祭り上げられてしまう。

皇道派将校による2.26事件は鎮圧したものの、穏健な政治家を失った。

好戦的な民意はますます強くなり、好戦的な新聞は部数を伸ばし、好戦的な政治家が好戦的な有権者の支持を集め大量当選した。

立憲君主として太平洋戦争の開始を認可するが、その結果はアジアの荒廃だった。

戦後、名目上の元首である天皇に戦争責任があるのか議論となったが、結果、引き続き昭和天皇は天皇であり続けた。

「最後の天皇」にもなりかけた昭和天皇だが以後の高度経済成長期を生き抜き、歴代最長在位64年を記録した。

20世紀最初の年1901年に生まれ、戦争の前半世期と再興の後半世期を生きた。まさに20世紀の日本の象徴。

明治政府(太政官制)

●三条実美(1837〜1891)(太政大臣在任1871〜1885)

明治政府の太政大臣。公家出身。

父は右大臣三条実万。母は土佐藩山内豊策の娘。

尊王攘夷志士。

その生まれの良さゆえに明治新政府の最高位である太政大臣に就任。

内閣制度が確立されるまで在位した。

むろん実際の権限は維新三傑(西郷・木戸・大久保)など元勲が握っており、維新三傑の死後も薩長土肥の藩閥参議が政治を行った。三条が全面に出ることは無かった。

下野元勲

●西郷隆盛(〜)(参議在任1871〜1873)

明治政府の参議。薩摩出身。維新三傑のひとり。

明治維新最大の功労者であり、明治政府の中枢だったが征韓論に敗れ、政府を離れ鹿児島に帰った。

地元士族たちの不満が爆発したとき大将として擁立された。

西南戦争と呼ばれるこの内戦では西郷=薩摩士族と明治政府=平民兵が対決。

近代装備の政府軍が旧式の薩摩士族を破った。

西郷は自決。侍の時代は完全に終わった。

●江藤新平(1834〜1874)(参議在任1873)

明治政府の参議。肥前出身。尊王攘夷志士。

明治維新の功労者であり、江戸遷都を実現させた。

民法の実現・司法改革にも力を尽くした。

木戸孝允らの外遊中は西郷と共に政府の中枢を担った。

征韓論に敗れ、政府を離れ地元肥前・佐賀に帰った。

しかし佐賀の士族たちの不満は強く、反乱の大将として擁立された。

佐賀の乱と呼ばれるこの内乱は失敗し 江藤は逮捕・処刑された。

●板垣退助(1837〜1919)(参議在任1871〜1873・1875)

明治政府の参議。土佐出身。維新志士。

乾退助。明治維新に参加。

征韓論に敗れ政府を離れる。

愛国公党・立志社・愛国社・国会期成同盟を結成して民権政治を求める運動を進める。

自由民権運動の政党「自由党」を結成。刺客に襲われるが死を逃れる。

民権運動の主役として人気を集めるが 後藤象二郎と共に呑気な外遊をするという失策をしてしまう。

自由党はいったん解党するが再結党。

同じく民権運動を進める大隈重信の進歩党と合同。

憲政党をたちあげ政権入り。初めての政党内閣をつくりあげる。

しかしこののち板垣は引退。

政府元勲

●木戸孝允(1833〜1877)(参議在任1871〜1874)

明治政府の参議。長州出身。維新三傑のひとり。

桂小五郎。蘭学を学ぶ。維新志士。

高杉晋作と共に長州藩を近代化。

坂本龍馬の仲介により薩摩と同盟。明治維新を成し遂げる。

岩倉具視や大久保利通と共に欧米を視察。

世界情勢の現実を知り、帰国後西郷や江藤の征韓論と対立。

江藤・西郷との内戦に勝利する。しかし直後に木戸は病死。

●大久保利通(1830〜1878)(参議在任1873〜1878)

明治政府の参議。薩摩出身。維新三傑のひとり。

西郷隆盛と共に島津久光に抜擢され薩摩藩の政権を握る。

長州と同盟して明治維新を達成。

岩倉具視らと共に欧米をめぐり世界情勢を見る。

帰国後、征韓論に勝利。江藤・西郷を攻め滅ぼした。

木戸孝允の死後は明治政府の第一人者として実権を握る。

しかし大久保ひとりに権力が集中している状況に不満を持つ勢力は多く、ついに暗殺された。

大久保の死により維新の主役は全て死に絶え、世代が交代する。

明治政府(内郭制)内閣総理大臣

●伊藤博文(1841〜1909)(在任1885〜1888)(在任1892〜1896)(在任1898)(立憲政友会1900〜1901)

