智の館2
論封建 第2章


司馬徽
世襲の弊害


登場人物紹介

太宗
唐の2代目皇帝。
2代目といってもぼんぼんではない。父の代わりとして中国各地を転戦し唐の中国統一の最大の功労者。
兄と弟が自分を殺害しようとしていたことを知ると先手を打ってこれを討ち、父親を幽閉して皇帝の座につく。
長い中国の歴史の中でも屈指の名君として必ずその名は挙げられ、その治世は『貞観の治』と呼ばれ後世の手本とされた。

房玄齢
当初から太宗に従い、帷幄の中にあって策をめぐらし太宗をよく補佐した。秦王府十八学士の冠首とされる。唐の諸制度も杜如晦との名コンビで作り上げ、貞観の治の立役者の一人といってよい。

長孫無忌
太宗の長孫皇后の兄。当初から太宗に従い、各地を転戦した。
高宗の時代になると政治の中枢に座ったが、則天武后が高宗の皇后に立てようとする動きに反対したため、讒言に遭い謀殺された。

李百薬
初めは隋に仕え、その後、唐に帰順した。貞観の初年に中書舎人となり、その後、礼部侍郎に上った。
唐の家臣団の中で最も詩に長じていた。

馬周
長安に旅行に来ていた時にひょんなことから太宗の知遇を得て門下省へ詰めることになった。後に中書令と太子右庶子と吏部尚書を兼ねて唐になくてはならない存在になった。




司馬徽
貞観十一年。太宗は考えた。

太宗
周は子弟を王に封じて八百余年続き、秦は諸侯を封ずるのをやめて郡県制にして僅か二世で滅亡した。
漢の高祖の皇后の呂后は漢を乗っ取ろうとしたが、結局、各地に封ぜられた皇族の力によって安泰を得た。
親族や賢人を王に封ずる事は子孫長久の計に違いあるまい。
そこで、太宗は子弟二十一人、長孫無忌や房玄齢など十四人を世襲の刺史とする詔を下した。
それに対して李百薬が反論して申し上げた。
私が聞くところによりますと、国を治め民をかばい護るのは王者の常であり、君主を尊び、お上を安んずるのは人民の心の大道であります。と。
世の中が治まる法則を明らかにし、永久に王朝の世が続く事業を大いにする事は永久に普遍であり、人々の考えは違っていても帰着点は同じであります。
しかしながら実際には、王朝を継続する年数には長い短いの違いがあり、国家には治まると乱れるとの異なりがあります。昔の書籍を見まするに、これを詳細に論じております。
みなが言いますには『周は天の命じた年数に過ぎ、秦は期待した年数に及ばなかった。その存亡の道理は郡国制に原因がある。周は夏殷の長久であったのを教訓として堯舜が諸侯を並べ立てた事に従い、封じた一族の子供たちが堅固な城となって守り、国家の基礎をしっかりと固め、たとえ王室が緩みすたれても、王室と諸侯とがお互いに助け合った。それゆえに王命に従わないものが生まれず、王室が続いていく事が出来たのである。秦は古を師とすべきであるという教訓にそむき、先王の道を捨て、崋山を切って城として険阻を頼み、諸侯をやめて郡守を置き、子弟たちには僅かな領地もなく、万民たちは共に太平の世にしようと思うものがまれであった。それゆえに一夫が謀反を叫ぶや国が滅んでしまった』と。

