2002年11月のことば

直枉会発行の直枉カレンダーの月々の法語を私なりに味あわせていただくページです  

親鸞さまは除災招福をなぜ祈らなかったのでしょう
  私は学生時代、京都の伏見稲荷のすぐ近くに住んでいました。しかし、どうしたことか一度も伏見稲荷へは行く機会が無いまま京都を離れてしまいました。毎年、お正月ともなろうものなら近畿圏のあちらこちらから大勢のひとが商売繁盛やら家族の健康やらいろいろなことをお願いするためにに参拝されています。ちなみに伏見稲荷ではどんな願い事がかなうのか気になったので、インターネットで検索し、ホームページをのぞいて見ると(便利な時代です)ありとあらゆる願い事にこたえてくれるようであります。いろいろとある願い事は心願成就と書けばよいのだそうであります。何でも心に願ったことはかなえてくださるのだそうです。見ていると祈祷料(お願い事の代金?)なんかも書いてありました。いろんな意味で面白いホームページでした。一度のぞいてみるのも楽しいのではないでしょうか?「へぇ〜っ!」とうなってしまいそうです。

 さて『除災招福』とは、私が災難に遭いませんように幸福になれますようにと祈ることであります。他人はどうあれ、まず私が幸せになれますようにであります。たとえば出かけているときに消防車のサイレンが聞こえた、自分のうちの方から聞こえてくる、もしやと思って急いで帰ってみたら二〇〇メートル離れた家が燃えていた。その時思うことは「うちじゃなかった。あぁ〜よかった!だけどあそこの家もお気の毒になぁ〜。」というのがおおかたの順番ではないでしょうか。私の願う『除災招福』とは実に自己中心的なものです。そのことを見抜かれた親鸞さまは、自己中心的な願い事をすることを厳しく否定されたのであります。もしも願って思うようになるのであれば私なんかお願いする事がいくらでもあります。あれでしょ、これでしょ。それから、あっあれも、それから〜それから〜     なんまんだぶ