智の館2
政体 第9章


司馬徽
民衆の治め方


登場人物紹介

太宗
唐の2代目皇帝。
2代目といってもぼんぼんではない。父の代わりとして中国各地を転戦し唐の中国統一の最大の功労者。
兄と弟が自分を殺害しようとしていたことを知ると先手を打ってこれを討ち、父親を幽閉して皇帝の座につく。
長い中国の歴史の中でも屈指の名君として必ずその名は挙げられ、その治世は『貞観の治』と呼ばれ後世の手本とされた。

魏徴
太宗の兄に仕えて太宗暗殺を計画し積極的にこれを勧めた。しかし、これに失敗。逆に太宗に捕らえられた。
その見識の高さと剛直さを太宗に認められ大臣に抜擢された。その後も太宗を恐れることはなく諌言を繰り返し、太宗の治世を支え続けた。
魏徴が亡くなった時、太宗は「自らの過ちを正す貴重な鏡を失った」と嘆いた。

封徳彝
(ほうとくい)はじめは隋に仕えていたが、その後、宇文化及と共に唐に降った。
太宗が即位すると尚書右僕射となったが、貞観元年に死去。
常識的な考えを述べることが多かった。
旧唐書の太宗本紀と封徳彝伝では貞観元年に死去となっているが貞観政要では七年ぐらいまで登場していたりする。謎な人物。




司馬徽
貞観元年。太宗は会議の席で古来からの政治のやり方について重臣たちと語り合っていた時の事。

太宗
今は隋末の大乱の後で民衆の心は荒れ果ててしまっているからすぐには平和で治まった世の中を作り出す事はできそうもないのう。
そんなことはございません。乱後の民衆の方が治めやすいものでございます。
およそ、民衆というものは安楽な状態にあれば、わがまま気ままになります。そうなると、何か事件が起こらないかと乱を思うようになります。乱を思うようになると治める事は困難になります。
逆に現在の民衆のように、命の危険にさらされ困窮している状態にあれば、いつ死ぬかもしれないと心配します。死ぬことを心配すれば平和な世の中を願うようになります。平和な世の中を願っているのですから、教えやすいものです。
乱後の民衆が治めやすいのは飢えた人がどんな物でも食べるのと同じであります。

魏徴

太宗
ふむ・・・。しかし、論語には「善良な人が国を治めると、百年たった後に、不善人の残虐な行為を制圧し、殺伐な風習を去る」とあるではないか。大乱後によく治まった世を作り出すのはすぐには出来ず、百年はかかるのではないか?
その論語の言葉は平凡な君主について語ったもので、陛下のような聖哲の天子が教化を行えば上下の者が一心になり、打てば響くように民衆は陛下の教化に応じます。
格別に急がなくても迅速になり、一年で教化することができましょう。ですから、本当に困難ではございません。三年で成功しても遅いと思うくらいです。

魏徴

太宗
なるほどのう。
お待ちくだされ。私はそうは思いませぬ。
そもそも、夏・殷・周の三代以降、民衆の心はしだいに軽薄で真心がなくなってきています。ですから、秦では法律を用いて厳重に民衆を取り締まり、漢では王道だけでなく武力や権力による覇道を併用して民衆を治めたのです。二つの王朝は平和な世の中を作り出そうとしましたが民衆から真心が失われていたために王道だけでは治める事が出来なかったのです。
魏徴は世間知らずの学者であり、彼の言葉は机上の空論でございます。魏徴は現在に必要で適切な政務について分かっておりません。もし、魏徴の意見を信じますと、恐らく国家はどうしようもないほど乱れてしまうことでしょう。

封徳彝

太宗
むむむ。
昔の五帝・三王は悪い前の時代の人民を残らず取り替えて治めたわけではございません。帝道を行えば帝になり、王道を行えば王となりました。その時に人民を教化するやり方いかんであります。この事は古典を紐解けば分かることでございます。
例えば、夏の桀王は暴虐をなしたので湯は桀王を放逐しました。そして、湯の在世中に太平の世が作り出されました。また、殷の紂王は無道をなしたので周の武王に討たれ、武王の後を継いだ成王の世もまた太平の世ができました。この二人の王は前の時代の荒れた人民の全てを取り替えて太平の世を作り出したわけではございません。
もし、封徳彝殿が仰るように古代から人間はしだいに人情が薄くなり真心が無くなっていくもので、太古の純朴には帰らないというのなら、五帝・三王の世から千年二千年と経った今の世の中の人間は怪物になっているべきであります。
そうなってはどうして、教化などできましょうや。