私が思いますに古来天子が天下に君臨するのは天命を受け、その名を天帝の未来記に刻むからであります。
魏の武帝(曹操)の父は養子の身分であり、漢の高祖(劉邦)は卑賤な人夫でありましたけれどその心に天子になろうという身分不相応な野望があったばかりでなく、押しのけようとしてもどうすることが出来ない命運があったのであります。
堯舜の優れた徳をもってしても、その子孫を盛んにする事は出来ませんでした。と、すれば、王朝の長短というのは天のめぐり合わせであり、政治の盛衰は人事に関係があることと思います。
盛んなる周は世代を占うと三十、年代を占うと七百でありました。これは天子の位というのは上天において定まっているからであります。
しかし、昭王は南に巡幸して不慮の死に遭って帰らず、平王は東に遷都して異民族の侵入を避け、とうとう都の近くまで守ることが出来なくなりました。それは、しだいに衰微し封建の手助けを受けることが無かったからであります。
暴虐なる秦は天下を統一しましたけれども五行の相場によると正統ではなく、そのめぐり合わせは厄災の起こる念でありました。始皇帝の徳は過去の聖王たちの徳とは異なり、跡継ぎの才能も聖王たちの跡継ぎと違って愚かでありました。ですから、李斯たちが四方の諸侯となったとしても、天命にかなった漢の高祖の勃興に逆らうことは出来なかったでしょう。
そうして見れば、得ると失う、成功と失敗にはそれぞれ原因があるのであります。

それなのに著述家の多くは旧法に固執して新しいものを取り入れようとせず、心は昔と今との違いを忘れ、今の世と古代の世を見抜くことせずに、百王の末の衰世に三代の法をおこない、天下に諸侯を封じようとしています。これは太古の縄を結んで約束したやり方を今の世に行い、刑罰の代わりに特殊な衣服を着せて恥を知らせたという過去の法によって漢や魏の末世を治めようとするものであります。こんなことでは、国家の制度が緩み乱れる事は明らかであります。

爵位は世襲でなければ賢人を登用しやすくなります。人民に諸侯のような定まった主が無ければ、人民を巻き込んだ謀反にはなりません。慎んで考えますに、陛下は政権を握って天下を治め、天命に従って天子となり万民の苦しみを救い、暴虐なやからを国内から追放し王朝の基礎を建てて後世に伝え、天地と合致する広大な徳を立て、号令を発布するには万物に通じる善美な言をなされます。
ご自身の御心に考えられて往古の世を思い五等の諸侯の旧制にもどし、多くの国を封じて諸侯と親しもうとなされました。

群臣たちが宮中が暑く湿っており寝食が安らかでないので、高く日当たりのよい場所に移って小さい御殿をお造りになられる事を願った。しかし、陛下はその経費が人民十家ぶんの財産に相当する事を惜しんで、結局、群臣たちの願いを抑え、健康を害する事を憂えずに低く湿った住居に安んじておられました。
また、このごろの凶作で天下が飢饉で陛下は人民のためを思い金銭や物を恵む事に努力され、その結果、一人の人民も家を離れて道路に流浪する者がありませんでした。そのうえ、食事は粗末なものをお食べになり、音楽の道具を取り払い、お言葉は悲しみに激動し、お顔つきはお痩せになっておられました。
周公旦は遠い外国が通訳を重ねてきた事を喜び、禹は異民族が秩序正しくなった事を自慢しました。
しかし、陛下は四方の異民族が心服し、万里の遠い国も人徳に帰服するのを見るたびに必ず退いては思い進んでは反省し、むやみに軍事力で遠くの国を征服して永遠の名声を得ようとはなさらずに現在の繁栄を図ることに心がけられています。
御心はたえず万民を心配して力を尽くされ、行幸をおやめになられた。
毎朝、朝廷に出て政務を執られ飽きずに臣下の言葉を聞きいれ、万人を救済しました。
政務の後も優れた臣下を招いては政治を討論しその話題は政治に関することばかりで無駄話などありませんでした。やっと、日暮れになりますと、才知学問に優れた者に命じて書籍について高尚なお話をなされ、折々には文章詩歌をおつくりになっています。
そして、夜更けまで疲れを忘れ夜半までに寝つかれませんでした。
これは人類あって以来、ただ一人のお方であります。

このような陛下の徳による感化を広めて明らかに四方にお示しになられます。そうすれば一年の間に天下をあまねく治めることが出来ます。しかしながら、悪い風習に長く染まっている人が多く、すぐには変改することが困難な場合が多いものです。
どうか、陛下の徳が天下に行き渡り封禅の礼が終るのを待ってから今回の諸侯を封じる事の是非を論議しても遅い事はございません。
易経に『天地さえも満ち欠けがあり、時と共に消長する。まして人は時と共に盛衰するのは当然のことである』とありますが、この言葉は誠に立派であります。

