2005年 4月のことば 直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私なりに味あわせていただくページです
生 老病死が家庭から病院へ命が見えにくくなっていく
最近、肉もいいけど魚や野菜もいいと思うようになってきたのは年齢のせいだろうか。だんだんとアブラのきついものはご遠慮したくなってきたが、あまりア ブラものを遠ざけているとこれまた無性に食べたくなる時もある。体が欲しがっているのでありましょう。そんなときスーパーへ買い物にでもいったものなら パック詰めされているお肉のおいしそうなことといったらない。ついつい余計に買ってしまう。
私たちはスーパーに陳列してあるパック詰めの肉や魚を見て食べて美味しいか美味しくないかと見てしまいます。この肉になった牛はいつ生れて何年生きたん だろうか、家族はいたんだろうか、子供はいなかったのだろうか、などなどパック詰めにされている肉の素性に思いをめぐらす人はまずいないでありましょう。
日々の暮らしの中で、この私の命が多くの命の上にあるということを忘れて生活しているのであります。あって当たり前の私の命は、私が、私の力で、いつで も、いつまででも生きていると勘違いしているのであります。
最近息子がテレビゲームの『三国志』に夢中になっているので私は息子のそばで言うのです。『いま死んだ兵士一人ひとりに人生があって家族がいるんだ なぁ〜、今日はいったい何人殺した?二五〇人か?そのうちすんごい額の損害賠償請求をされるぞ。」しかし息子は〈父は何を言っているんだろう?〉と全く聞 こうとしません。ゲームの世界は簡単に殺したり生き返らせたりできるのです。命を奪うことがゲームなのです。命を命と見ない現代社会では命のあり方につい ていったい誰から学べばいいのでしょうか。
私の祖父は私が一歳になる前に自宅で家族にみまもられて亡くなりました。私がハイハイをしている横で寝ていたのだろうと思います。昔は生れてきた命と亡 くなっていく命が同じ空間の中にごく自然にあったのであります。また、母方の祖父も私が二十六歳のお正月に、子供や孫が帰ってくるの待って住み慣れた我が 家で家族や娘達にみまもられながら往きました。
確かに《生老病死》が見えにく現代社会ですが、それが無くなりはしないのですから、つとめて見ていくようにしなければなりません。見えにくくなっている からこそ! なんまんだぶ
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