2004年 9月のことば
直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私なりに味あわせていただくページです
『しょうにんいちりゅうのごかんけのおもむきは、しんじんのもってほんとせられぇ〜そぉろ〜・・・・・』本願寺第八代蓮如上人が全国のご門徒に宛てて書
かれたお手紙であります。《御文章(ごぶんしょう)》として拝読しているものでありますが、この御文章があげられているとき、それを聴かせていただく姿勢
は、頭をさげて聴かせていただくことになっております。「なっております」と書くということは、恥ずかしながらわたしは《御文章》は頭をさげて拝聴しなけ
ればいけないものであるからそういう姿勢で聴いているということになるのでありましょうか。そんなわたしが書くのだから今月のこの文章はいよいよ怪しいの
ではないだろうか。もしかしたらうそかもしれない、疑いの心で皆さんは読まれることになるのではないだろうか。【今月のカレンダー】過去最大のピンチで
す。
さて、さげたくない頭がなぜさがるようになるのでしょうか。「頭がさげる」と「頭をさがる」とでは、どちらも表面的に見えている行為は全く同じですがそ
の内面的なものは全く違うものでありましょう。「頭がさがる」はどのようなときに使っているか考えてみると、尊敬の心が湧いている時や、感謝の念がおこっ
た時などではないでしょうか。そこには「おれがおれが」という心は存在しないのでありましょう。反対に「頭をさげる」は、言い換えれば『わたしが頭をさげ
る』という言い方が出来るのではないでしょうか。頭をさげるさげないの判断は自分の価値観で決めているときに『頭をさげる』というのではないでしょうか。
この次さげている頭はどっちなんだろうと考えたら答えははっきりしていそうだなぁ。では、もうひとつ『頭がさがる』と『頭があがらない』とではどう違うの
だろうか。「頭がさがる」というのは、なるほどと自分がうなづき理解納得している姿でありましょう。しかし、「頭があがらない」というのは、完全に自分を
否定した全くその通りでしたという世界。いよいよ頭の上がらない虚仮不実のわたしに気付かせられていく世界。ウソがウソだとわかるホントウに出遇う世界。
お念仏という真実信心に出遇わせていただき今までウソで頭をさげていたわたしが、ホントウに頭がさがる思いにさせられる世界。それがお念仏を聴かせてい
ただくことであり、わたしは思議(あれこれ考えをめぐらす事が)すること出来ない不実の身でありましたと、真実により知らされるのであります。 『頭をさ
げる』と『頭がさがる』と『頭があがらない』
なんまんだぶ