明治政府の参議。初代内閣総理大臣。

長州藩の吉田松陰に学び尊王攘夷志士となる。

イギリスに留学し、帰国後長州藩の外交を担う。

維新後は岩倉・大久保・木戸と共に欧米を歴訪。

帰国後、征韓論を唱える西郷・江藤・板垣を政府から排除。

かわって伊藤が参議となる。

1881年、大隈重信を政権から追い実権を握る。

立憲君主国の制度整備に尽力し、自ら初代内閣総理大臣となる。

政党である自由党と協調して政治を進め、日清戦争を乗り切るが、政党勢力に敗れ退陣。大隈重信&板垣退助の憲政党に政権を譲った。

憲政党の板垣が引退し、立憲政友会が結成されると伊藤はその総裁となり、こんどは政党内閣として総理となる。

しかし三年後引退。政府の穏健派重鎮として大韓帝国に派遣される。

ロシア大臣との会談のためハルビン駅にいたところを何者かによって暗殺される。

朝鮮人の異常者(安重根)による犯行だった。韓国併合反対派だった伊藤が殺された事で、併合が進む事となった。

伊藤博文公は世界周知の如く日本の最も偉大かつ、有名な政治家である。

彼の韓国赴任は、たいへんな自己犠牲であった。

伊藤公が、その韓国改善のプランを打ち明けたとき、私の心は躍った。

そこには 改革、公正、斡旋があった。

(李朝朝鮮)が犯したあらゆる誤りがそこでは救済されるはずであった。

「私は、自分が韓国国民と日本国民との間に立って、両者の間に正義がおこなわれるようにすべき立場に立っていると思う」

と公はそう言明したのである。

カナダ人ジャーナリスト フレデリック・アーサー・マッケンジー

1906年 ロンドン・ディリーメール紙


韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。

高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手をとられて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において、三年間に二倍の進歩を遂げた。

宣教師 ラッド博士

私の見るところをもってすれば、伊藤侯の統治は最大なる賞賛に値するべきものであり、大変満足しております。

韓国国民は今やようやく、彼をもって自分達の友人であると知って、これを事実の上に現し始めました。

過去三年の間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして統監政治の最も熱心な支持者であることを告白せしめます。

私は伊藤侯の必ず成功 すべきことを信じて疑わないものであり、また、すべての宣教師及びその他の韓国における文明開発の義務を知る者は、等しく伊藤侯の統治を支持しなければならないと思います。

宣教師 ハリス博士

「伊藤博文公暗殺」に対するドイツ人の論調

<韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。

何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。

日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。

陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。

その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。

当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。

公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。>

ドイツ人 エルウィン・ベルツ博士

「伊藤公の追懐」

「伊藤公暗殺」に対するロシア人の論調

<思えば思うほど情けない限りである。

最後の大戦争(日露戦争)以前に伊藤公爵が言われたことを、もし、ロシアが聞いていたら、あの悲惨な戦争も、ロシアの敗戦という不名誉もなかったのである。

伊藤公爵のハルピン来訪目的は、わが大蔵大臣との外交上の空しい儀礼的なものでなかったことは、 誰もが知っていた。

伊藤公は「ロシアは満州から去れ」などという、一点張りの主張をする人ではない。

尊敬すべき老大偉人の逝去は、日本の損失ばかりでなく、わがロシアの損失であり、韓国が大損失をこうむることは必至である。>

東清鉄道長官 ホルワット少将

「ハルピン・ウェストニツク紙」

「伊藤公暗殺」に対する韓国皇帝の論調

伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。

公はわが国に忠実正義をもって望み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。

日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。

実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事の理事を解さない流浪人であろう。

十月二十七日

太皇帝(高宗)

伊藤を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。

その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない。

十月二十八日

太皇帝(高宗)

「伊藤公暗殺」に対してのイギリス人の論調

公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断派ではなく、平和的であったことはむしろ、グラッドストーンに類するところである。

財政の知識が豊富であったことはビールにも比すべく、策略を行うに機敏かつ大胆であったことは、ビーコンスフィールドに似ている。

公はすべての大政治家の特徴を抜粋して一身に集めた観がある。

殊に公は驚くべき先見の明を有し/要するに四十余年の永きにわたって終始一貫、国家の指導者たる地位を占めたのは、実に千古の偉観というべきである。

「伊藤公の性格」
ブリンクリー主筆

イギリス紙「ジャパーン・メール」

安重根の伊藤博文公の暗殺に驚愕し、謝罪・追悼の意を表した官民多くの韓国人!

