考古学的には御廟野古墳と呼ばれています。山科盆地北辺の南向きのゆるやかな傾斜面に位置します。終末期古墳。上円下方墳といわれるが、正しくは上円部は八角形をなしています。下方部は二段築成で、上段は一辺46m、下段は一辺70m。ただし下段は南側のみに造成され、墳丘背後にはおよばない。また上段、下段とも石の列があります。正面には「沓石」と呼ばれる約2×3mの平坦な切石があります。
陵地については『延喜諸陵式』に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」とあり、山科には他に目立った終末期古墳がないことから、この御廟野古墳が天智陵であることはほぼ疑いありません。
場所については問題がないが、築造年代はいつであったかについての問題が残ります。天智天皇の死後すぐに壬申の乱が起きているので、乱のさなかに古墳を築いたとは考えにくいです。
ではいつ築造されたのでしょうか?『続日本紀』文武3年(699 没後28年)に天智陵を修築したとの記述があります。これはそれまで未完成だった天智陵を完成させたと考えても良いのではないでしょうか。
天智天皇の死に関して不思議な話が伝わっています。
平安時代末期に僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった。その沓が落ちていた所を山陵としたといいいます。
この話から天智天皇の死が暗殺ではないかなどトンデモナイことをいう人がいますが、遠山美都男先生も指摘されているように(『天智天皇』PHP新書)、道教では仙人が姿を消して昇天する(尸解{しかい})するといわれていますので、この伝説は天智天皇が神仙であるということを示しているものなのです。聖徳太子、菅原道真にも同様な話があります。