魏徴

太宗
うむ。私は魏徴の意見に賛成じゃ。
これからは帝道王道をもって人民を治めるようにしよう。
(むむむ。魏徴め。さすがに口は達者だわい。しかし、現実は魏徴が思うほど甘くはない。
絶対にうまくいくはずがない)

封徳彝
封徳彝は理路整然とした魏徴の意見に反論することができなかった。しかし、封徳彝も群臣たちも魏徴のような考えは不可能だと思った。
太宗は魏徴の意見に共感し常に仁義道徳をもって政治を行う事を努力して怠らなかった。その結果、数年のうちに国内は極めて平安に治まった。
時は流れて貞観七年。会議後のくつろいだ時間に太宗は大臣たちに語った。

太宗
貞観の初年に群臣はこぞって異論を唱えていた。「今の世には帝道王道のような仁義道徳を重んじる政治を行うことはできません。法律や権力によってびしびしと取り締まらねば、こんな荒れた人民たちは治められません」と、言っていた。その時、ただ、魏徴だけは私に仁義道徳を重んじる政治を行うことを勧めてくれた。
その言葉に従った結果、数年も経過しないうちに国内は安寧になり、遠い異民族までも先方から服従してくるようになった。
突厥は古来から中国の強敵であった。ところが、今は突厥の酋長たちが刀を腰に帯びて宮中に宿営するようになり、突厥の部落では中国の風俗に感化されてすべて中国の衣服を身につけている。
私が少しも武器を使わないで、わずか数年でこのような平和な時代を作り出すようにしてくれたのは全て魏徴の力である。
太宗は魏徴を見つめて言った。

太宗
宝石というものは立派な素質があっても石に埋もれて磨かれなければ、瓦や小石と区別がない。しかし、良工に出会って磨かれれば万世の宝物となる。
私には美質はないけれども、そなたによって切磋琢磨された。そなたが私の人格を仁義によって引き締め、道徳によって広めた努力のおかげで私はここまで来る事ができた。例えて言うならそなたは良工としての価値がある。
ただ、残念なことはあの時に反対を唱えていた封徳彝に今の世を見せてあげることができないことだ。
魏徴は再拝して太宗の賛辞を辞退して言った。
匈奴が破滅し、天下が平安になりましたのは自然に陛下の盛徳が国の内外に加わったためでございます。我々、臣下の功績ではございません。
私は我が身が明天子の治められる世に生まれ合わせたことを喜びとするだけであります。
どうして、陛下のご功績を我が物としてむさぼる事ができましょう

魏徴
太宗は微笑んで言った。

太宗
私はそなたを信任し、そなたは私の信任に応えてくれたのだ。
だから、この平安の世を作り出した功績は私だけのものではない。
どうして、そなたは面倒くさく表面を飾って遠慮するのだ。
素直に私の賛辞を受けるべきであろう。




司馬徽
得るものが多いエピソードじゃな。
ここはあえて、二つの事をお話しいたそう。
太宗は魏徴の進言に従って仁義道徳をもって民衆を治めた。このことによって唐は短期間に安定に向かうことができたのじゃ。
そして、後段の太宗と魏徴のやり取りは素晴らしいものがあるのう。君主と臣下のよい見本と言えるのう。
うむ。確かに戦乱で明日の命すら分からぬ状況なら魏徴の言うとおり治めやすいのかも知れぬな。しかし、乱を思うようになった民衆を治めるためにはどのような方法が良いのだろうか・・・。
後段の二人のやり取りはうらやましいな。わしにもこのような臣下に恵まれるといいのだが・・・・。

飛覇帥

司馬徽
よいぞ、よいぞ

鏡秋雪
うーん。最近、つまんないなあ。
乱・・・ふふふ。いい響きですね。(にやり)
むむ。平和より乱を好む不届きな奴め・・・。どうしてくれようか・・・。
飛覇帥

鏡秋雪
よし!決めた!
ぎく!
ついに反乱を決意したのか?