李百薬
馬周も太宗に申し上げた。
慎んで勅令を拝見いたしまするに、皇族、勲功のある賢臣に遠い国都の領主としてその地を鎮護し、その領地を子孫に残し、大きな悪行が無い限りは罷免する事がないようにしようということでございます。
私が慎んで考えまするに陛下が諸侯に封ずるのは宗室を愛し、勲賢を重んじ、その子孫が長く受け継いで守り、国家と共に永遠に続くようにと望まれたからでございます。
私が思いますに詔のおもむきのようなことでございますならば、陛下はこれらを安全に長存させ、富貴にすることをお考えになればよろしいと存じます。そうでございますれば、何も世襲の官にする必要はないと存じます。
なぜなら、堯舜のような賢人を父としながらも、不肖の子が生まれました。まして、これよりもはるかに下ったものでありながら、父の功績によって子を採用しようとしますれば、恐らくは失敗する事が大きいでございましょう。
もし、幼い子が父の職を次ぐものがあって、万一にもわがまま勝手な人間でありますれば多くの人民はその被害を受け、国家もその失敗の影響を受けましょう。

馬周
太宗は二人の意見を喜んで受け入れた。

太宗
わかった。今回の勅令は撤回する事にする。




司馬徽
李百薬は遠まわしに馬周はずばりと世襲の弊害を訴えた。
意見を喜んで聞いたり、一度出した勅令を撤回したりするなど、普通の人物には出来ないのう。
なるほど〜。
世襲には馬周さんが言ったような弊害がありますから考えどころですね〜。