(安重根の収監されている監獄に面会する者一人もなし!)

衝撃が走ったのは、韓国の王室ばかりではありません。

十一月四日の国葬(日比谷)には、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列しました。

同じ日にソウルの奨忠壇では、李完用首相の主催で、官民一万人が参列して追悼会がも催され、追悼会は全国各地に及びました。

一ヵ月後の十一月二十六日には漢城府民会、その翌日は大韓商務局総会、十二月十三日には永道寺がそれぞれ主催して、追悼式が持たれました。

当時、旅順監獄に繋がれていた安重根の所に面会に行く者はなく、伊藤博文に対しては「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等の賛辞が続きました。

そればかりではありません。

朝鮮民族の罪科を謝罪するために、全国十三道に呼びかけ、「渡日謝罪十三道人民代表臨時会議所」を設ける団体も現れました。

また一方では、伊藤公を閔帝廟のように、神として祀る運動やら銅像や頌徳碑を建立する運動も起こりました。

「日韓2000年の真実」名越二荒之助 著

伊藤博文公が韓国の自堕落官僚たちに与えた名訓示!

「日清戦争後間もなく、ロシアが手を韓国にのばすや、韓国はそれをとがめぬばかりか、韓国独立のために謀る日本を嫌厭した。

韓国は自国の独立の為には、不利なことは判りながらロシアに追従したではないか。

日清の役から日露の役に至る十年間、韓国は奮って、独立の要素を滋養しなければならなかった時期であったにもかかわらず、これを顧みず、或いは右に傾き、或いは左に傾いて、その為ついに、日本が韓国のためにロシアと戦わねばならなくした。

故に今日、日本が韓国の外交権を掌中に収めたのは、当然のことである。

何故ならば、これを依然として、韓国人の手中に収めて置くとするならば韓国は何時までも、列強の競争場となり、日本のために極めて危険だからである。

然るに韓国人は、今日にいたっても尚、外交権を回復するだけの実力を養う努力をしようとせず、しきりに、他国の援助によって、これを日本から取り去ろうとしているようである。

けれども、どんな国にせよ、他国のために自国の財力と国民の生命を供するものではない。

およそ、国家は、自ら独立する要素なくて、単に、他国に寄りかかっているだけで、立っていけるものではない。

今日のままで進むとすれば、韓国を亡ぼすものは、他国ではなく、韓国自身ではなかろうか。

故に諸君は反転表裏なく、専心一意、韓国のために謀らなければならない。

日本は諸君を助けて、韓国を独立させるよう尽力しつつある。

然るに韓国人は日露戦争のような大激戦を目撃しながら、尚、覚醒しないのは何事であろうか。

そうだ。韓国を亡ぼすのは日本人ではなくて、内外の形成を察せず、無謀軽挙を事とする韓国人である。

自分は韓国の改革に絶望した事もしばしばである。

然しながら、韓国の形勢に顧みて、忍耐して従来の方針を改めないる国は自ら立たなくてはならない。

今日のように進むならば、韓国はもはや、自滅の外ない。」

●黒田清隆(1840〜1900)(在任1888〜1889)

薩摩出身の志士。西郷・大久保の死後薩摩藩閥の有力人物となった。

転任した伊藤博文にかわって総理大臣となる。

閣内の支持を得られず退任。政権を離れた。

●山県有朋(1838〜1922)(在任1889〜1891)(在任1898〜1900)

明治政府の参議。3代内閣総理大臣。

長州藩の吉田松陰に学び尊王攘夷志士(奇兵隊)となる。

伊藤・黒田内閣では大臣職を歴任。

総理に就任すると軍事費を増強。内閣解散後は日清戦争に参加。

再度総理に就任すると軍事費増強。

中国で義和団がおこると欧米各国と共に中国に出兵した。

桂太郎に内閣を譲り、日露戦争では指揮をとる。

以後も陰でその権勢をふるい続けた。

政治家というより軍人。

偶然明治維新の志士だったから有力者となったまでで、世が世なら単なる軍人で終わったのでは?

