2008
年 8月のことば
直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私
なりに味あわせていただくページです
ふと、考える。「いのち」は身体のどの部分をいうのだろうか。頭はどこかわかる。手は右手も左手もすぐわ
かる。足も同じだ、肺の場所もだいたいこのあたりだとわかる。胃の場所もわかりやすい、胃もたれや胸やけを起こすとオレはここだ。最近オレのことをいた
わってくれないな。オレはここで毎日毎日文句も言わずに頑張っているのに、それなのになんだお前は、胃のことをちっとも気にかける事もなく熱いものや冷た
いものを、どんどこどんどこ放り込んできて、少しは考えろ。と反省をうながしているのでありましょう。胃の痛みは、胃から私に対する自己主張、警告であり
ます。余談ですが、私は昨年ピロリ菌を除去したら胃の方もあまり気をつけろと言わなくなってきました。人の身体というのはいたわってやればいたわったなり
の成果が出るものなんですね。お盆の時期などみなさんのお宅に伺うと、たいていのお宅で今日は暑いから冷たい物でもと麦茶などを出して下さいます。出して
もらっておいてなんなんですが。最初の一杯や二杯は美味しくいただけますが、日に数十件冷たい物ばかりいただくと、胃が言うんです。少しは考えろ。おれを
なんだと思っているんだ。ぐれてやる。申し訳ありません私が言うのではありません。胃が言わせるんです。さて、生命の場所を示せと言われると心臓がそうな
のか、脳がそうなのか。よく考えてみるとどこが生命なのかという場所が問題なのではなく、「みんな大事な生命」と言うのであるから、私の存在そのものが生
命であると言っていいのでありましょう。その私にかかる願いを思う時「はえば立て、立てば歩めの親心」が思い浮かぶ。赤ん坊を思う親心をうたった言葉で
す。大きくなってくれ、健康に育ってくれと願うのであります。しかし、人間の親というのは勝手なもので自分の子供がまず第一で、それから周りの子供が目に
入るのであります。人間の親心と言うのはいわば私の欲であります。子育てしてもわが子が一番で周りはその次と思ってしまいます。しかし、もっと深い根っこ
のところでは一番可愛いのはこの私自信で、そんな自分が愛おしくてしょうがない。私は自己愛の迷いの闇のまっただ中です。その周りが見えない闇とわかった
時が、如来さまの願いを私がわかった時であります。その願いは私が気付くずっと以前からかけられていたのです。如来さまの願いは、煩悩まみれのこの私に、
わが心の濁りを知らせ濁ったままでありながらも、大きな大きな無量のいのちの中に包まれてあったのだと気付かせ、悟りを得る身の喜びの人生を歩ませたいと
いう願いに他ならないのです。 なんまんだぶ