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剣道―魔法使いへの階段―('03.11.9) ・・エッセイ・・ |

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未経験者も楽しめる魔法のエッセイ ―目次― (内容要約。見出しとは異なります) |
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1.剣道って何 2.目の前にあるのは 3.性格・生き方が出る 4.気品と剣風 5.心の動きを見る 6.最強パワーの出し方 7.攻め 8.ガッツポーズ9.重心と丹田 10.剣先 11. 先(せん) 12.突き 13.発声。「オペラかゴジラの雄叫びか」 14.間合い。「元立ちは楽な商売?!」 15.怪我・故障「壊れない身体の製造方法」 16.剣と禅「捨てる修行」 17.一本の意味「これが俺の一本だ!」 18.手の内「打突の音は鼓の音」 19.基本「七段の神業」 20.「段審査」 21.腰で打つ「竹刀と鍵を握る腰」 22.「何年やったら強くなる?」 23. 「夢見る富士山」 24.「ただ今、改造中」 ★剣道をもっと深く正確に知りたい方へ 「武道の心理療法的作用」のコーナーの最後に、参考図書リストがあります。入手し難いものもありますが、是非お読み下さい。★持田盛二(十段)と斎村五郎(十段)の剣道形映像が見られる「Kendo World」をリンク集(メニュー1番下)に加えました。 |
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1.剣道って何だ?! |
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茶道や書道は誰が見ても「いいな〜」と思えるのに、剣道はと言えば、大体見たこともないし、見ても何をしているのか訳がわからない。「棒で殴り合うスポーツ」かと思っていたら、高段者というのは、ただじっと突っ立って「お見合い」をしているようにも見える。 ところが「見る」と「する」とでは大違い! やってみると、身体も心も軽くなる不思議を初心者でも実感できるし、深くて豊かな精神世界が広がっているらしいことも徐々に感じてくる。この「道」の歩き方(というより迷い方)が、そのまんま日々の生活に役立つことにも びっくりする。そして一般には知られていないが、剣道の熟練者は、様々な魔法を使う・・・! やってみないことには、さっぱり見えない、このマジカルな世界を ちょっと散策してみませんか? |
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2.とはいえ目の前にあるのは・・ (11月15日) |
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何でもそうかも知れないけれど、剣の道という山登りは、歩く人間にも道が見え難い気がする。1つには「完璧なお手本」というのに接するチャンスが少ないせいだろう。山全体の姿も見えなければ、何合目がどんな地形なのかも分からない。ずーっと上まで行くと、目が合っただけで「参りました!」と相手が膝をつくらしいが、私の目の前にあるのは障害物ばかりで、どこを歩いているやら良く分からない。とにかく、この目の前の大岩をどうやって乗り越えようかとウンウン押したり引いたりして格闘し、やっと向こう側が見えたと思ったら、そこにはまた次の大岩がそびえ立っている。この繰り返しだ。でも、はたから見るとバカみたいなこの営みが面白い。剣道にプロはないから達人になっても商売にはできない。経済だ効率だ損だ得だという世界から離れて、違うことにエネルギーをぶつけると、こころのエネルギーは、減るどころか逆にパワーアップしてくる。世間から見ればどうでもいいようなことの中に、人間を元気にする魔法は隠れている気がする。 |
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3.剣道で性格や生き方がバレる?! (11月16日) |
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剣道には、性格や生き方が出るという。どの部分が出るかはさて置き、確かに一人ひとり個性的だ。 人は「いざという時に地が出る」ともいう。剣道は「いざという時」の疑似体験の積み重ねじゃないかと私は思っている。勿論、竹刀は切れない。それでも1対1で対峙するのは結構恐い。多分本能だろう。そう、本能的に恐いからこそ思わず「地」が出てしまう。それは本人すら気付かない心の深層に隠れた性格かもしれない。社会の中では出せない、と言うより、出すことを許されない深層のものを表に出すことは心のバランス回復には凄くいい。(普通の人はお酒でそれを出すけれど、剣道をする人は・・・両方か・・。)闘争本能をあらわに叫ぶ、殴る(打つ)、威かくする。社会生活では許されないことが剣道では奨励される。これが剣道の気持ち良さ、深い開放感の1つの理由じゃないだろうか。 そしていつか本当の「いざという時」が来た時にこそ、私は自分の稽古の真価が分かると思っている。 |
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4.気品ってどこで売ってますか? (11月17日) |