●松方正義(1835〜1924)(在任1891〜1892)(在任1896〜1897)

薩摩出身。維新で働く。

薩摩の偉人たちに引き立てられ累進。

西郷や大久保の死後は薩摩藩閥の代表者となる。

大蔵大臣を歴任して財政を切り盛りする。

山県の跡をうけ内閣総理大臣となるが支持を得られず退陣。

二度目の総理就任時には進歩党(大隈重信)&自由党(板垣退助)を味方につける。辞職後も長生きした。

薩摩出身の実力者は西郷も大久保も黒田も死んだが松方は長寿をたもち薩摩元勲として権勢を持ち続けた。

大久保利通の後継者。財政屋さん。

●大隈重信(〜)(参議在任1871〜1881)(憲政会1898)(立憲同志会1914〜1916)

肥前佐賀藩出身。

肥前佐賀藩の。

●桂太郎(〜)(在任1901〜1905)(在任1908〜1911)(在任1912〜1913)

●西園寺公望(〜)(政友会1906〜1908)(政友会1911〜1912)

●山本権兵衛(〜)(在任1913〜1914)(在任1923)

●寺内正毅(〜)(在任1916〜1918)

●原敬(〜)(立憲政友会1918〜1921)

●高橋是清(〜)(政友会1921〜1922)

●加藤友三郎(〜)(在任1922〜1923)

●清浦奎吾(〜)(在任1924)

●加藤高明(〜)(在任〜)

●若槻礼次郎(〜)(在任〜)

●田中義一(〜)(在任〜)

●浜口雄幸(〜)(在任〜)

●犬養毅(〜)(在任〜)

●斎藤実(〜)(在任〜)

●岡田啓介(〜)(在任〜)

朝鮮人移住対策ノ件(昭和9年10月30日 岡田啓介内閣 閣議決定)

朝鮮人関係ノ各種犯罪、借家紛議其ノ他各般ノ問題ヲ惹起シ内鮮人間ニ事端ヲ繁カラシメ 内鮮融和ヲ阻害スルノミナラス治安上ニモ憂慮スヘキ事態を生シツツアリ

国立国会図書館 議会官庁資料室  http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00103.htm
●広田弘毅(〜)(在任〜)

●林銑十郎(〜)(在任〜)

●近衛文麿(〜)(在任〜)

●平沼騏一郎(〜)(在任〜)

●阿部信行(〜)(在任〜)

●米内光政(〜)(在任〜)

●東条英機(〜)(在任〜)

●小磯国昭(〜)(在任〜)

●鈴木貫太郎(〜)(在任〜)

●東条英機(1884〜1948)

太平洋戦争時の大日本帝国総理大臣(1941〜1944)兼参謀総長。

早い話が独裁者。

国民に対して捕虜となる事は許さず自決せよと教育した。

敗戦後捕らえられ死刑にされた。


太平洋戦争

どうも朝鮮総連だとか韓国政府だとかが歴史を捏造して反日をやっているようなので、「大日本帝国」時代の歴史人物について「おさらい」をしてみました。

朴春琴(パク・チュングム)(1891〜1973)

衆議院議員。東京4区選出。1932年初当選。37年再選。

朴春琴という本名で立候補し、本名で当選し、本名で衆議院議員を務めた。太平洋戦争中の42年にも朴春琴の名で立候補したが、惜しくも落選。ちなみに、1930年からはハングル文字による投票も認められていたそうです。朝鮮半島内での地方選挙でもハングルによる投票ができました。

創氏改名により名前が奪われた、とか、ハングルを禁止された、とかいう妄言は全てウソだという事が良くわかります。それどころか、朝鮮人が許可なく日本名を名乗る事を禁止していたのです。1911年には日本名を禁止する法律が総督府から出されています。日本名を名乗らせてくれ、という陳情をする朝鮮人が多いため導入されたのが創氏改名です。

手続きをしなければ、パクさんの氏は自動的にパクになり、申請をすれば日本風の氏にすることも可能、というのが「創氏」の実態です。名前のほうまで日本風に改名するためには、手数料を支払う必要があった。およそ8割の朝鮮人が申請をしたそうです。申請をしなかった人は、朝鮮風の氏で登録されました。

参考までに言うと、アメリカでは1965年にようやく黒人参政権が認められている。

この議員は朝鮮人の志願兵制度を強く請願し、多くの朝鮮人が応募しました。厳しい選考の結果、朝鮮人が採用されたようです。

選りすぐりの精鋭である彼らは各地で活躍しました。

陸軍特別志願兵
採用 応募
昭和13年 406 2,946
14年 613 12,348
15年 3,060 84,443
16年 3,208 144,743
17年 4,077 254,273
18年 6,300 303,394

