智の館2
論封建 第1章


司馬徽
公平な褒章


登場人物紹介

太宗
唐の2代目皇帝。
2代目といってもぼんぼんではない。父の代わりとして中国各地を転戦し唐の中国統一の最大の功労者。
兄と弟が自分を殺害しようとしていたことを知ると先手を打ってこれを討ち、父親を幽閉して皇帝の座につく。
長い中国の歴史の中でも屈指の名君として必ずその名は挙げられ、その治世は『貞観の治』と呼ばれ後世の手本とされた。

房玄齢
当初から太宗に従い、帷幄の中にあって策をめぐらし太宗をよく補佐した。秦王府十八学士の冠首とされる。唐の諸制度も杜如晦との名コンビで作り上げ、貞観の治の立役者の一人といってよい。

杜如晦
当初から太宗に従い、房玄齢から『王佐の才』があると高く評価された。
房玄齢が企画力に優れていたのに対して、杜如晦は決断力に優れ、軍事、政治に多難であった太宗の治世の初期をよく支えた。

長孫無忌
太宗の長孫皇后の兄。当初から太宗に従い、各地を転戦した。
高宗の時代になると政治の中枢に座ったが、則天武后が高宗の皇后に立てようとする動きに反対したため、讒言に遭い謀殺された。

神通
高祖の従弟。
高祖に従って長安を制圧し、淮安王に封ぜられた。

高祖
李淵。煬帝の圧政によって国内が乱れると、李世民(太宗)に押し切られる形で挙兵し長安を占拠し、唐を建国した。
優柔不断なところがあり、それが李健成(皇太子)と李世民(太宗)の確執を招き、遂には兄弟が殺しあうという悲劇を招いてしまった。
その後は李世民に幽閉され、皇帝の座を譲った。
優柔不断と優しさというのは表裏一体であると感じさせる人物。




司馬徽
貞観元年。太宗は論功行賞を行った。

太宗
房玄齢は那国公。
杜如晦は蔡国公。
長孫無忌は斉国公に勲功第一等としてそれぞれ任じる。
ありがたき幸せ。
房玄齢
御意。
杜如晦
よりいっそうの働きに期待してくだされ。
長孫無忌
それに対して、太宗の叔父である、淮安王神通は不平を漏らした。
隋末に高祖が義軍の旗を掲げられたとき、私は部下を引き連れて真っ先に長安を制圧しました。
ところが、房玄齢や杜如晦などの文字を書くだけの小役人が勲功第一等とは・・・。恐れながら陛下の論功行賞に承服出来ません。

神通

太宗
国家にとっての最重要事はただ、賞と罰である。もし、賞がその功労に相当していれば、功績のない者は自然と引き下がる。罰がその罪に相当していれば、悪を行うものは戒め恐れるものである。
だから、賞罰というのは軽々しく行ってはならない。
今、私は勲功を計って賞を与えたのである。房玄齢たちは戦場での功績は無いが戦争の際には大将の本営で策略をめぐらし、乱を平定した後には国家経営のための方策を確立したという大きな功績がある。
むむむ。
神通

太宗
漢の高祖の三傑の一である蕭何は戦場での軍功は無いけれども、戦時には後方から指令を発し、戦後には漢の高祖を天子に推戴した。だから、漢朝において勲功第一にいる理由である。
叔父どのは我が唐の国家にとってもっとも近親である。だから、褒賞を与えるのに物惜しみをする事は少しも無い。
ただ、個人的な縁故によってやたらに勲功のある臣と賞を同じくしてはならないのである。
この話を聞いていた功臣たちはお互いに話し合った。
陛下はこの上もない公平なやり方で賞を行い、その親族にもえこひいきをしなかった。
われわれはどうして、やたらに不平を訴える事が出来ようか。

家臣

家臣
うむ。まったく、その通りだ。
唐が建国された頃、高祖は血縁が少しでもある者を、とにかく王に任じた。その数は数十人もいた。
太宗は左右の家臣に言った。

太宗
前後漢以降、子と兄弟だけを王に封じた。疎遠な者は大功が無ければ王に封ぜられなかった。
父上のように遠い親族まで残らず王に封じ、多くの労役者を給付すれば、これこそ、万民を労苦させ自分の親族を養う事になってしまう。
太宗は皇族の中で王に封ぜられて以後、格別の功労の無い者を郡公に格下げした。




司馬徽
太宗の身内もひいきしない論功行賞は立派じゃのう。家臣たちも心服し、いっそう仕事に励んだ事じゃろう。
なるほど〜。
賞罰は大切ですね。

鏡秋雪

司馬徽
よいぞ、よいぞ
わたしもそろそろ、論功行賞をやらなきゃいけませんね〜。
第一等はやはり、琵琶侍さんでしょうかねえ。

鏡秋雪

琵琶侍
べぇぇーん、べべぇぇーん(琵琶の音色)。
(にやり)

飛覇帥
わしはどうなのじゃ!
天下統一を果たしのはこのわしじゃぞ!
次は私に協力してくれた、昌幸さんですね。
鏡秋雪

鏡昌幸
ありがたき幸せ!!
(恥ずかしながら、この昌幸。殿の軍門に下りたく・・・云々)

飛覇帥
げぇ!昌幸!いつの間にか苗字まで変わってるし!
(しかも、小声でファミコンゲームの不如帰のセリフなんか言ってるしw)






原文
第一章
貞観元年、中書令房玄齢を封じて刑国公と為し、兵部尚書杜如晦を蔡国公と為し、吏部尚書長孫無忌を斉国公と為し、竝びに第一等と為し、実封千三百戸なり。皇従父淮安王神通、上言すらく、義旗初めて起るや、臣、兵を率ゐて先づ至れり。今、房玄齢・杜如晦等は、刀筆の人、功、第一に居る。臣、竊に服せず、と。
太宗曰く、国家の大事は、惟だ賞と罰とのみ。若し、賞、其の労に当れば、功無き者自ら退く。罰、其の罪に当れば、悪を為す者戒懼す。則ち賞罰は軽々しく行ふ可からざるを知る。今、勲を計りて賞を行ふ。玄齢等は、帷幄に籌謀し、社稷を画定するの功有り。漢の蕭何は、馬に汗すること無しと雖も、蹤を指し轂を推す、故に功第一に居るを得る所以なり。叔父は国に於て至親なり。誠に愛惜する所無し。但だ私に縁りて濫りに勲臣と賞を同じくす可からざるを以てなり、と。是に由りて諸功臣自ら相謂ひて曰く、陛下、至公を以て賞を行ひ、其の親に私せず。吾が属何ぞ妄りに訴ふ可けんや、と。
初め高祖、宗正の籍を挙げ、弟姪・再従・三従の孩童已上、王に封ぜらるる者数十人なり。是の日に至りて、太宗、群臣に謂ひて曰く、両漢より已降、惟だ子及び兄弟のみを封ず。其の疏遠なる者は、大功有ること漢の賈・択の如きに非ざれば、竝びに封を受くるを得ず。若し一切、王に封じ、多く力役を給せば、乃ち是れ万姓を労苦せしめて、以て己の親族を養ふなり、と。是に於て、宗室の先に郡王に封ぜられ、其の間に功無き者は、皆降して郡公と為す。