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剣道に人の内面が出るのとは逆に、剣道が人を変えることはないだろうか? 「高段者の条件は気品・威厳・風格」と初めて聞いた時、「それってどこで入手可?!」と思った。気品なんて出そうと思って出るものではない。でも剣道を続けている内に、剣道(剣風)は自分で選べるということを知った。堂々とした「生き方」はできなくても(どうしたらそうなるのかも分からない。)堂々とした剣道をしようと決めて、そう努めることはできる。そのために、まず構えから変えていくことはできる。剣道では弱みを容赦なく相手に打たれるので自分では逃げていないつもりでも心が逃げている等、欠点はすぐ知れる。つまり修正しやすい。 どんな剣道を選択するかは100%自由だ。勝負命の剣道を選べば、勝負命の剣道になる。この場合は結果がはっきり出るので、なお分かりやすい。人は求めるものしか入手できない。品のある剣道を10年20年本気で求めれば、品のない私にだって、いつかきっと気品が出せるんだ!・・・と信じると楽しい。例えその時は、おばあちゃんであっても・・・。 |
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5.初めの一歩は「コンチキチョー」 (11月20日) |
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剣道を始めて3年くらいは「コンチキショー!一本取ってやるぞ〜!」と心で叫びながら肩をいからせて上級者に掛かっていった。自分では狼のつもりでも、所詮チワワとアフリカ象。鼻息一つで吹き飛ばされた。「肩の力を抜いて」と誰からも言われたが、これは一番難しい。ままならないのは心だけかと思ったら、体もそうだと初めて知った。カラ元気以外に出せるものはなかった。今は、相手と向かい合ったら頭を空っぽにする(無心になる)ように試しているが、「あの技を出してみようか」などと思っては、思った瞬間に必ず頭をかち割られている。上級になる程、心が読めるのだ。これを「気」と呼ぶのかテレパシーと呼ぶのか分からないけれど、熟達者は相手の体の動きではなく、心の動きを見て打っていく。長い間それは手品にしか見えなかった。必死で探したがタネは見つからない。見つかる訳がない。本当の魔法なんだから。そして修行は、誰をも魔法使いにするみたいだ。ウ〜ン待っておれ、ハリー・ポッター!(あ・・また肩に力が入った・・・) |
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6.最強パワーの出し方とは (11月23日) |
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剣道の魔法の1つに「完全に力を抜くと、最強の力が出る」というのがある。未だに訳が分からないけれど、イチローの打法がそれを極めたものなのかも知れない。(昔、王監督も打法に武道を使ったそうだ。)剣道の稽古では、数多く打ち込んでヘロヘロになった時に打つ面が、無駄な力の抜けた一番良い面だと教えられた。肩の力は意志では抜けない。でも何年もかけて千本万本と打つ内に、身体が自分で考えて自分で対策を取るらしい。勿論、身体のこわばりは精神状態も映している。長い間、心に引っ掛かっていた生活上のあることが解消した時、「剣道が急に柔らかくなった」と人から言われてびっくりしたことがある。剣道が目指す「平常心」も、こだわりのないリラックスした心が、身体の力を抜き、最強のパワーを出すのだと理解している。剣道をするまで知らなかったが、心や身体の中で、自分の意志や理性でコントロールできる部分なんて本当に小さい。それは、逆に言えば、心と身体には自分も知らないとんでもないパワーが隠れているってことだ。剣道は、頭じゃなく身体を動かしながら、それを掘り起こしている。しかも筋力を競ってる訳じゃないので、年齢や性別や体格に全く関係なく、誰でも進化していけるのだ〜! |
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7.見えない「攻め」。その1 (11月27日) |
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剣道では「気で攻めろ」と初心者の頃から言われる。でも「気って何?」「攻めってどうやるの?」が、いまだに続いている。(「気」については、「武道の心理療法的作用」のコーナー参照。高段者の「気」も魔法のひとつ。向かい合っているだけで凄い圧迫感を感じて息が苦しくなる)。 「攻められる」は分かる。強い相手にぐっと前に出られると、脅威を感じて思わず構えを崩してしまう。打たれる。(構えを崩したら負けだ。) 『よし!攻めは脅しだ。気迫だ』。ゴジラの様な雄叫びをあげて、目を三角にして一歩出る!打つぞっ!そして、また打たれる。何のことはない。気迫を出してるつもりで、肩に力が入ってるだけだ。(とはいえ剣道歴の差何十年、体重差何十キロの男性相手に掛かっていくんだから、強気と元気を出さないことには、文字通り吹っ飛ばされる。) 「攻め?”自分の剣道はこれだ!”という信念だ」と言った人がいる。「自分の剣道・・・そんなもんないよ」と、聞いた当時は泣きたくなった。とにかくまず足の動かし方を変え、「攻め!攻め!打つ!」の呪文を唱え続けた。今、「攻め」になろうとなるまいと、バカの一つ覚えでいくしかないと思った。センスのいい人は違うだろうが、剣道に近道はないと、日々骨の髄まで思い知らされているから。 |
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見えない「攻め」。その2 (11月29日) |
