太宗が即位した時、霜害や旱魃によって米穀の価格が高騰した。その上、突厥が侵入略奪をし、国内の州県は騒然となった。太宗の志は人民を憂えることにあった。一心になって政治を行い、倹約を尊び、大いに恩徳を敷き施した。この時、都の長安から河東、河南、隴右に及ぶまで飢饉がもっとも甚だしく、一匹の絹でわずかに一斗の米が手に入れられるという有様だった。人民は東に西にと食物のあるところを追い求めて移動したけれども少しも嘆き恨むことなく、みな安らかに落ち着いていた。
貞観三年になると都を中心とした関中の地は豊作となった。人民たちは故郷に帰り、結局、一人として国を捨てなかった。太宗が民心を得ているのはこのようであった。
その上に臣下の諌言に従うことは水の流れのようにすらすらと聞き入れ、かねてから儒学を好み、努力して賢士を求め、人を選んで官に任ずることに努力し、昔の悪習を改革し、制度を復興し、常に一つ事を行うについて同類のものに触れ及ぼして善を行うようにした。
太宗が即位する前、兄の健成と弟の元吉との党で共に太宗を殺害しようと謀った者は数百から千人いた。しかし、事件が治まった後、その多くを引き入れて左右に近侍に置いた。このように心の持ち方が広く大きく、少しも疑いためらうことがなかった。これについて、当時の世論はよく大事を裁決し、帝王としての体を備えていると言った。
官吏の欲張りで心の汚れた者を深く憎み、法律を悪用して財貨を受けた者があれば許すことはなかった。また、在京の流外官で賄賂を受ける者があれば皆、天子に申し上げさせその犯した罪によって重い処罰をした。そのため、官吏は自然と清謹となった。王公や親戚、勢力がある家や悪くてずる賢い者たちを押さえつけた。そのため、皆天子の威光を恐れて逃げ隠れてしまい、貧民を侵し騙す事がなくなった。
行商人が野宿をしても盗賊の心配がなく、罪を犯す者がないために牢獄はいつも空だった。放し飼いにした馬や牛が野原に多くいて、民家では戸締りを数ヶ月もしないほど治安が安定した。また、毎年、豊作が続き、米価が一斗で三、四銭であった。旅行者は都の長安から広東に行ったり山東から東海の方面に行くのに食料を携帯する必要がなく行き先で調達することが出来た。また、国内が平和で豊かになったので山東の村落では通過する旅行者に手厚いもてなしをして、時には贈り物をするものもあった。
このようなことは過去にはなかったことである。 |