6月16日の説教

しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスのうちに
あるとおりに学んだはずです。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、
真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

(エフェソ4:17〜24)




人生をどのように生きるかは「もう」と考えるか「まだ」と考えるかによって違ってきます。
「もう40歳です」という方と「まだ40歳です」という方。「もう80歳です」という方と「まだ80歳です」という方。
どちらで自分の人生を捉えるかでその後の行き方が全然違うのです。

創世記でアブラハムは、神様のソドムを滅ぼすというお考えに、あきらめずに何度も神様の意志を確かめました。

アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者を悪い者と一緒に殺し、
正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたはなさるはずはございません。
全くありえないことです。
全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
主は言われた。
「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
アブラハムは答えた。
「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません、
それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
主は言われた。
「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
・・・中略・・・
アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう1度だけ言わせてください。
もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」


キルケゴールは「死に至る病」について考察しています。
死に至る病、それは絶望することなのです。
わたしたちクリスチャンにとって、死でさえ「死に至るもの」ではありません。
なぜなら、イエスさまの復活があるからです。
わたしたちは主イエスを見上げて歩むときに、あきらめるということ、絶望することはありません。

高齢なのでわたしには何もできません、という方がいますが、その方も礼拝に出席することで、その姿を見た若い方たちの
力になります。もし礼拝に出席できなくても、祈るということが大きな力となります。
わたしたちは、神様から与えられた人生を豊かにするため、可能性のあるところではあきらめず、
心の底から新たにしてくださる神様を信頼し、できることに目を向け、喜びをもって生きることができるのです。

今週も、主によって生き生きとした人生を歩んでいきたいと思います。


                                                   (説教菊池丈博牧師)





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