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体力も地滑りする35才から剣道を始めたせいか、『「気」の持ち方』からスタートするのは私の癖だ。戸田8段の「逃げない剣道」という言葉に憧れて、下手なのに避(よ)けないのでボコスカ打たれてきた。やっと最近、応じ技がたった1つできるようになってきて、心の余裕がまるで違うことが分かった。「わ〜打ってきたらどうしよう」と思いながら出すカラ元気と、「打ってみろ。打ち返せるぞ」と構えているのとでは、パチンコとバズーカ砲くらい違う。(と、自分では感じる。実際、上級者には打ち返せないから、相変わらずパチンコだとしても・・・。) 技だ!技が伴わなければ、「気」も「攻め」もないんだと、今の段階では思っている。ゴジラの着ぐるみの中に、技を1つ1つ詰め込んでいき、稽古に支えられた自信と、練り上げられた心のパワー(「気」)と、「これが自分の剣道だ」という意志が充満した時、雄叫びがなくたって、構えているだけで「攻め」になるんじゃないか・・・。何十年先の話をしてるかって?いいんだよ。その長い長〜い道中が楽しいんだからっ! |
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8. ガッツポーズ! (12月1日) |
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オリンピックの柔道は国民的楽しみだ。なんたってあのド派手なガッツポーズがいい。自分が優勝したような気になって、思わずビールをあおってしまう。 ところが、剣道にはガッツポーズがない。ガッツポーズを取ると、せっかく取った一本も取り消されてしまう。全日本の決勝後、面を取った二人の顔を見ても、どっちが勝ったか分からない。勝者も敗者も、ただ淡々・・・。斬るか斬られるかの瞬間すら平常心を保つ修行をしているのだから、当たり前と言えば当たり前か・・・。小中学生の試合でも、飛び上がったり、突っ伏したりする子はいない。淡々と礼をし、去っていく。結果的には、柔道は人口を増やし、「淡々組」は人口を激減させた。理由は色々あるだろう。でも、悲観しちゃあいけない。21世紀に入って輝いているのは、実は「淡々組」じゃないか。イチロー、高橋尚子ら(多分、ゴルフ賞金女王の不動も。)は、勝利や名誉に舞い上がることがない。彼らを見ていると、修行僧を見ている気がする。ウム、時代は、「淡々組」に流れてきているぞ。 |
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9. 重心と謎の丹田(たんでん) (12月6日) |
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剣道を始めてすぐの頃、「体当たり」で吹き飛ばされて後頭部から落下した。安定感は緊急課題となった。単純に太ればいいのかと思ったら、重心を落とせと言う。しかも、「臍下(せいか)丹田」なる所へ・・・!漢方薬の名前じゃない。下腹にあって「気」を司(つかさど)っているモノらしい。(詳しくは「武道の心理療法的作用」コーナー参照)。ハラやらキモやらが座るって言うのもソコだろうか?本には「人間工学でいう人体の重心と丹田は重なる」と書いてある。了解!実行! ところが、これができない。重心なんてモノに会った事はないし、丹田なんて顔も知らない。呼吸法をすれば分かるかと思って1年間続けたが、竹刀を握った途端、丹田は消え失せる。気功師のように丹田を実感するには修行が足りないのか。重心が丹田に落ちれば、剣道の要点「腰で打つ」の謎にも迫れそうな気がするし、「気」も出そうなんだが・・・。道は本当に遠い。でもイメージするくらいなら私にだってできる。息を細く長く吐きながら唱える。『重心が落ちる・・・丹田に「気」が満ちる・・・』。しつこく繰り返していると、何となく効果がある気がしてくる。ひとまずこの手でいきながら、張り紙だけしとこ。「丹田―指名手配中」。 |
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10. 火を噴く剣先 (12月13日) |
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「剣先が強い」という言葉がある。竹刀の先端が、生きて人格を持っているかのように相手を圧倒する(「気」で制する)ことだ。昔の剣豪は、竹刀の先から煙が出たとか火が出たとかいう。なんたって魔法使いなんだから、火が出たって、花吹雪が出たって不思議じゃない。でも、発展途上の人間は、どうしたら剣先が強くなるんだろう?基本中の基本、「正中線(中心)を外さない」だけでも、もう4年格闘しているのに・・。剣先は、「セキレイの尾のようにピッ、ピッと振る」という話も聞いて、早速試してみたが、私がやっても「横断歩道の旗振り」にしかならない。周囲を見ると、剣先の動きも個性的で、フワフワ〜ンと低く揺らしている人もいる。それも強そうだけど、もっと分からないからパス。1つ、最近教えられたのは、左手の小指をいつでも絶対に緩めないこと。確かにそれだけで、剣先は安定し、思った位置にピタリと止まる。強い人の剣先がピタッと止まると、猟銃の狙いを定められたようで、ヒヤリとする。う〜ん、あとは「攻め」との相乗効果か? それにしても、指きり以外には能がないと思っていた小指が、こんなに大切だなんて、剣道をするまで全然知らなかった。詰めるのは小指なんて、誰が決めたんだ?! |
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11.先々の先「せんせんのせん」1(12月18日) |