鏡秋雪

司馬徽
よいぞ、よいぞ

飛覇帥
ところで、わしの褒章は?
さ〜て、来週のサザエさんは!
鏡秋雪

飛覇帥
ごまかしているつもりなのか・・・・






原文
第二章
貞観十一年、太宗以へらく、周は子弟を封じて、八百余年、秦は諸侯を罷めて、二世にして滅ぶ。呂后、劉氏を危くせんと欲するも、終に宗室に頼りて安きを獲たり。親賢を封建するは、当に是れ子孫長久の道なるべし、と。乃ち制を定め、子弟、荊州の都督荊王元景・安州の都督呉王恪等二十一人を以て、又、功臣、司空趙州の刺史長孫無忌・尚書左僕射宋州の刺史房玄齢等一十四人を以て、竝びに世襲刺史と為す。
礼部侍郎李百薬、奏論して以て世封の事を駁して曰く、臣聞く、国を経し民を庇ふは、王者の常制、主を尊び上を安んずるは、人情の大方なり。治定の規を闡きて、以て長世の業を弘めんとする者は、万古、易はらず、百慮、帰を同じくす。然れども命暦にe促の殊なる有り、邦家に治乱の異なる有り。遐く載籍を観るに、之を論ずること詳かなり。
咸云ふ、周は其の数に過ぎ、秦は期に及ばず。存亡の理は、郡国にあり。周氏は以て夏殷の長久に鑒み、唐虞の竝び建つるに遵ひ、維城盤石、根を深くし本を固くし、王綱弛廃すと雖も、而も枝幹相持す。故に逆節をして生ぜず。宗祀をして絶えざらしむ。秦氏は古を師とするの訓に背き、先王の道を棄て、華を剪り険を恃み侯を罷め守を置き、子弟、尺土の邑無く、兆庶、治を共にするの憂罕なり。故に一夫号呼して、七廟*きZ(きひ)す、と。
臣以為へらく、古より皇王、宇内に君臨するは、命を上玄に受け、名を*帝ろく(ていろく)に飛ばし、締構、興王の運に遇ひ、殷憂、啓聖の期に属せざるは莫し。魏武の攜養の資、漢高の徒役の賎と雖も、止だ意に覬覦あるのみに非ず、之を推すも亦去る能はざるなり。若し其れ獄訟、帰せず、菁華已に竭くれば、帝尭の四表に光被し、大舜の上七政を斉ふと雖も、止だ情に揖譲を存するのみに非ず、之を守るも亦固くす可からざるなり。放勲・重華の徳を以てすら、尚ほ克く厥の後を昌にする能はず。是に知る、祚の長短は、必ず天時に在り、政或は盛衰するは、人事に関る有るを。
隆周、世を卜すること三十、年を卜すること七百。淪胥の道斯に極まると雖も、文武の器猶ほ存す。斯れ則ち亀鼎の祚、已に懸に杳冥に定まるなり。南征して反らず、東遷して逼を避け、*いん祀(いんし)、綫の如く、郊畿守らざらしむるに至りては、此れ乃ち陵夷の漸、封建に累はさるる有り。暴秦、運、閏余に距り、数、百六に鍾る。受命の主、徳、禹湯に異なり、継世の君、才、啓誦に非ず。借ひ李斯・王綰の輩をして、咸く四履を開き、将閭・子嬰の徒をして、倶に千乗を啓かしむとも、豈に能く帝子の勃興に逆ひ、龍顔の基命に抗する者ならんや。
然れば則ち得失成敗、各々由る有り。而るに著述の家、多く常轍を守り、情、今古を忘れ、理、澆淳に蔽はれざるは莫く、百王の李を以て、三代の法を行ひ、天下五服の内、尽く諸侯を封じ、王畿千里の間、倶に菜地と為さんと欲す。是れ則ち結縄の化を以て、虞夏の朝に行ひ、象刑の典を用つて劉曹の末を治むるなり。紀綱の弛紊すること、断じて知る可し。船に*きざ(きざ)みて剣を求む、未だ其の可なるを見ず。柱に膠して文を成す。弥々惑ふ所多し。徒らに、鼎を問ひ隧を請ひ、勤王の師を懼るる有り、白馬素車、復た藩籬の援無きを知り、望夷の釁、未だ*げいさく(げいさく)の災よりも甚だしからざるを悟らず。高貴の殃、寧ぞ申繪の酷に異ならんや。此れ乃ち欽明昏乱、自ら安危を革むるなり。固に守宰公侯の、以て興廃を成すに非ず。且つ数世の後、王室*ようや(ようや)く微なること、藩屏より始まり、化して仇敵と為り、家、俗を殊にし、国、政を異にし、強、弱を陵ぎ、衆、寡を暴し、*疆えき(きょうえき)彼此、干戈侵伐し、狐駘の役、女子尽く*ざ(ざ)し、*こう陵(こうりょう)の師、隻輪、反らず。斯れ蓋し略ぼ一隅を挙ぐ。其の余は勝げて数ふべからず。
