ヘンリー・スネル
維新を奔る!

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第1話 スネル江戸を奔る!


このページは光栄の【維新の嵐(25周年記念パック)】のリプレイ記です。このゲームをやったことのある人なら面白く読めると思います。
時は1863年5月20日。長州藩が欧米艦隊を砲撃した事件があった日から10日後です。

ヘンリー・スネル 生没年不明
オランダ公使館勤務のプロシア人。武器を売りつける死の商人という一面を持っていたが、日本文化に傾倒し会津藩の砲術指南役に就任。日本名、平松武兵衛を名乗り、藩主の松平容保から脇差を拝領する。戊辰戦争後、会津藩士を引き連れアメリカに入植するも失敗。その後、行方不明。恨みを買い殺害されたとも言われる。


日記中に出てくる人物名の色について。
黄色は尊王派
青色は公議派

緑色は佐幕派

を意味します。説得によって転向すると色が変わります。^^

私こと飛覇帥は一度もこの手のゲームでエンディングを見たことがありません。私の忍耐力はどこまで続くか・・・というか、もう、最後までできないと思いますがご笑納くださいませ。(根性なし)



文久3年1863年5月20日 江戸へ出発
私がこの日本に来てから何年たっただろうか。武器商人として武器を売りつけることしか頭になかった私がふと気づくと日本人に夢中になっていた。
徳川幕府は200年以上もこの島国を統治し戦争を起こさなかったという。我々には考えられないことだ。
そんな、彼らも内乱の危機にある。幕府を守ろうとする佐幕派。天皇を擁して幕府を倒そうとしている尊王派。そして、幕府、天皇、諸国の藩をまとめて共和政体を目指している公議派。この3つに分かれて一触即発の状態だ。実際、『天誅』と称する人殺しも多く出ているようだ。
私はこの日本人の文化を培ってきた徳川幕府を守っていこうと決意した。
外国人の私がどこまで彼らに受け入れられるかは判らない。
とにかく。行動してみよう。
今日、私は江戸へ出発する。どんな未来が待っているのだろう。
ちなみに、私の能力は下にあるとおりだ。

文久3年1863年5月22日
江戸に入った。ちょっと町行く町人に声をかけてみると、昨今の政治の話題で盛り上がった。私と意見が衝突したが最後にはわかってくれた。そして、3人は私と共に行動してくれるという。とてもありがたい。
これで、私の同士は52人になった。

同士説得。同士が増えると戦闘や説得時に優位になる。
「私の町人姿。さまになっているでしょう」(スネル談)

文久3年1863年5月24日
学問所で兵学を学ぶ。武学が118になった。その足で隣の学問所へ向かう。そこは国学というのを教えているらしい。学力が162になったが、私の思想に変化が出てしまった。尊王と攘夷がわずかではあるが強くなってしまったのだ。もう、ここでは私は学ばない。あと、藩校と言うのは公議思想が伸びるということなので、ここも私は学ばないようにしなければならない。
今日は、学問以上のことを学んだ一日だった。

学問所
儒学(学力、佐幕思想、攘夷思想)、蘭学(学力、開国思想)、国学(学力、尊王思想、攘夷思想)、兵学(武力)、砲学(武力)を学べます。
一回学ぶと同じ学問所では数日間学ぶことができません。別の学問所なら学ぶことができます。
要人がいれば面会できます。
藩校
藩校(学力、公儀思想、開国思想)が学べます。要人がいれば面会できます。

文久3年1863年5月24日
町行く町人を同士に誘ってみた。4人加わってくれた。これで同士数は56人になった。

文久3年1863年5月26日
学問所で蘭学を学んだ。その日の夜。隣にあった神社に興味を持った私はそこへ行って見た。しかし、そこで、私は暴漢に襲われた!彼らは口々に『幕府の犬め!刀の錆にしてくれる!』と叫んで襲ってきた。
私は自ら刀を取り、同士達には手を出さないように命じた。少し怪我を負ったがなんとか、暴漢を斬って私は生き残ることができた。
手を出さないように命じた同士達も影ながら助けてくれていた。戦いが終わった時、二人の同士が命を落としていた。
私が興味本位で神社を見物に行かなければ死ななかったのだ・・・・。もう、これからは神社には近づかない。貴重な命を捧げてくれた同士二人に私は誓った。

スネル刺される!世の中物騒だ。

神社
公議、尊王思想の要人が神社に行くと、「おお、同士よ」といって同士が増えることがあります。
逆に佐幕思想の要人が神社に行くと「幕府の犬」呼ばわりされて攻撃をされることがあります。


文久3年1863年5月29日
傷の直りが悪いので医者に行った。18両も取られた。怪我には気をつけようと思った。その後、気分が良かったので町人を説得。4人の同士を迎えることができた。これで、同士は58人になった。

