2006年 10月のことば 直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私なりに味あわせていただくページです
「い ただきます」食べる合図でなく いのちへの礼儀です
たまにふと考えることがある。考えるけれどはっきりとわからない。というよりもまじめに調べたりしていないのでありますが、いった い何をおまえは考えているのか?気になりますか?土地の所有権はいつからどのように発生したのだろうと考えちゃうんです。狩猟生活から農耕生活に移りはじ めて場所の取り合いのようなことが起きたのだろうかなぁ。北海道の土地もいつから土地の所有権が発生して誰がどのように所有をはじめたのだろう。あの山の あの木からこの川のこの岩までを線で結んであそこまでを俺の土地にしよう。などと決めたのかなぁ。ちがうかなぁ?
さて、それよりもっと以前はどういうことになるんだろう?土地を所有するという考え方は無かっただろうし、所有する必要がなかったのだと思う。食べ物は 狩猟によって得、無くなればまた狩りをする。いのちあるものが、いのちあるものを襲い、「いのち」を奪いながら暮らしていく。現代社会のいのちも永らえか たも太古の昔と根本は何も変わっていないでありましょう。ただそれが見えにくくなっていることは間違いないと思います。いのちを栽培して販売する人(農業 を営む人)もいます。漁をすることでいのちを集めて販売する人(漁業を営む人)もいます。売られているいのちが所有と所有権の移動によって人から人へと 渡っていく。渡っているものはいのちであるにもかかわらず、物として流通していく。いのちが物として流れていく、狩りをして生き物を殺していのちをいただ いていた私たちの先祖は目の前に命がはっきりと見えていた。しかし現代はいのちが物と化して人から人へと流れていく、「物流」であります。物が流れるので す。いのちを頂いているという実感など生まれてこないのでありましょう。以前こんな話がありました「学校給食の際に『いただきます』をうちの子どもに強要 しないでください。ちゃんと給食費を納めているんですから」と親から申し入れがあったというのです。「いのち」が流通している物としてしか見ることができ ない典型ではないでしょうか。食べ物を品物としてみるのか、いのちとして見るのか、現代の多くの人は「食べ物」は人から人は渡っていく物であり、所有権は 人の手にあり、その物のいのちの存在など全く見えていない生活を送っていないでしょうか。給食費を払っているからというのは、魚や牛や豚やお米そのものに 対して対価を払ってもいません感謝もしていません。どうしてこんなに「いのち」が見えにくい世の中になってしまったのでしょう。仏教を聴いて生きるという のは、ものごとをそのままに、ありのままに、あきらかに見ましょうということなのに… なんまんだぶぶ![]()