日本軍では多くの朝鮮人が日本軍人として士官や兵士となっていたが、全て志願兵でした。

また、徴兵令が朝鮮人に初めて適用されたのは1944年(昭和19年)であり、徴兵された朝鮮人兵士は訓練期間が足りなかったため実戦には出ず終戦を迎えました。

召集令状一枚で軍隊に「強制連行」され「強制労働」を強いられていた一般の日本人とは違いますね。

ちなみに、現代の韓国では3年間の軍役が「強制」されています。北朝鮮では全てが強制労働であり、自由はありません。

洪思翊(ホン・サイック)
   

大日本帝国陸軍中将。陸軍士官学校・陸軍大学校卒。

1944年、フィリピンに出撃。捕虜収容所の所長となる。

戦後、フィリピンにて戦犯として山下奉文大将と共に戦犯裁判にかけられた。

捕虜虐待の冤罪を着せられるが、一言の弁明もせず、死刑が確定。「絞首合格だ」と語ったという。

絞首刑に処せられた。魂は靖国神社に祀られている。

昔より冤死せしものあまたあり

われもまたこれに加わらんのみ

洪思翊(こうしよく) 辞世の句

その後、洪は韓国で「親日」として糾弾され、遺族は韓国人から迫害された。李承晩は洪の息子の洪国善を親日派だとして日本に追放した。

 

★佐藤栄作首相と洪思翊(こうしよく)中将

佐藤栄作首相は満州鉄道の監査官の時、洪思翊中将に世話になった。

佐藤首相は遺族の未亡人と長男(韓国で虐げられ日本に来た)に会うと同情し、

「恩のお返しとして些少だが受け取って欲しい」

と百万円(現在の八百万円程度)を贈与した。※佐藤首相の他、たくさんの人が洪の遺族を支援した。佐藤首相は当時は現職であり、堂々と支援できなかった。

遺族は6年間、日本に留まったが、1975年に未亡人は次男の留学先であるロサンゼルスへ旅立った。その年、知人の安藤氏から遺族の近況を聞いた。安藤氏はこう答えた。

「百万円は定期預金で数十万円の利息がつき、そのお金で未亡人は渡米し、次男の家に着いた」

すると佐藤はこう言った。

「ありがとう。心配だったが立場上、充分な事が出来なかった」「申し訳ないと思っている。これで私も“忘恩の徒”にならずにすんだ」

その直後、佐藤首相は安藤氏の隣に倒れてしまった。それ以後、佐藤首相は意識を回復せず、亡くなった。

佐藤栄作首相の陰徳       (刑死した韓国人である大日本帝国陸軍中将への恩返し) 佐藤栄作首相は満鉄の鉄道監察官時代、刑死した洪思翊中将に世話になった。 佐藤首相は遺族の未亡人と長男に会うと同情し、「大陸時代の洪氏への誼み にこたえる餞別として些少だが受け取っていただきたい」として、自分の私財 百万円を贈与したという。  佐藤首相は当時現職であり、おおぴらに支援できなかったという。 遺族は六年間、日本に留まったが、五十年三月、未亡人は次男の留学先である ロスアンゼルスへ旅立ったという。  その年、築地の料亭で佐藤氏を囲む会が開かたおり、知人の安藤氏から遺族の 近況を聞いた。知人曰く「遺族は総理からいただいた百万円は定期預金にして おいたので数十万の利息がつき、そのお金をもって未亡人は無事渡米し、次男宅 に落ちついた」と、報告をした。  すると佐藤首相は「安藤さんありがとう、気にかかりながらも立場上、充分なこと ができず、申し訳なかった。これで私も忘恩の徒にならずにすんだ」と人情味溢れる 言葉で述懐したという。その直後、少し離れた席にいた福田赳夫氏と二言三言話した 佐藤首相は安藤氏のひざの横に倒れてしまった。それ以後、佐藤首相は意識を回復 することなく、延々と眠り続け、六月三日に永眠したという。                 「日韓2000年の真実」より要約抜粋
李垠(りこん)

大日本帝国陸軍中将。

李王朝の王族。最後の皇太子。

李鍵(りけん)