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「剣道は、先(せん)でいけ!」。これが最も大切と教えられた。初心者の頃は『相手より先に、積極的に攻撃していくこと』だと理解した。よっしゃとガンガン打ちまくっていたが、当たることはなかった。「ただ打ったって当たる訳がない。相手の『う・ご・き』の『う』をとらえる」という話も聞いた。でも、「う」どころか「き」で初めて「ん?」と思い、その時には既に斬り殺されている。すべては一瞬のことだ。試合でも、「始め!」の合図と共に、『初心者だと思って甘く見るな〜!』の叫びも言い終わらないうちに、2本取られた。試合時間・・6秒・・・。その頃は人の試合でも、どっちの何が決まったのかさっぱり見えず、審判員というのは神様みたいな人だと思っていた。 何とか「う・ご」位までには反応したい! 私の「モグラ叩き作戦」が密かに開始された。使命は単純。『動いたっ!打つ!動いたっ!打つ』。これだけだ。3年位かかって、やっとそれができるようになってきた時は、ホクホクだった。ところが、それもつかの間。次の段階では、それが裏目に出た。反応した途端に打たれる。「素早く」反応しているつもりが、「慌てて、動かされて、隙を作っている」だけだったのだ。「立っていても打たれる、反応しても打たれる」という巨大な岩壁が目の前に立ちふさがった。岩(ガーン)・・・。 |
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先々の先 2 (1月8日) |
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剣道で最も尊ばれる一本は「先々の先(せんせんのせん)」だという。「先に気の攻めで勝つ。相手は耐え切れず、打たれる前に打とうと先に動き出す。そこに生じたすきを先に打つ」ということらしい。書けば単純だが、これは壮絶な「気」の闘いだ。でも血気や殺気じゃ駄目だという。相手がどんな強豪でも絶対に動じず、澄み渡った精神から噴き出す「気」が理想という。「気」と呼ぶと捕え所がないが、気持ちも気力も気性も元気もみんな「気」だ。剣道はそれら全部を総動員した力くらべじゃないかと私は思っている。向かい合えば、みんな露(あらわ)。ごまかしはきかない。言葉はなくても深いコミュニケーションがあるから、闘った後は「同じ釜の飯を食った」みたいな気になって嬉しくなる。(目上の皆様、勝手に思ってすみません) 私が、立っているだけでポコポコ打たれたのは、気も攻めもなく、構えすらできていなかったからだ。気で攻めながら動じずに構えていれば決して打たれることはない。相手の動きに惑わされて操られるのも、気で攻めていないからだと、最近思い始めた。 まずは「攻め」!「先」は後から付いてくる。 |
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12. 必殺・・・「突き」! (1月12日) |
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「突き」(喉への一撃)を初めて見た時、とんでもなく野蛮で残酷な技だと思った。突かれた方は痛がっている。勝つためには手段を選ばない人がやるんだと長く思い込んでいた。そもそも2mも先にあるあんな小さな的(6cm×4cm)に当てるなんてダーツだ。当たるはずもない私には縁のない技だと決め付けていた。 ところが突きは、形さえ作れば、狙わなくてもピタリと入ると教わった。狙わず命中?! 弓道も形を完成させるだけで、的は狙っていないという。う〜ん、魔法だ。 突きの形は、正確な構えで腰から前進するだけ。習った通りにすると、熟練も要さず一応当たるようにはなった。突きは立派な技で、突きができれば剣先の強さが増し、剣道に迫力が出るという。確かに、突く人と稽古する時は、極端に緊張する。当たれば窒息。外れれば防具の隙間から首に突き刺さる。『大丈夫。恐くない。恐くない』と自分に言い聞かせていても、周囲から「へっぴり腰になってるぞ」と笑われる。『思い切り突かれたら死ぬんじゃないか・・』という恐怖は、今だに抜けない。でも「真剣に」剣道をするなら、突きをしないというのは、違うかもしれないと思い始めている。でも、突いたら突かれるだろうな・・・うわっ、やっぱり、恐い〜!! |
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13. オペラかゴジラの雄叫びか (1月16日) |
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剣道を初めて見る人は、とてつもない声にギョっとする。自分を奮い立たせ、相手を威嚇するために叫ぶのだから声はデカイ。絶叫大会以外にあんな声で叫ぶ場面は他にない。精神衛生には絶大な効果だ。 叫び方は百人百色。「ブルース・リー」もいれば、オペラのように美しく響き渡る人だっている。一般的に十代の女の子はキーンとした声で叫ぶが、高段になる程、低く響く唸り声のようになる。 私は二段審査の前に声を変えた。ガチガチの剣道から力を抜こうと七転八倒していた時、「発声を変えたら?」と言ってくれた人がいた。内に硬くこもる声をやめ、外にのび広がる声に変えれば剣道も変わるという。色々試してみて、一番気持ち良く出せる声の高さと言葉を見つけた。確かに変化があり、審査にも合格できた。言われた時は『ホント?!』と思ったが、声を出すことは「気」を出すことに直結している。「気」は心と身体をひとつに結び付けている魔法のパワーだ。自分で変えられる1つのものに働きかければ、自分の意識では変えられないものも変わり始める。これは使いでのある魔法だ。 苦労して見付けた声だが、今の自分には合わなくなってきている。今、もうちょっと良い声を探索中。今年はめでたく「ゴジラ卒業!」といきたい。 |
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14. 「元(もと)立ち」は楽な商売 ?! (1月25日) |
