2005年 5月のことば
直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私なりに味あわせていただくページです
最近だんだんと目の見え方が変わってきているように感じる。そう、遠視すなわち老眼になってきているのであります。ものを見るときは静止しているもの、
動いているもの、近くにあるもの、遠くにあるものと、さまざまな見方をしなければなりません。さて、その視力の計りかたといえば、数メートルはなれて丸い
輪のどの方向が切れているかを答える方法が一般的ですが、動くものを見る動体視力というものもあります。動くものを見る視力であり自分が動きながら物を見
る視力です。静止しているときの物の見え方は、動いているものを見るときよりも同じものを見たとしてもはっきりと見ることが出来るでありましょう。たとえ
ば車や電車の窓を流れる景色は次々と変化していきます。立ち止まって見る時ほどに見ることは出来ないのであります。流れの中にいるとまわりの景色が流れて
いくことはわかりますが、流されているがゆえに見過ごしている風景も多いのではないでしょうか。流れの中にいると流れている姿を見ることは出来ません。ま
た、流れの中で立ち止まろうとすれば流れが速ければ速いほど強い力が必要になります。〈流れる〉〈流される〉〈流れていく〉それを「人の考えに流される」
「時流に流される」におきかえて考えてみてはどうでしょうか。先日の中国各地で起こった反日デモなんかも、日本と中国の歴史認識の違い、歴史教育の違い、
靖国の問題、中国国内の経済問題などなどひとつの問題がひとつの流れだとすれば、いろんな流れがひとつの流れとなって時流をつくりだしたといえるでしょ
う。一度その流れに身をまかせたならばまわりの景色も、流れそのものも見えなくなり、立ち止まる勇気も力もなくなってしまう。流れに流されてしまうと自分
が流れている事すら見失ってしまうのです。様々な条件が重なりあって現在の私ができ上がり、様々な条件が重なった流れに流されている私を、立ち止まらせる
力がなければならないでありましょう。流されやすい私が流れの中で立ち止まり、きちんとまわりの新しい風景をはっきりと見ていきたいものです。流されやす
いからこそ立ち止まる力と勇気を、いま流されている流れがどのような流れなのか見極める力を仏さまに聴かせていただかなければ…
なんまんだぶ