智の館2
任賢 第2章


司馬徽
王佐の才


登場人物紹介

太宗
唐の2代目皇帝。
2代目といってもぼんぼんではない。父の代わりとして中国各地を転戦し唐の中国統一の最大の功労者。
兄と弟が自分を殺害しようとしていたことを知ると先手を打ってこれを討ち、父親を幽閉して皇帝の座につく。
長い中国の歴史の中でも屈指の名君として必ずその名は挙げられ、その治世は『貞観の治』と呼ばれ後世の手本とされた。

杜如晦
当初から太宗に従い、房玄齢から『王佐の才』があると高く評価された。
房玄齢が企画力に優れていたのに対して、杜如晦は決断力に優れ、軍事、政治に多難であった太宗の治世の初期をよく支えた。

房玄齢
当初から太宗に従い、帷幄の中にあって策をめぐらし太宗をよく補佐した。秦王府十八学士の冠首とされる。唐の諸制度も杜如晦との名コンビで作り上げ、貞観の治の立役者の一人といってよい。




司馬徽
杜如晦は京兆の万年県の出身で、武徳の初年に秦王府の兵曹参軍となった。その時、秦王府には多くの優れた人材が多かったが、他に転任させられる者が多くいた。

太宗
房玄齢よ。これほど、人材が引き抜かれるとつらいものがあるな。
秦王府から去る者が多くとも、それは惜しくはございません。ただ、杜如晦殿は聡明で見識に優れ、帝王の補佐としての才能がある人物でございます。もし、大王が諸侯で満足なさるのなら、彼を用いる場所はございませんでしょう。
しかし、帝王として天下を治めようと思いますなら彼以外に良い人材はおりませぬ。

房玄齢

太宗
ふむ。
太宗は高祖に願い出て杜如晦を秦王府の直属の配下にした。
この時期、軍事と国政に問題が多かったが、杜如晦の裁決はよどみなく同僚から敬服された。
太宗が皇帝の地位についてからは杜如晦と房玄齢の二人は朝廷の政事にとりくみ、唐の諸制度はみな、二人が制定したものであった。
当時の人たちは房杜と並び称した。




司馬徽
杜如晦は決断力に優れ太宗を良く支えた。そして、唐の諸制度を作り上げて貞観4年に死去しておる。
うむ。
貞観4年で亡くなっていたのか。道理で、今まで出番がなかったわけだな。このような人材がいたからこそ太宗は大きく飛躍できたのだな。

飛覇帥

司馬徽
よいぞ、よいぞ

鏡秋雪
(窓の外を眺めている)
窓際大臣。何か言いたいことはあるか?
飛覇帥

鏡秋雪
ここはいい席ですねぇ。
(窓の外を見ている)
何が見えるのじゃ?
飛覇帥

鏡秋雪
教えてあげません。
ほほう。これは、これは(にやり)
むむむ。気になる・・・
飛覇帥






原文
第二章
杜如晦は、京兆万年の人なり。武徳の初、秦王府の兵曹参軍と為る。俄かに陝州総管府の長史に遷さる。時に府中、英俊多く、外遷せらるるもの衆し。太宗、之を患ふ。記室房玄齢曰く、府僚の去る者、多しと雖も、蓋し惜むに足らず。杜如晦は聡明識達、王佐の才なり。若し大王、藩を守りて端拱せば、之を用ふる所無からん。必ず四方を経営せんと欲せば、此の人に非ざれば、可なる莫からん、と。太宗、遂に奏して府属と為し、常に帷幄に参謀せしむ。時に軍国多事、剖断、流るるが如し。深く時輩の服する所と為る。累りに天策府の従事中郎に除せられ、文学館学士を兼ぬ。
隠太子の敗るるや、如晦、玄齢と功等し。擢んでられて太子左庶子に拝せらる。俄かに兵部尚書に遷さる。進んで蔡国公に封ぜられ、実封一千三百戸を賜る。貞観二年、本官を以て侍中を検校す。三年、尚書左僕射に拝せられ、兼ねて選事を知す。仍ほ房玄齢と共に朝政を掌り、臺閣の規模、典章・文物に至るまで、皆二人の定むる所なり。甚だ当代の誉を獲、時に房杜と称す。