飛覇帥

鏡秋雪
飛覇帥さん。中国名をやめて日本の名前にしましょう。
忍玉乱太郎っていう名前にしましょうね。
なんでやねん!
飛覇帥

鏡秋雪
お黙りっ!乱太郎!
何故・・・・(涙)
飛覇帥






原文
第九章
貞観七年、太宗、秘書監魏徴と、従容として古よりの治政の得失を論ず。因りて曰く、当今大乱の後、造次に治を致す可からず、と。徴曰く、然らず。凡そ人、安楽に居れば則ち驕逸す。驕逸すれば則ち乱を思ふ。乱を思へば則ち理め難し。危困に在れば則ち死亡を憂ふ。死亡を憂ふれば則ち治を思ふ。治を思へば則ち教へ易す。然らば則ち乱後の治め易きこと、猶ほ飢人の食し易きがごときなり、と。太宗曰く、善人、邦を為むること百年にして、然る後、残に勝ち殺を去る、と。大乱の後、将に治を致すを求めんとす。寧ぞ造次にして望む可けんや、と。
徴曰く、此れ常人に拠る。聖哲に在らず。聖哲化を施さば、上下、心を同じくし、人の応ずること響きの如し。疾くせずして速かに、朞月にして化す可し。信に難しと為さず。三年にして功を成すも、猶ほ其の晩きを謂ふ、と。太宗、以て然りと為す。封徳彝等に対へて曰く、三代の後、人漸く澆訛す。故に秦は法律に任じ、漢は覇道を雑ふ。皆、治まらんことを欲すれども能はざればなり。豈に治を能くすれども欲せざるならんや。魏徴は書生にして、時務を識らず。若し魏徴の説く所を信ぜば、恐らくは国家を敗乱せん、と。
徴曰く、五帝・三王は、人を易へずして治む。帝道を行へば則ち帝たり。王道を行へば則ち王たり。当時の之を化する所以に在るのみ。之を載籍に考ふれば、得て知る可し。昔、黄帝、蚩尤と七十余戦し、其の乱るること甚し。既に勝つの後、便ち太平を致せり。九黎、徳を乱りセンギョク、之を征す。既に克つの後、其の治を失はず。桀、暴虐を為して、湯、之を放つ。湯の代に在りて、即ち太平を致せり。紂、無道を為し、武王、之を伐つ。成王の代、亦、太平を致せり。若し、人漸く澆訛にして純樸に反らずと言はば、今に至りては、応に悉く鬼魅と為るべし。寧ぞ復た得て教化す可けんや、と。徳彝等、以て之を難ずるなし。然れども咸以て不可なりと為す。
太宗、毎に力行して倦まず。数年の間にして、海内康寧なり。因りて群臣に謂ひて曰く、貞観の初、人皆、異論して云ふ、当今は必ず帝道王道を行ふ可からず、と。惟だ魏徴のみ、我に勧む。既に其の言に従ふに、数載を過ぎずして、遂に華夏安寧にして、遠戎賓服するを得たり。突厥は古より以来、常に中国の勍敵たり。今、酋長竝びに刀を帯びて宿衛し、部落、皆衣冠を襲ぬ。我をして干戈を動かさずして、数年の間に、遂に此に至らしめしは、皆、魏徴の力なり、と。
顧みて徴に謂ひて曰く、「玉、美質有りと雖も、石間に在りて、良工の琢磨に値はざれば、瓦礫と別たず。若し良工に遇へば、即ち万代の宝と為る。朕、美質無しと雖も、公の切磋する所と為る。公が朕を約するに仁義を以てし、朕を弘むるに道徳を以てするを労して、朕の功業をして此に至らしむ。公も亦良工と為すに足るのみ。唯だ恨むらくは封徳彝をして之を見しむるを得ざることを、と。徴、再拝して謝して曰く、匈奴破滅し、海内康寧なるは、自ら是れ陛下盛徳の加ふる所にして、実に群下の力に非ず。臣、但だ身、明世に逢ふを喜ぶのみ。敢て天の功を貪らず、と。太宗曰く、朕能く卿に任じ、卿委ぬる所に称ふ。其の功独り朕のみに在らんや。卿何ぞ煩はしく飾譲するや、と。