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元立ち(打たせ役)ほど楽な商売はない・・っと初心者の頃は信じて疑わなかった。こっちがゼイゼイハーハー打ち込んでいる時の元立ちの涼しげな顔!早く元立ちになりたいもんだと常々思っていた。 今、元立ちはそびえ立つ最難関の岩壁だ。元立ちは相手の力量に合わせ、正しい間合い・形で打てるように立ち、相手の良さを引き出すのが仕事だ。正しくない打ちは、打たせないことで非を諭(さと)す。 でも一番肝心な「間合い」が、哀しいかな、私には、まるっきり分らないのだ。間合いは、近・遠・中間の3種類だとずっと思ってきたが、実は遥かに奥深い魔法だった。間合いが分れば「魔法のじゅうたん」に乗ったように、力もいらず、自由自在にかわしたり打ったりできるらしい。相手の打ちはことごとく無効に、自分の打ちは百発百中になるんじゃないか・・と想像だけは膨らんでいくが、肝心なことは何一つ分らない。 大人というだけで子供の元立ちをするのはキツイ。「子供の元立ちは一番の稽古になる」と言われるが、そんな余裕はない。「子供だと思っていい加減な足さばきをしていると、身体がそれを覚えて、どんどん下手になる」と聞いて震え上がる。助けてくれ〜!と叫びたい。でも剣道は「逃げない」稽古だ。子供たちに『ゴメン!』と思いつつ、必死で元に立っている。 |
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15. 壊れない身体の製造方法(2月9日) |
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初心者の頃、高段者に思い切りひじを打たれた。「あっ、こりゃ〜骨が砕けたな。悪いけど、医者行って」とサラリと言われて倒れそうになった。剣道では「加害者」という観念がない。怪我をした方にスキがあったということになる。実際、アザこそ絶えないが、怪我は滅多にない。恐いのは故障だ。アキレス腱・じん帯を切ったなんて人がゴロゴロいる。筋肉に疲れが溜まると切れ易いらしい。中年は筋トレよりマッサージか? 私は一時期ひざの痛みに悩まされた。「剣道の動きはすべて理にかなって無理がない。故障は無理な動きから起こる」と聞き、全くだ!と思ったが、何をどう変えればいいのか分らない。やぶ医者は「老化だ。筋トレ!」と言うが治らない。試しにストレッチをして、悪い方のひざ関節が固いことに気付いた。早速、風呂上りのストレッチを開始。半年位で随分軟らかくなった。痛みも消え、以後、故障は全くない。ストレッチは筋トレと違って、楽で、気持ち良くて、故障知らずだから一石三鳥だ!まだベールの中だが、「柔らかさ」が上級魔法への鍵だと確信もしている。(No.6参照)。 宮本武蔵がストレッチをしたかどうかは、定かじゃないけどね。(追記:筋肉疲労を起こさない程度の筋トレはしてます。もちろん) |
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16. 「捨てる」修行 (2月22日) |
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「人を殺す練習が、どうして人格形成になるのか」と外国人や子供は訊く。「捨てられないものを捨てる修行」が、そのまま人生の修行になると私は感じている。「勝ちたい」「打たれたくない」「早く上手くなりたい」と思うのは自然な欲。運動選手の必須条件だろう。でも剣道では、それが命取りになる。「勝ちたい」と思うとどこかが固くなる。目も曇るし、形も崩れる。「打たれたくない」と思うと、捨て身で飛び込めないから中途半端な打ちになる。逃げたり避けたり防御に走る。「上手く打ちたい」と思うと、のびやかな大きな打ちはできないし、上達を焦れば、失望しかない。 死を覚悟した素人には剣豪もかなわないという。生死の時には心がものを言う。剣道を「動く坐禅」と言う人がいるが、誇張でなくそうだと思う。剣道は、欲やこだわりを斬り捨てていく練習だ。何物にもとらわれない、こだわらない心を持てたら達人になれる。凡人は、ただそんな境地を夢見ながら、今日も「打たれたくない。うまく打ちたい」とあがいている自分と格闘する。 中年から剣道を始める最大のメリットは、試合に勝つことを誰からも期待されないことかも知れない。(試合自体殆どない。)選手なら勝つのが義務で、禅だなんて言ってられない。自由な立場でカタツムリのように修行していけるのは、中高年の特権かつ最大の武器だと思っている。 |
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17. これが俺の一本だ!(4月11日) |
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どうしたら剣道が上手くなるんだろうかと4年半近く(=私の全剣道歴)考えてきた。素振りで剣道マメ育成に熱中した時があり、呼吸法や筋トレで大進歩を夢見た時もあった。最近、天からの答えのように師の言葉が降ってきた。「『これが俺の一本だ!』という一本を打て。(基本打ちの)一本一本をそう打っていかなければ剣道は上手くならない」。 「私の一本」って一体何・・? それって打つ人の信念・全人格・魂を表現する一本?逆に言えば、信念も人格もなければどんなに早かろうが巧みだろうが「空っぽの一本」になるってこと?それならその一本は段や勝率といった数値では表せない、でも絵や音楽のように人を感動させる一本になるんじゃないか・・・。 師はこうも言う。「正しい剣道は美しい。そして強い」。 テニスでもするようなつもりで気軽に始めた剣道だが、ここに来て、とんでもない道を歩いていることに気付いて震えがくる。富士山と思って登っていた山は、エベレストだった。「引き返すなら今だぞ」とエベレストは言う。いいやっ!ゴールは頂上にしかないわけじゃない。そもそも私が中身の詰まった人間なら剣道をする必要はない。弱点ばかりを突きつけられて、揺さぶりをかけられるからこそ剣道をするんだ。ずるずるとエベレストを登るカタツムリでいこう! 笑われ、呆れられるって?そんなの慣れっこだよ〜ん。 |
