2003年 12月のことば

直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私なりに味あわせていただくページです  

聞いた仏法が邪魔になればホンモノです
  私はホラー映画が大嫌いです。あんな怖いものを見る人の気が知れません。怖い映画を見たあとはトイレに行くのも何かいるんじゃないだろうか、どこかで誰かが見ているんじゃないだろうか、と気になって怖くてしょうがない。仮想の映画の世界と私の現実の世界が重なり、怖い映画の世界が私の意識の中に出来上がってしまうのであります。私があたかも映画の世界にいるような感覚になってしまうのです。気になって気になってしょうがなくなるのであります。見てしまったがために忘れられなくなって気になって「あぁ〜見なければよかったのにぃ〜〜」と後悔してしまうのであります。私の心に記憶としてとどまるから困るのであります。

 さて、今月は仏法を聞くとそれが邪魔になるのだそうであります。仏法が私の生活の邪魔になるとはいかなることなのでしょうか。仏法は、私の毎日の暮らしの中で役立ってくれるものではないのでしょうか。なんとも変なことを言う今月の法語だなぁと思われた方も多いことでしょう。

 仏法を聞いていくとは、仏さまの真実まことをの法を聴かせていただくということであります。私において真実が、真実とわかってくるということは、私に真実がないから仏法が真実であるとみえてくるのであります。「あなたは男ですか?女です?」と質問されたとしましょう。「なんて分かりきった質問をするの」と言われるでしょう。それは男も女もどちらもよく知っているから簡単に自分は男だ女だ、ということが出来るのであります。しかし、真実ありのままに私が見えてきたら困ることがいっぱいあります。あれも煩悩これも煩悩と知らされると実にしんどいことであります。長生きしたい、健康でありたい、お金持ちになりたい、人によく思われたい、などなど永遠に続くことなどあり得ない願いの実現に四苦八苦している私に、それは欲望を満足させようとしているだけだとお聴かせくださったなら今の私には邪魔になってくるのであります。私が不実な存在でしかあり得ないという真実を私に突きつけてくださるのであります。どうして仏様は欲望を追及しようとしているのに、欲望の追求だけしていて良いのかなぁ?と邪魔をされるのでありましょう。仏法を聞いて仏法が身に付くということをご信心をいただくといいます。信心をいただけばどうなるのか。靴の中に小さな石ころが入っているようなものだといわれた先生がおられます。靴の中の小さな石ころはわざわざ靴を脱いでまで取りだすほどでもないけれど、歩いていると時々足にチクチクと痛みを与えることがある。邪魔なんだけれど通常はそんなに気にならない。 不実な私が真実によって明らかにされるときチクチク痛むのであります。この痛みが煩悩だらけの証拠の痛みなのであります。      ほんとに邪魔なんだから・・・  なんまんだぶ