2008 年  11月のことば
直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私 なりに味あわせていただくページです 

救いの中味は私のする信心か 如来さまから頂く信心かで決まる

 選挙するのかしないのか、でどうなっていくのかよくわからない今日です。与党と野党が逆転するのでしょう か。どっちでも良いというのが私の本音です。庶民の実情がわかった政治家に、国民の視点にたった政治をして欲しいものです。クーポン配ってどうするの?そ のお金はどうやって作るの?誰が出してくれるの?そういえば最近テレビによく出てくるミュージシャンの『DAIGO』は竹下登元首相の孫なのだとか。似て いるかも。竹下首相の時に「ふるさと創生事業」なる地方交付税で一億円のばらまきがあったことを思い出す。当時いろんな町でいろいろな使い方をしていた が、結局その町の人のために有効に使われたのは全体の何割くらいだったのだろう。私なんかは特にそうだが、もらったものはもともと無かったものなんだか ら、ぱぁ〜っと使ってしまえというような困った性格がある。しかし高校や大学時代にアルバイトをして稼いだお金は、使うのが惜しかったを覚えている。私が 苦労してつかんだものは、ちょっとやそっとじゃ手放せない。さて、『信心』を《私が仏様を信じる心》と受け取ると『信心』とは私のもの、私の側で用意する ものという意識が非常に強くなります。仏様に救っていただくために一生懸命良い行いをすることに努めて【救い】をお願いすることになります。こんなに頑 張っているのだから、必ず私を仏にして悟りを開く身にしてくださいと取り引し、万が一にも裏切るようなことはありませんよねと、仏様に向かって疑いの念ま で持ってしまうのであります。それを《信心とは如来さまのおはたらきであり、頂き物なんだ》とすると、たまたま頂くことが出来たものだから、よかったよ かったと喜んで、手放しで喜んで救いは全くのお任せによって実現するのであります。『信心』とは、《私が仏様を信じる心》と頂いたならば、私の都合ばかり の心のことをいうことになります。《真実の如来さまのお心がわたしの不実な心の中に至りとどいた》ものであると実感できたなら、そこには私事の心は一切含 まない仏様そのものが至りとどいて下さったことになるのでありましょう。不実な心に真実の心がとどいたなら、私は何もしなくても仏様の方から物事の本質を 見えるようにしてくださるのであります。阿弥陀さまのお救いを動物の親子におたとえすることがあります。猿の赤ちゃんは母親にしがみついて親の側から離れ ないようにしています。猫はふらふら自由に遊び回る小猫を母猫が小猫の首を加えて安全なところまで移動させます。自分でしがみつくのか、全くのお任せでい くのか、凡夫には難しい選択です。  なんまんだぶ

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