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18. 打突(だとつ)の音は鼓の音(ね) その1. (5月30日) |
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剣道の魔法に、打った時の「音」がある。面・小手・胴、どれでも見事に打つと鼓(つづみ)か太鼓を打ったような美しい音が響き渡る。「グシャ。ガチャ」の私は、その澄み切った大きな響きに聞き惚れる。 もちろん誰にでも出せる音じゃない。打ちの強さ、正確さ、刃筋(竹刀の向き)は必須条件のはず。そして、鍵は「手の内」と見ている。「手の内」は、剣道用語で、竹刀の握り具合のことだ。「できるだけ柔らかく握って、打つ時だけ絞れ」というが、何年経ってもその意味と要領は、さっぱり分らなかった。 実は、竹刀を握る十本の指は、構える時と打つ時、一本一本がそれぞれ違う仕事をしている。サッカーの選手のようなものだ。各指を瞬間的に締める・弛めるの絶妙な連携プレーを「手の内」と呼ぶんじゃないかと感じてきたのは最近だ。この連携ができると、竹刀は、柔らかなムチに変身する。剣道で「冴え」と呼ばれる鋭さ、しなやかさが出て必殺の一打となる。それでいて打たれても痛くないのが「手の内」の不思議だ。(痛いのは手の内のできていない人の斧の一打。コブはできるわ、腕は腫れるわ・・・結構辛い。) でも「手の内」は誰も明かさない。『トップ・シークレットか・・』と、長年恨めしかったが、要するに言葉にはできないんだとやっと分ってきた。一輪車と同じ。痛い思いをしながら、自分で感覚を掴んでいくしかない。剣道って、ほんっとに近道がないね。 |
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打突の音は鼓の音 その2.(6月9日) |
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打突(だとつ)の音は、審判員の判断材料でもあるという。一見ちゃんと当たっているように見えても、鈍い音、小さな音では、一本にならない。正しい打ち(有効打突)ではないからだ。 これは便利な指標で稽古の時はこの音が点数だ。「NHKのど自慢」の鐘と一緒。基本稽古では、耳を澄ませながら一本一本の点数を確認していく。『こう打つぞ・・ガシャ。(鐘1コ)。だめか・・これならどうだ・・グシャ・・あちゃ〜』。これを何年も繰り返していると、少しづつ鐘の数が増えていく。最近、「パ〜ン!」と響く時があり、逆転満塁ホームランを打った快感に一人痺れる。・・とは言っても、鼓の音には、ほど遠い・・・。 『何かが違う・・』と思っていたら、ヴァイオリニスト、千住真理子の著書の中に「小さなヴァイオリンから美しく大きな音を響かせるには、全身の節々の力を抜かなければならない」とあった。(「生命が音になるとき」より)。陶芸をする友人までが「陶芸で大切なのは、肩の力を抜くことだ」という。行き着くところは、やっぱりそこか・・・! 肩の力を完全に抜き、心身はリラックスしていながら背筋は伸び、腰・ハラが据わり、地に足がついている。この時、エネルギー(呼び方は、「気」でも「生命力」でも「潜在能力」でも「宇宙のエネルギー」でもいい。)は全身に満ち溢れ、不可能も可能になる・・らしい。才能じゃないんだって。人間の身体(からだ)って自分で思うより凄いんだよ〜!! |
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19. 七段の神業 その1.(7月4日) |
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七段、八段をまだ生で見たことがなかった頃、いったいどんな神業を使うんだろうと、想像してはゾクゾクしていた。初心者だった私には、三段だって電光石火の魔人に見えた。最高段者ともなれば、映画「マトリックス」並みの速さに違いない・・・とにらんでいた。 忘れもしない。私が最初に見た七段の女性は、当時、小学生と一緒に稽古をしていた私が習った通りの面、小手、胴を、そのまんま打っていた。相手は死にもの狂いで飛び込んでくる。凄いスピードだ。その相手に、基本通りに打って、少しも姿勢が崩れない。のびのびと大きな面を打って、それが見事に決まる。私は、腰が抜けてしまった。やっていることは小学一年生が習う基本技。しかし斬るか斬られるかの対戦中に、基本技を基本通りに打てる人なんて見たことがなかった。私自身「なんで地稽古(対戦)になると滅茶苦茶になるの?」とよく言われた。打たれるのは怖いわ、勝ちたいわで煩悩の固まりになっている人間に基本を省(かえり)みるゆとりなんてない。知らない内にガチガチになって、竹刀を斜めに振り回していた。 七段の動きは、飛び切りなめらかで柔らかい。姿勢にも筋肉にも、どこにも無理がない。無駄な打ちも余計な動きもない。すべては自然で、美しい。 それまで、前につんのめった面や身体をよじった小手を『初心者には真似できないよな〜。かっこいいな〜』と思っていた私の頭は、パカッと二つにカチ割れた。(つづく) |
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七段の神業 その2.(7月15日) |