陸士衡、方に規規然として云ふ、嗣王、其の九鼎を委て、凶族、其の天邑に拠る。天下晏然として、治を以て乱を待つ、と。何ぞ斯の言の謬まれるや。而して官を設け職を分ち、賢に任じ能を使ひ、循良の才を以て、共治の寄に膺る。刺挙、竹を分つ、何の世にか人無からん。地をして或は祥を呈し、天をして宝を愛まず、民をして父母を称し、政をして神明に比せしむるに至る。
曹元首、方に区区然として称す、人と其の楽を共にする者は、人必ず其の憂を分ち、人と其の安きを同じくする者は、人必ず其の危きを拯ふ、と。豈に以て侯伯とせば、則ち其の安危を同じくし、之を牧宰に任ずれば、則ち其の憂楽を殊にす容けんや。何ぞ斯の言の妄なるや。封君列国、慶を門資に藉りて、其の先業の艱難を忘れ、其の自然の崇貴を軽んじ、世々淫虐を増し、代々驕侈を益さざるは莫く、離宮別館、漢に切し雲を凌ぎ、或は、人力を刑して将に尽きんとし、或は諸侯を召して共に楽す。陳霊は則ち君臣、霊に悖り、共に徴舒を侮り、衛宣は則ち父子、*ゆう(ゆう)を聚にし、終に寿・朔を誅す。乃ち云ふ、己が為めに治を思ふ、と。豈に是の若くならんや。
内下の群官、選ぶこと朝廷よりし、士庶を擢でて以て之に任じ、水鏡を澄まして以て之を鑒し、年労、其の階品を優にし、考績、其の黜陟を明かにす。進取、事切に、砥砺、情深く、或は俸禄、私門に入らず、妻子、官舎に之かず、班條の貴き、食、火を挙げず、割符の重き、衣、惟だ補葛、南陽の太守、弊布、身を裹み、莱蕪の県長、凝塵、甑に生ず。専ら云ふ、利の為めに物を図る、と。何ぞ其れ爽へるや。
総べて之を云ふに、爵は世及に非ざれば、賢を用ふるの路斯れ広し。民に定主無ければ、下を附くるの情、固からず。此れ乃ち愚智の弁ずる所なり。安んぞ惑ふ可けんや。国を滅ぼし君を殺し、常を乱り紀を干すが如きに至りては、春秋二百年の間、略ぼ寧才無し。次*すい(すい)咸秩し、遂に玉帛の君を用ふ。魯道、蕩たる有り、毎に衣裳の会に等し。縦使西官の哀平の際、東洛の桓霊の時、下吏の淫暴なるも、必ず此に至らず。政を為すの理、一言を以て焉を蔽ふ可し。
伏して惟みるに、陛下、紀を握り天を御し、期に膺り聖を啓き、億兆の焚溺を救ひ、*氛しん(ふんしん)寰区より掃ひ、業を創め統を垂れ、二儀に配して以て徳を立て、号を発し令を施し、万物に妙にして言を為す。独り神衷に照らし、永く前古を懐ひ、将に五等を復して旧制を修め、万国を建てて以て諸侯を親しまんとす。
竊かに以ふに、漢魏より以還、余風の弊未だ尽きず、勲華既に往き、至公の道斯に革まる。況んや晋氏、馭を失ひ、宇県崩離す。後魏、時に乖き、華夷雑処す。重ぬるに関河分阻し、呉楚県隔するを以てす。文を習ふ者は長短縦横の術を学び、武を習ふ者は干戈戦争の心を尽くす。畢く狙詐の階と為し、弥々澆浮の俗を長ず。開皇の運に在るや、外家に因藉し、群英を臨御し、雄猜の数に任じ、坐ながら時運を移し、克定の功に非ず。年、二紀を踰ゆるも、人、徳を見ず。大業の文に嗣ぐに及びて、世道交々喪ひ、一人一物、地を掃ひて将に尽きんとす。天縦の神武、冦虐を削平すと雖も、兵威、息まず、労止未だ康からず。陛下、慎んで聖慈に順ひ、嗣ぎて宝暦に膺りてより、情深く治を致さんとし、前王を綜覈す。至道は名づくる無く、言象の絶ゆる所なりと雖も、略ぼ梗概を陳ぶるは、実に庶幾ふ所なり。