医者
1両につき体力2を回復することができます。
「これからもお世話になりそうですね」(スネル談)



文久3年1863年6月4日
江戸の町を散策。町人を説得。4人の同士を迎えることができた。これで、同士は62人になった。


文久3年1863年6月8日
今日も江戸の町を散策。町人を説得。4人の同士を迎えることができた。これで、同士は66人になった。


文久3年1863年6月9日
今日は蘭学を学んだ。よく考えてみれば、私はオランダ公使館で働いていたのだ。今更、学ぶこともないような気がするが・・・・(笑)学力は165になった。


文久3年1863年6月11日
今日も江戸の町を散策。今回は武士を説得。一度は「先を急ぐので御免」と逃げられてしまったが、再び声をかけると話に乗ってきてくれた。6人の同士を迎えることができた。これで、同士は72人になった。


文久3年1863年6月15日
今日は蘭学を学んだ。2件向かい合わせで並んでいるので効率よく学力が上がった。学力は168になった。


文久3年1863年6月16日
今日は砲学を学んだ。武学が119になった。


文久3年1863年6月17日
今日は儒学を学んだ。やはり幕府は素晴らしい。私の力の限り、守っていこう。学力は169になった。


文久3年1863年6月19日
今日は砲学と儒学を学んだ。武学が119、学力は171になった。


文久3年1863年6月20日
江戸の町を散策。武士を説得。6人の同士を迎えることができた。これで、同士は78人になった。


文久3年1863年6月21日
神社で襲撃を受けてからそろそろ1ヶ月が経とうとしている。自分の身を守るためには日本の剣術を学んだほうがいいと思い桃井春蔵殿の剣道場で稽古した。桃井春蔵殿は思想の壁を越えて親切丁寧に剣道を教えてくださった。
剣道は80になった。免許皆伝までここで学んでいこうと思う。

剣道場
稽古を行うことで剣道があがります。
要人がいれば面会できます。


文久3年1863年6月23日
なんと、はやくも免許皆伝。どうやら私はスジがいいらしい。


文久3年1863年6月24日
今日は兵学を学んだ。武学が121になった。


文久3年1863年6月25日
今日は儒学を学んだ。だいたい江戸を一周する事ができた。そろそろ、京都へ行ってみたいがその前に仲間が欲しい。江戸を回って気が合いそうな人物に出会えると良いのだが・・・・。


文久3年1863年6月26日
朝、学問所へ行こうと歩いていると浪人が声をかけてきた。陸奥宗光という男らしい。なかなか優れた人物らしいのだが、公議思想で説得してきた。まだ、彼の言葉には重みがなく、私への説得は失敗に終わった。私はこの見所がある男を仲間にすることに決めた。
まず、彼の攘夷思想から語り合った。彼は私に言い負かされたがまだ、攘夷思想を捨てられないようだった。
陸奥は私が止めるのも聞かずさっさと歩き去ってしまった。私は後を追う。しかし、見失ってしまった。明日、もう一度探してみよう。


文久3年1863年6月27日
陸奥宗光を見つけたので、早速説得。漸く、彼も攘夷の考えを捨ててくれた。後は公議思想を改めさせねば。


文久3年1863年6月28日
今日も逃げ回る陸奥宗光を説得。ついに公議思想から佐幕思想へ転向させることに成功した。


文久3年1863年6月29日
今日も陸奥宗光を説得し同志に迎えようと思ったが、尾張藩主の徳川義宜が説得にやってきた。その年齢はなんと10歳(笑)さすが藩主というだけあって言葉に重みがあったが、体力に限界が来て力を失い、私の説得の前に敗れた。
しかし、わたしも体力の消耗が激しかった。陸奥宗光の説得は後日にすることにした。


文久3年1863年6月30日
陸奥宗光を説得。まだ、決心がつかないようだったが信頼を少しは得ることができただろうか。


文久3年1863年7月2日
薩摩とイギリスの戦争が行われた。薩摩側は果敢に戦ったようだが、圧倒的なイギリスの勝利で終わった。これで、攘夷の愚かさを知る人間が増えればよいのだが・・・。


文久3年1863年7月4日
薩摩とイギリスは講和をした。講和といっても薩摩の降伏と言ってよい。この事件で多くの攘夷派の人たちはそれが不可能だということに気づいたことだろう。
そして、ついに陸奥宗光が同志として行動を共にしてくれることを承知してくれた。
しばらく、彼の能力アップに付き合っていこうと思う。