大日本帝国陸軍中佐。

李王朝の王族。懿親王の息子。李の兄。

松平佳子と結婚。戦後、日本国籍となり桃山虔一と名乗る。

その後は日本人として生きたが、日本の旧華族や旧皇族たちと同様、生活に苦しんだそうだ。

(りぐう)

大日本帝国陸軍中佐。教育参謀。

李王朝の王族。懿親王の息子。李鍵の弟。

1945年8月6日、広島原爆により死亡。

1945年8月7日、葬儀。

1945年8月8日、通夜を終えた後、補佐役だった副官の吉成弘中佐が責任を感じ自害。

1945年8月15日、玉音放送の直後、ソウル東大門にて阿部信行朝鮮総督などにより陸軍葬が行われた。

靖国神社に眠る。

朴泳孝(パク・ヨンヒョ)

貴族院議員。侯爵。朝鮮李王族の娘婿。韓国国旗である太極旗の考案者だと言われている。

朝鮮李王朝は腐敗しきっており、中国やロシアや諸外国からの侵略にさらされても朝鮮政府は何もせず、朝鮮の上流階級である身分の高い連中は、ただ国民を苦しめて贅沢をするばかりだった。それに反発したのが朴だった。

1884年、中国清王朝からの朝鮮侵略に反発し、日本と同盟し朝鮮を守ろうと明治維新をモデルとした朝鮮政府の改革を目指すが失敗。日本に亡命する。

その後、日清戦争により中国清王朝は弱体化するが、今度はロシアからの朝鮮侵略にさらされる。朝鮮の大臣になっていた朴は危機感を持ち、やはり日本と同盟し朝鮮維新・近代化を行い朝鮮を守ろうとするが失敗。ふたたび日本に亡命する。

どうしようもなく腐りきった朝鮮政府は国民からの支持も失い、諸外国からの朝鮮侵略も目前となった。日本との併合を望む政治家も増えたため、伊藤博文などの併合反対政治家の声を押し切り日韓合併が行われた。

1932年、朴は貴族院の議員となった。

金錫源

陸軍大佐。中国戦線で活躍し、金鵄勲章功三級を受ける。

歴史上、朝鮮半島は常に中国の支配下にあり、中国からの使者が来れば朝鮮王は土下座で迎えていた。

その朝鮮人が、中国の大軍を撃破するというのは朝鮮半島の人間にとっては感動的な事だった。

尹致昊や崔麟等といった人までが朝鮮神宮に参拝して彼の戦勝を祈願した。

また彼の活躍に感化されて朝鮮人の志願兵が多数応募してきた。

陸軍士官学校に合格していた崔慶禄も、入学辞退して志願兵となった一人。

太平洋戦争終結後、金錫源は金日成討伐部隊長となり朝鮮戦争で活躍。

韓国軍が敗北を続けたとき、兵士たちを叱咤激励した。

帝国陸軍時代から愛用している日本刀を振るって部隊の指揮を執った。

若き将軍の朝鮮戦争 - 白善ヨップ回顧録
崔慶禄

陸軍少尉。朴春琴衆議院議員が呼びかけた「志願兵」に応じて陸軍に入る。

陸軍士官学校に合格していたが辞退し前線に出る。

白襷斬り込み隊長となりニューギニアにて奮戦し負傷する。

戦後、韓国の陸軍師団長、士官学校長、参謀総長、駐日韓国大使などを務める。

以前、日本人の政治家に何故自衛隊を軍隊にしないのかと質問した所、まだ早いという答えをもらった。

私は日本の憲法を知っているが、敵国に攻撃されたのならば反撃できる軍事力を保有するのは当然の権利であるし義務だ。

日本はどうして世界の一部の国の国民のみの機嫌を窺っているのか。

アジアの代表国たる日本が確固たる軍事力を持ち、アジアの守りになることを期待している。

-駐日韓国大使 崔慶禄

「自分は韓国を愛するがゆえに親日である」

「私は幸運にも陸軍時代、よい上官に恵まれた。小野少将ばかりではなかった。朝鮮軍司令部の最後の参謀長であった井原潤次郎中隊長も視野が広く、日韓関係を深く理解しておられた。私もこういう指揮官になりたいと憧れていた。しかしこれらの人々はすべて亡くなられて今会うことはできない。何としても残念だ」

「戦前の日本人には信頼できる立派な人々が多かった。それに対して現在の日本の政治家は周囲に気兼ねしてか、正直に本当のことを言う人が皆無に近い。私がもし日本の首相だったら、一日でよい。洗いざらい本当のことを発言してみたい。それでやめさせられたら本望だし、それによって日本国民の目は覚め日本は本来の姿にたちかえるに違いない」