愛敬蒸蒸として、労して倦まざるは、大舜の孝なり。安を内豎に訪ひ、親ら御膳を嘗むるは文王の徳なり。憲司が罪を*げつ(げつ)し、尚書が獄を奏する毎に、大小必ず察し、枉直咸く挙げ、断趾の法を以て、大辟の刑に易へ、仁心陰惻、幽顕に貫徹するは、大禹の辜に泣けるなり。色を正し言を直くし、心を虚しくして受納し、鄙訥を簡せにせず、芻蕘を棄つる無きは、帝尭の諌を求むるなり。弘く名教を奨め、学徒を観励し、既に明経を青紫に擢で、正に碩儒を卿相に升せんとするは、聖人の善く誘ふなり。
群臣、宮中暑湿にして、寝膳或は乖くを以て、徙りて高明に御し、一小閣を営まんことを請ふ。遂に家人の産を惜み、竟に子来の願を抑へ、陰陽の感ずる所を吝まず、以て卑陋の居に安んず。頃歳霜倹、普天饑饉、喪乱甫めて爾り、倉廩空虚なり。聖情矜愍し、勤めて賑恤を加へ、竟に一人の道路に流離するもの無し。猶ほ且つ食は惟れ*藜かく(れいかく)楽は*しゅんきょ(しゅんきょ)を徹し、言は必ず悽動し、貎は*く痩(くそう)を成す。
公旦は重訳を喜び、文命は其の即叙を矜る。陛下、四夷款附し、万里仁に帰するを見る毎に、必ず退きて思ひ、進みて省み、神を凝らし慮を動かし、妄りに中国を労して、以て遠方を求めんことを恐れ、万古の英声を藉らずして、以て一時の茂実を存し、心、憂労に切に、跡、遊幸を絶つ。毎旦、朝を視、聴受、倦むこと無く、智は万物に周く、道は天下を済ふ。朝を罷むるの後、名臣を引き進めて、是非を討論し、備に肝膈を尽くし、惟だ政事に及びて更に異辞無し。纔に日昃くに及べば、必ず才学の師に命じて、賜ふに静閑を以てし、高く典籍を談じ、雑ふるに文詠を以てし、間ふるに玄言を以てす。乙夜、疲るるを忘れ、中宵まで寐ねず。此の四道は、独り往初に邁ぐ。斯れ実に生民より以来、一人のみ。
茲の風化を弘め、昭かに四方に示す。信に朞月の間を以て、天壌を弥綸す可し。而るに淳粋尚ほ阻たり、浮詭未だ移らず。此れ習の永久に由り、以て卒に変じ難きなり。請ふ、琢雕を朴と成し、質を以て文に代へ、刑措くの教一たび行はれ、登封の礼云に畢るを待ちて、然る後、疆理の制を定め、山河の賞を議せんこと、未だ晩しと為さず。易に称す、天地の盈虚は、時と消息す、況んや人に於てをや、と。美なるかな斯の言や、と。
中書人馬周、又上疏して曰く、伏して詔書を見るに宗室勲賢をして、藩部に鎮と作り、厥の子孫に貽し、嗣ぎて其の政を守らしめ、大故有るに非ずんば、黜免すること或る無からん、と。臣竊かに惟みるに、陛下、之を封植するは、誠に之を愛し之を重んじ、其の胤裔承守し、国と与に疆無からんことを欲するなり。臣以為へらく、詔旨の如くならば、陛下宜しく之を安存し、之を富貴にする所以を思ふべし。然らば則ち何ぞ世官を用ひんや。
何となれば則ち尭舜の父を以て、猶ほ朱均の子有り。況んや此より下る以還にして、而も父を以て兒を取らんと欲せば、恐らくは之を失ふこと遠からん。儻し孩童の職を嗣ぐ有りて、万一驕恣なれば、則ち兆庶、其の殃を被りて、国家、其の敗を受けん。政に之を絶たんと欲するや、則ち子文の治猶ほ在り。政に之を留めんと欲するや、而ち欒黶の悪已に彰はる。其の見存の百姓を毒害せんよりは、則ち寧ろ恩を已亡の一臣に割かしめんこと明かなり。
然らば則ち向の所謂之を愛するは、乃ち適に之を傷ふ所以なり。臣謂ふに宜しく賦するに茅土を以てし、其の戸邑を疇しくし、必ず材行有りて、器に随ひて方に授くべし。則ち其の*翰かく(かんかく)強きに有らずと雖も、亦、以て尤累を免るるを獲可し。昔、漢の光武、功臣に任ずるに吏事を以てせず。其の世を終全する所以は、良に其の術を得たるに由るなり。願はくは陛下、深く其の宜を思ひ、夫をして大恩を奉ずるを得て、子孫をして其の福禄を終へしめんことを、と。太宗竝びに其の言を嘉納す。是に於て、竟に子弟及び功臣の刺史を世襲するを罷む。