
司馬徽 |
貞観十一年。太宗は考えた。 |
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太宗 |
周は子弟を王に封じて八百余年続き、秦は諸侯を封ずるのをやめて郡県制にして僅か二世で滅亡した。
漢の高祖の皇后の呂后は漢を乗っ取ろうとしたが、結局、各地に封ぜられた皇族の力によって安泰を得た。
親族や賢人を王に封ずる事は子孫長久の計に違いあるまい。 |
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そこで、太宗は子弟二十一人、長孫無忌や房玄齢など十四人を世襲の刺史とする詔を下した。
それに対して李百薬が反論して申し上げた。 |
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私が聞くところによりますと、国を治め民をかばい護るのは王者の常であり、君主を尊び、お上を安んずるのは人民の心の大道であります。と。
世の中が治まる法則を明らかにし、永久に王朝の世が続く事業を大いにする事は永久に普遍であり、人々の考えは違っていても帰着点は同じであります。
しかしながら実際には、王朝を継続する年数には長い短いの違いがあり、国家には治まると乱れるとの異なりがあります。昔の書籍を見まするに、これを詳細に論じております。
みなが言いますには『周は天の命じた年数に過ぎ、秦は期待した年数に及ばなかった。その存亡の道理は郡国制に原因がある。周は夏殷の長久であったのを教訓として堯舜が諸侯を並べ立てた事に従い、封じた一族の子供たちが堅固な城となって守り、国家の基礎をしっかりと固め、たとえ王室が緩みすたれても、王室と諸侯とがお互いに助け合った。それゆえに王命に従わないものが生まれず、王室が続いていく事が出来たのである。秦は古を師とすべきであるという教訓にそむき、先王の道を捨て、崋山を切って城として険阻を頼み、諸侯をやめて郡守を置き、子弟たちには僅かな領地もなく、万民たちは共に太平の世にしようと思うものがまれであった。それゆえに一夫が謀反を叫ぶや国が滅んでしまった』と。
私が思いますに古来天子が天下に君臨するのは天命を受け、その名を天帝の未来記に刻むからであります。
魏の武帝(曹操)の父は養子の身分であり、漢の高祖(劉邦)は卑賤な人夫でありましたけれどその心に天子になろうという身分不相応な野望があったばかりでなく、押しのけようとしてもどうすることが出来ない命運があったのであります。
堯舜の優れた徳をもってしても、その子孫を盛んにする事は出来ませんでした。と、すれば、王朝の長短というのは天のめぐり合わせであり、政治の盛衰は人事に関係があることと思います。
盛んなる周は世代を占うと三十、年代を占うと七百でありました。これは天子の位というのは上天において定まっているからであります。
しかし、昭王は南に巡幸して不慮の死に遭って帰らず、平王は東に遷都して異民族の侵入を避け、とうとう都の近くまで守ることが出来なくなりました。それは、しだいに衰微し封建の手助けを受けることが無かったからであります。
暴虐なる秦は天下を統一しましたけれども五行の相場によると正統ではなく、そのめぐり合わせは厄災の起こる念でありました。始皇帝の徳は過去の聖王たちの徳とは異なり、跡継ぎの才能も聖王たちの跡継ぎと違って愚かでありました。ですから、李斯たちが四方の諸侯となったとしても、天命にかなった漢の高祖の勃興に逆らうことは出来なかったでしょう。
そうして見れば、得ると失う、成功と失敗にはそれぞれ原因があるのであります。
それなのに著述家の多くは旧法に固執して新しいものを取り入れようとせず、心は昔と今との違いを忘れ、今の世と古代の世を見抜くことせずに、百王の末の衰世に三代の法をおこない、天下に諸侯を封じようとしています。これは太古の縄を結んで約束したやり方を今の世に行い、刑罰の代わりに特殊な衣服を着せて恥を知らせたという過去の法によって漢や魏の末世を治めようとするものであります。こんなことでは、国家の制度が緩み乱れる事は明らかであります。
爵位は世襲でなければ賢人を登用しやすくなります。人民に諸侯のような定まった主が無ければ、人民を巻き込んだ謀反にはなりません。慎んで考えますに、陛下は政権を握って天下を治め、天命に従って天子となり万民の苦しみを救い、暴虐なやからを国内から追放し王朝の基礎を建てて後世に伝え、天地と合致する広大な徳を立て、号令を発布するには万物に通じる善美な言をなされます。