(1844〜1897)
紀伊藩出身。坂本竜馬の海援隊に所属し活躍。
維新後は兵庫県知事・神奈川県令などをつとめた。
伊東博文内閣では日清戦争の幕引きや幕府が
締結した不平等条約の改正に成功するなど外交で
大きな成果を挙げた。



文久3年1863年7月5日
陸奥宗光と共に兵学を学ぶ。彼の武学は111になった。私は122になった。
その後、陸奥宗光は町人を説得して同士に加えていた。彼の同士はこれで9人になった。


文久3年1863年7月7日
学問所へ歩いていく私に安岡直行なる土佐藩士が説得をしてきた。尊皇攘夷をまだ訴えている古い人間であった。私が彼を言い負かすと彼はいかにも不満そうだった。私が話する必要はないと思い、陸奥宗光に説得を命じた。陸奥は開国思想の利点を説明したが安岡には理解されなかったようだ。安岡は憤然とした表情で江戸の町に消えていった。
その後、我々二人は蘭学を学んだ。私の学力は175、陸奥の学力は141となった。


文久3年1863年7月8日
昨日、学んだ学問所には森田節斎という儒学者がいる。前々から気になっていたのだが、儒学者の癖に彼は公議思想なのだ。そこで、陸奥に説得を命じた。まず、彼の力量を測るために国外思想について説得を試みるように命じた。陸奥の力量は森田を大きく凌駕していた。続いて陸奥に森田の国体思想を佐幕に転向させるように命じた。きっと陸奥ならやり遂げてくれるだろう。
陸奥に森田説得を命じた後、私は銭湯へ行ってみた。眼が腐ったが次に入った時には眼の保養ができた。1勝1敗(笑)

銭湯
料金は3両。体力が回復する。はずなのですが・・・・
ゲホッ、気色の悪いものを見てしまったわい。
体力が30以上減ってしまいます。
ほほー、目の保養じゃ。
普通に体力が回復します。

「それにしても両方とも同じポーズですね。
この若い女性もいずれは・・・・考えたくありません」
(スネル談)


文久3年1863年7月9日
陸奥が森田の説得に成功し、森田は佐幕派に転向した。


文久3年1863年7月10日
陸奥が4人の町人を説得し、同士に迎えていた。これで彼の同士数は13人になった。


文久3年1863年7月12日
陸奥と共に蘭学を学ぶ。私の学力は176、陸奥の学力は142になった。


文久3年1863年7月13日
陸奥が6人の武士を説得し、同士に迎えていた。これで彼の同士数は19人になった。


文久3年1863年7月14日
陸奥に長州の藩邸に乗り込んで奇兵隊の入江九一を佐幕派に転向させるように命じた。
手始めに陸奥は攘夷思想であった入江を開国思想に転向させる事に成功した。
私は陸奥が成長するまで見守るつもりだ。


文久3年1863年7月17日
やっと陸奥が入江を佐幕思想へ転向させることに成功した。次のターゲットは山田顕義だ。陸奥がどんどん自信を持っていくことが私はうれしい。


文久3年1863年7月19日
待っているだけでは暇なので近くにある商人宅の主人、三野村利左衛門を公議思想から佐幕思想に転向させた。


文久3年1863年7月20日
やっと陸奥が山田を佐幕思想へ転向させることに成功した。山田の思想がしっかりと定着するまで、陸奥は説得を続けるだろう。


文久3年1863年7月24日
新門辰五郎という任侠親分が江戸の治安を守っているらしい。彼は幕府の味方であった。私と陸奥は新門と親交を深めた。


文久3年1863年7月27日
陸奥はその魅力によって新門を信服させた。陸奥はだいぶ自分に自信がもてたことだろう。
私は久しぶりに武士を説得。6人の同士を迎えることができた。これで、同士は84人になった。


文久3年1863年7月28日
私と陸奥は蘭学を学んだ。2件並んでいるので効率よく学習できた。私の学力は179、陸奥の学力は145になった。


文久3年1863年7月29日
今日は二人で砲学を学んだ。私の武学は123、陸奥の武学は113になった。


文久3年1863年8月1日
陸奥が5人の武士を説得し、同士に迎えていた。これで彼の同士数は24人になった。
私も他の武士に説得をしてみたのだが「先を急ぐので御免」と言って断られてしまった。


文久3年1863年8月2日
今日も武士に説得をしてみたのだが「先を急ぐので御免」と言って断られてしまった。その後、その武士に陸奥が話しかけると彼らは陸奥の同士になった。やはり、外人は武士に嫌われるのだろうか?陸奥の同士はちょうど30人になった。
私はこの時、決断した。京都に赴き、要人たちを説得して幕府存続の運動を大きくしよう。
私の考えに陸奥も賛成してくれた。さあ、旅立とう。
私たちにどんな運命が待っているのだろう。





つづく


  

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