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剣道修行の第一日目に習うのは単純な足の動きだ。バカのひとつ覚えみたいに、しばらくはそれだけを繰り返す。『もう足はOKだから、早いとこ基本は済ませて応用へいきたいな〜』と、いつも思っていた。その後、何年たっても私は連続技ができなかったが、「足」(引き付け)のせいだと指摘された時は、うろこがゴソッと目から落ちた。一番最初に習った基本が全然身についていない!だからアレもコレもできないってことが、2段にもなってやっとわかり始めた。 稽古をしていると産んだ覚えもないのに次々と癖が生まれ、日々基本からズレていく。どれだけ頑張って3歩進んでも、2歩は引きずり戻される。癖は自分では気付かない。グサッと指摘してくれる人もなく、そのまま稽古を続けたら・・・。「一生懸命稽古して、一生懸命下手になる」と、ある高段の先生は言ったという。 剣道で「形(かた)」というと日本剣道形という特殊なものを指すけれど、普段「基本」と呼んでいるものが、実は、伝統文化でいう「形(かた)」じゃないかと思う。能や茶道のように、長い歴史の中で無駄を削ぎ落とされ、完成した究極のもの。剣道の真髄。これを初心者は、第一日目から惜しげもなく習っている。でも、当時の私には、まるっきり「豚に真珠」「猫に小判」だった。今は基本の形を正確に身に染み込ませることが稽古の意味、且つゴールじゃないかと思っている。 (「形」については、「武道の心理療法的作用」のコーナーに、もう少し詳しく書いています。) |
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20. 段審査 (8月15日) |
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3段に合格しました〜!・・・と書く予定だった。猛暑の中、稽古も充分積み、自分が目指していた所に迫ったと思っていた。 落ちたことはいい。でも自分が、普段通りの打ちを出せないまま自滅するようなヨロヨロした心を持った人間だということが、何より情けない。普段は表に出ないその脆(もろ)さが、確かに本性なだけに、反論の余地もなく完膚なきまでに叩きのめされる。因幡の白兎みたいにどこもここもヒリヒリする。 3段にストレートで合格していたら、今ごろは、断っていたビールをグビグビ飲んで、『次の審査までには3年もある。しばらくは安泰だ〜』とヘロヘロ笑っていただろう。考えてみれば恐ろしいことだ。今の私は、巨大な宿題をいくつも出されて、後がない。例え合格の日が来ても安泰はないだろう。宿題の何割かは片付けられても、大部分はダメだということを、白兎の傷がうずくことで知るだろうから・・・。 「魔法使いへの階段」は、とてつもない長距離走だ。短い距離だけを見ていたら道を誤る。何年後か何十年後かわからないけれど、いつかこの失敗に感謝できる日が来るよう稽古を積もう。 |
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21. 竹刀と鍵を握る腰 その1.(9月16日) |
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「手で打つな!腰で打て!」と人から言われ始めたのは初段の頃だ。へそで茶は沸かせるとしても、腰のどこで竹刀を握るんだ〜?! またまた泣きたくなる。 とりあえず「ハラ」(丹田)なるものを作ればいいのかと考えて呼吸法を続けたが、腰どころかハラもできない。そうだ!腰を鍛えるんだ!と四股(しこ)を踏んだらひっくり返った。股関節は硬いわ、筋肉はないわ、片足を上げればバランスはゼロ。こんな弱腰、腰抜け、腰砕けじゃ剣道も何もあったもんじゃない。 それでもストレッチから始めて何年かかければ、ちゃんと四股だって踏めるようになる。実際、四股は凄く気持ちがいい。想像するとちょっと怖いが、某女性オペラ歌手も舞台に上がる前に四股を踏むと言っていた。本当に心と体が安定して底力が湧いてくるから、東洋伝統の智恵、恐るべし! 私の「手で打つ面」も数年かけて少しづつ変わってきた。斧の振り下ろしじゃなく、波に乗って前進するサーファーの感触がある時、「腰で打つ」に近づいているのかなと思う。とはいえ、この個人的な感触は、手のひらの雪みたいに消えやすい。「これだ、これだ〜!」と有頂天になった次の稽古では一本も打てない。「そんな〜!」と慌(あわ)てると、もう目も当てられない面になる。焦っちゃいけない。毎回腰で打てたら高段者じゃないか。気持ち良く打てたかどうかの感覚だけを頼りに、一本一本の中に「腰で打つ面」を探し続けている。 (続く) |
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「竹刀と鍵を握る腰」その2.('03.2.10) |
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前回の文章を読んだある人が言った。「腰で打とうがどこで打とうが、結局先に当てた方が勝ちでしょ?」私は、う〜んと唸って、それきり書けなくなってしまった。ある居合の先生は言ったそうだ。「居合は身を守る何物も付けずに真剣を抜く。今の剣道は体中を防具でおおって竹刀を振り回し、当たったの外れたの、勝ったの負けたのと騒いでいる。失礼ですが私には、今の剣道(スポーツ剣道)は、ささら踊りに見えますよ」 私の師は「竹刀で当てるのではなく、日本刀で斬るつもりで打て」と言う。「生き残ろうなどと思うな。死を覚悟して、身を捨てて打ち込め」「剣道は誰が見ても美しくなければいけない。美しい剣道は強い」。 私は、悲しいほど弱いし、師の剣道をどこまで理解しているのかも怪しい。それでも腰で打つ、本物の面を打ちたいと一心に思う。そういう面は、美しいからだ。美しいものの中には、真実・本質がある。美しさを求めていけば、人間として良くなることはあっても悪くなることはないだろうと、私は勝手に思っている。 恐るべき凝り性と思い込みの世界・・・。でも日本の伝統文化って、みんなそうだよね。 (追記:上記の居合道の先生が批判したのは、スピードや反射神経だけに頼る剣道、相手の打ちを竹刀で避けて防衛に走る剣道、勝ちさえすればどんな姿勢で打とうが関係ないという剣道です。) |