-駐日韓国大使 崔慶禄
「日韓2000年の真実」名越二荒之助著より
朴正煕 
我が五千年の歴史はひと言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。 いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を 広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢でもって 民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性 を発揮したことがあっただろうか。いつも強大国に押され、盲目的に外来 文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかった。 「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。 我々はただ座してわらを編んでいただけではなかったか。 自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、 この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することは出来ないで あろう。 以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない。全体的 に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである。 このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。 「朴正熙選集」−我々は今何をいかになすべきか−      近代韓国の祖 韓国史上唯一の英雄・愛国者 朴正熙 韓国大統領
朴 正煕 1917(大正6)年9月30日生 1979(昭和54)年10月26日没 慶尚北道亀尾出身 韓国の軍人 政治家 1937(昭和12)年 大邱師範学校卒  小学校教師となる 1942(昭和17)年 満州・新京軍官学校首席卒業 「高木正雄」少尉として日本の陸軍士官学校に派遣留学 1944(昭和19)年 日本陸軍士官学校を卒業(卒業成績3番) 関東軍に編入 1945(昭和20)年8月 北京郊外の駐屯地で終戦を迎える  終戦時、満州軍歩兵第八団の団長副官 満州国陸軍中尉 1946(昭和21)年5月 韓国に帰還 朴大統領は戦後の反日教育を推し進めた人物だが日本の半島管理を非常に高く 評価していた常識人でもある。 中曽根元首相との対談より 『私は貧農の生まれで学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の 役人が両親を説得して小学校に行く事が出来た。そしたら学校の教師が お前は頭が良いから無料の師範学校に行った方が良いと推薦してくれた。 師範学校では更に優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。 その結果士官学校首席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校に 成る事が出来た。 今の私が有るのは清廉で誠実な日本人達のおかげである。』 【福田和也との対談】 韓国の朴正煕大統領がこんな話をしてくれました。彼の周囲にいるかつて軍人 だったような威勢のいい連中は、酒に酔ってくると「日本はけしからん」と言い だす。それに対して朴大統領は「まあ、待て」となだめながら自らの歩みを語 る。朴大統領は貧農の出身で、教育を受けたいと思いながら、とても無理だろう とあきらめていた。ところが日本がその統治下で義務教育制を敷いたことで、朴 少年も学校に通うことができた。また満州軍官学校を首席で卒業した彼は、その 特典で日本の陸軍士官学校に留学し、卒業します。日本は朴少年のような存在に そうした機会を与えた。 http://www1.jca.apc.org/aml/200004/17323.html  私はよくよく我が子孫と朝鮮民族の将来を考えたあげくに、こうするのが当然 だという堅い信念に到達したのである。日本人との差別がなくなること以外に 朝鮮人は何を望むだろうか。したがって差別の除去のために、あらゆる努力を 注ぐことが、最も重大にして緊急なこととなる。我々の在来の姓名は、支那を崇拝していた祖先の遺物である。今我々は日本帝国の臣民である。支那人と混同される姓名をもつよりも、日本人と混同される氏名をもつことが、最も自然だと信ずる。 「創氏とわたし」           韓国の英雄的文学者 李光洙(香山光郎と創氏改名) 月日がたつにつれ(日本と韓国は)こんなにお互い違ってきたのです。 食べ物も、言葉も、着物も、名前のつけ方も、これは私たちが支那を  あまりに崇拝した関係もあるのですが、とにかく悔しくてならないこと は、その名前のつけ方まで支那のまねをしたということです。したがっ  て、創氏改名、つまり朝鮮人が内地人(日本人)流に氏名をつけると いうことは自分達の祖先の清風に従うことなんだ。中国の模倣を脱して  古代の朝鮮に帰ることなんだ。ただ単に太古に帰るのみではなく、今日 の内地(日本)の一切の風習に向かって、自発的に勇敢に帰還すること  ことによつて、進んで祖国に栄光をあらしめ、ひいては我らの子孫の易き に置くことができる。ならば、創氏改名するに何のためらうことがあるだ  ろうか。 「半島風習のその祖国への合理的発展的帰還を論すの言」 金文輯  日本は、統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった 状況から一足飛びに近代化したことは、どうしても否定できない事実である。 日韓併合後、日本人は鉄道、道路、架橋、用水路、植林、河川整備、堤防、 港湾、学校施設の建設をはじめとする、大規模な公共事業を始めた。このため に、それまで韓国には、食うや食わずの失業者がひしめいていたが、一般の 民衆に仕事が与えられて大いに潤った。 日本は乱脈だった李氏末期の韓国社会を正した。韓国に法治社会をもたらし た。  日本が韓国を統治した間に、一方的な収奪を行ったというのは、大きく事実 に反する。今日、日本統治時代を体験した韓国の知識人は、それが事実である ことを知っていながら、客観的事実を認めることを拒んでいる。韓国は日本の 力によって短期間のうちに、日本人が咀嚼した西洋の実用主義を定着させ、近代 世界に入ることができたのだ。日本統治時代になって、はじめてまじめに働く 多くの者が報いられるようになった。また、韓国人の福祉が大きく増大したのだ。 「醜い韓国人」朴泰赫          朝鮮半島学徒出陣総決起大会にて 「愛する諸君よ。汚れた朝鮮民族という名にしがみついて、汚辱の生存を  送るよりも、栄光ある大日本皇民の名の下に死すべきであります。栄光の 死の中にこそ、悠久の大義に生きる不滅の生があるのであります」    昭和十八年十一月二十日 李光洙(韓国近代文学の祖)東京明大講堂 現在の日本人の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は 決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態 を打開しようと最後まで取り組んだ。それまでの日本はアジアのホープで あり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それ を呑むことは屈辱を意味した。事態ここに至る。座して死を待つよりは、 戦って死すべし、というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道 の発露であった。日本の武士道は、西洋の植民地勢力に捨て身の一撃を与え た。それは大東亜戦争だけではなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と 大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立 をもたらした。この意義はいくら強調してもし過ぎることはない。                    「日本文化研究所」設立者 朴鉄柱