ご自身の御心に考えられて往古の世を思い五等の諸侯の旧制にもどし、多くの国を封じて諸侯と親しもうとなされました。
群臣たちが宮中が暑く湿っており寝食が安らかでないので、高く日当たりのよい場所に移って小さい御殿をお造りになられる事を願った。しかし、陛下はその経費が人民十家ぶんの財産に相当する事を惜しんで、結局、群臣たちの願いを抑え、健康を害する事を憂えずに低く湿った住居に安んじておられました。
また、このごろの凶作で天下が飢饉で陛下は人民のためを思い金銭や物を恵む事に努力され、その結果、一人の人民も家を離れて道路に流浪する者がありませんでした。そのうえ、食事は粗末なものをお食べになり、音楽の道具を取り払い、お言葉は悲しみに激動し、お顔つきはお痩せになっておられました。
周公旦は遠い外国が通訳を重ねてきた事を喜び、禹は異民族が秩序正しくなった事を自慢しました。
しかし、陛下は四方の異民族が心服し、万里の遠い国も人徳に帰服するのを見るたびに必ず退いては思い進んでは反省し、むやみに軍事力で遠くの国を征服して永遠の名声を得ようとはなさらずに現在の繁栄を図ることに心がけられています。
御心はたえず万民を心配して力を尽くされ、行幸をおやめになられた。
毎朝、朝廷に出て政務を執られ飽きずに臣下の言葉を聞きいれ、万人を救済しました。
政務の後も優れた臣下を招いては政治を討論しその話題は政治に関することばかりで無駄話などありませんでした。やっと、日暮れになりますと、才知学問に優れた者に命じて書籍について高尚なお話をなされ、折々には文章詩歌をおつくりになっています。
そして、夜更けまで疲れを忘れ夜半までに寝つかれませんでした。
これは人類あって以来、ただ一人のお方であります。
このような陛下の徳による感化を広めて明らかに四方にお示しになられます。そうすれば一年の間に天下をあまねく治めることが出来ます。しかしながら、悪い風習に長く染まっている人が多く、すぐには変改することが困難な場合が多いものです。
どうか、陛下の徳が天下に行き渡り封禅の礼が終るのを待ってから今回の諸侯を封じる事の是非を論議しても遅い事はございません。
易経に『天地さえも満ち欠けがあり、時と共に消長する。まして人は時と共に盛衰するのは当然のことである』とありますが、この言葉は誠に立派であります。 |

李百薬 |
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馬周も太宗に申し上げた。 |
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慎んで勅令を拝見いたしまするに、皇族、勲功のある賢臣に遠い国都の領主としてその地を鎮護し、その領地を子孫に残し、大きな悪行が無い限りは罷免する事がないようにしようということでございます。
私が慎んで考えまするに陛下が諸侯に封ずるのは宗室を愛し、勲賢を重んじ、その子孫が長く受け継いで守り、国家と共に永遠に続くようにと望まれたからでございます。
私が思いますに詔のおもむきのようなことでございますならば、陛下はこれらを安全に長存させ、富貴にすることをお考えになればよろしいと存じます。そうでございますれば、何も世襲の官にする必要はないと存じます。
なぜなら、堯舜のような賢人を父としながらも、不肖の子が生まれました。まして、これよりもはるかに下ったものでありながら、父の功績によって子を採用しようとしますれば、恐らくは失敗する事が大きいでございましょう。
もし、幼い子が父の職を次ぐものがあって、万一にもわがまま勝手な人間でありますれば多くの人民はその被害を受け、国家もその失敗の影響を受けましょう。 |

馬周 |
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太宗は二人の意見を喜んで受け入れた。 |
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太宗 |
わかった。今回の勅令は撤回する事にする。 |
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