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22. 「何年やったら強くなる?」(03.4.22) |
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「攻めだ!攻めだ!攻めだ〜!・・・でも、攻めって何だ?!」と思いながら基本稽古を繰り返して数年が経った。視界1メートルの濃霧は薄れ、色々なものが、ぼんやりとだが見えてきた。結構「階段」を登ったような気がして思わず鼻歌が出る。それでもたまに試合に出ると、私の人生の半分しか生きていない大学生に負けてしまう。これは悔しい。 でも、師は「そうか」と笑っている。「試合の勝ち負けと剣道の本質は関係がない」と悠然と構えている。「時間はかかるが基本をみっちりやれ。基本さえみっちりやれば、50、60とどんどん上達する。技が本当に自分のものになった時、自然と勝てるようになる」。 師は、「長い目で見る」目の長さが、天文学的に長い。いや、道は一生を賭けて修めるものなのだから、それが本当なんだろう。年がら年中「来週までにアレ」「来月までにコレ」と目の前のニンジンばかり追わされていると、5年10年20年という長さを見通す目をなくしてしまう。これは、とても恐いことだ。 師の言葉通り、40を過ぎて剣道を始め、60を過ぎてますます冴えた面を打つ先輩が実例として目の前にいる。なのに私は、若い子に負けるとすぐ揺らぐ。 『あと何年したら強くなれるんだろう?本当に私なんかが強くなれるんだろうか?恐ろしくヘタだった私が?小学生並の体格で?』。クエスチョン・マークは満開だ。う〜ん。この自分への信頼のなさが、私のすべての元凶なんだろうなとつくづく思う。 大学生達よ!あと20年したら私は負けないよ。ふっふっふ・・・って、100%の自信を持って言えたらな〜! |
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23. 夢見る富士山 (03.5.20) |
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今でこそ笑って言えるが、段審査に落ちた時は、がまん大会ならぬ、みじめ大会で世界記録を出す勢いで落ち込んだ。何をどう考えてもズブズブ沈む一方の泥沼の中で、師の一言が救いになった。 「段が上がったからといって、その人間が偉くなるわけでも、何が変わる訳でもない。落ちたからといって、剣道が下手になるわけでも、何が変わる訳でもない」 この言葉は、一生忘れまいと思った。 以前、ある高段の先生から「さっきの面は良かった」と誉められたことがある。天にも登る気持ちで走って師に報告に行くと、師は厳しい顔で言った。「誉められた時が一番危ない。浮かれている内に、あっという間に下手になる」。 誉められては有頂天になり、けなされてはへこみ、肩書きが付けば人間の格が上がったような気になり、失えば価値がないように思う・・・。私は、常に波に揺られて漂うクラゲみたいな人間なんだな、とつくづく思った。海岸に打ち上げられて干乾びる未来を想像する。おいおい、そんなのは御免だよ・・・っと思いながら、やっぱり今日もくらげ生活を送っている。 「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり」。山岡鉄舟の言葉だそうだ。くらげから富士山への進化・・・。生物学的には不可。でも魔法使いに不可能はない!くらげは、今日も富士山の夢を見ている。 |
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24. ただ今、改造中 (03.8.1) |
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剣道を始めて数年の間は、それより下手になりようもなく、日々上達を実感してホクホク稽古を続けていける。6年近く経った今は、あの「できる」もこの「できる」もただの幻想だったと気付いて立ちすくむばかりだ。しかも基本中の基本、足の動きだの、竹刀の握り方だのがダメだと気付くと、この冷夏でも頭がクラクラする。どうして6年近くも気付かなかったのか・・・。 『剣道は足が大事』。そんなのは、数え切れない程聞いたし、読んだし、「うん、そうだろうな」と思っていた。でも、「そうだろうな」と「そうだっ!」の間には、北極と南極ほどの距離がある。誰にどんなアドバイスを受けようと、自分自身で気付かなければ何も変わらない。 足にしても握りにしても、改造はいつ終わるのか見当がつかない。一瞬にして直せる修正もあれば、寿命との競争ということもある。改造中は、傍から見れば、進歩が見えないどころか、下手になったように見えることの方が多い。「何だそりゃ?」と言われても、本人は、大真面目なのだ。 このまんま一生「何だそりゃ」で終わるかも知れない・・・という想いは、ポワン、ポワンと浮かんでくる。それをプチン、プチンと潰していく。努力が報われるかどうかなんて誰にも分らない。実際、「努力が報われないタイプだよね」と仲間からは言われている。でも無駄なことをしているなんて、全然思ってない。これは内緒だけれど、「足」と「握り」と「中心線を取る」ことが、剣道の最高の魔法、「攻め」のカギだと、今(私の段階で)は、信じている。 いつか絶対に魔法使いになれる!!とイメージすると、心はワクワクと湧き立ってくる。この停滞した時代にあって、夢の威力って、中々のもんじゃない? |