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在日コリアンの来歴 なぜ日本に住むようになったのか?
強制連行者は戦後ほぼ帰国済み

:現在の在日朝鮮人は強制連行とは無関係です。

強制連行の実態

:実際には「強制連行」ではなく、「徴用」や「募集」でした。

日本人も朝鮮人も台湾人も同じ扱いでした。

強制連行・朝鮮と台湾

:朝鮮人の歴史主張は、政治的反日プロパガンダの捏造でしかない。

朝鮮人渡日の原因と総督府の施策

:併合前の朝鮮は、ひどい環境でした。

密航

終戦後に日本へ密入国した朝鮮人犯罪者は数十万人以上。

これが現在の在日朝鮮人の祖先の主流です。

日韓併合前後 朝鮮半島写真館
 
「台湾人と日本精神」 蔡焜燦 2000年 日本教文社

(台湾出身の著者は岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた)

昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

(中略)

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。

(中略)

昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。

苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。 若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。

(中略)

佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。


中国の実態
私の村は地獄になった 韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ああ, 震撼の韓国軍!

● 韓国政府による人質外交

韓国初代大統領、李承晩(Rhee Syngman)は1952年1月18日一方的に公海上に国境線を引き領有を宣言。
当時、韓国側にいた日本の漁船を襲撃、日本人漁師4000人以上を誘拐して人質とし、日本領竹島を武装占拠し、
非武装であった日本政府に対して脅迫外交を開始した。
この際、日本人44名の死者が出ている。

韓国政府の要求は、日本に収監されていた韓国人犯罪者の釈放、および韓国人密入国者の日本滞在の合法化などを含む完全に不法な要求であったが、防衛力を持たない当時の日本は韓国の要求を受け入れざるを得ず、以後これらの処遇は在日韓国人の既得権となったまま、今日に至っている。

虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、 助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土 をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。  「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」 と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り 落としてやる」 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から 海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺した クアンガイ省ソンミ村がある。  それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも 悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき 、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚え ている。  だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それ から「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。 「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の 会長を務めているチャムも言う。  アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。 韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。 日露戦争の回顧 (日米共同作成・映像の世紀11集) 【インド初代首相、ネルー】 日本の勝利は、私を熱狂させた 私は新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ちこがれた。 どんなに感激したことか、どんなにたくさんのアジアの少年少女、そして大人が同じ感激を体験したことか。 ヨーロッパの強国ロシアは、アジアの国、日本に破れた。 だとすれば、アジアはヨーロッパを打ち破ることが出来るはずだ。 「アジア人のアジア」という声がわき起こったのである。