3月16日の説教


イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。
悪霊が出ていくと、口の利けない人がものを言い始めたので、群集は驚嘆した。
しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼルブの力で悪霊を追い出している」
と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。
「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、言えは重なり合って倒れてしまう。
あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、
サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか。
わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。
だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。
わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出て来た我が家に戻ろう』という。そして戻ってみると、家を掃除して、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入りこんで、住み着く。
そうすると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。
「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
しかし、イエスは言われた。
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

(ルカ11:14〜28)


今日の聖書個所には、ベルゼルブ論争という題がついています。
ここには口を利けない人が出てきますが、口を利けないというのは悪霊に取りつかれた人、つまり神から離れている人=罪人
というレッテルを貼られている人です。

目・口・耳などが不自由でこの世に産まれてくる場合、どうしてそのようなことが起きるのか、と考えますが、昔はその子の先祖に
その原因がある、と考えました。
今日の個所に、神が保証をしてくれればイエスを信じよう、というひとが出てきますが、それに対し、イエスは
「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、言えは重なり合って倒れてしまう。」と答えています。

この物語から何を考えたらいいのでしょうか?
現代とのつながりはあるのでしょうか?

病について、なぜ治らないかなど、いろいろな悩みを抱きつつ生きている人はたくさんいます。
そして奇跡が起こっていっぺんにこの悩みを解決してくれないか、と願ったりします。
そう思いながら聖書を読むと、気づくことがあります。
この場面でイエス様が悪霊を追い出したのに、それを見てもメシアだという人は一人もいませんでした。
なぜここでイエス様は悪霊を追い出したのでしょうか?
その業で神を示す、というのではなく、ただその人を憐れまれたからです。
ここでイエス様が知って欲しかったのは、28節の言葉であったと思われます。
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

さて14節に「口を利けなくする悪霊」が出てきます。
なぜ口が利けなかったのでしょうか?
普通わたしたちは、この人は耳も聞えなかったのではないか?と考えるでしょう。
耳が聞えないと、口を利くのは困難のようです。
もともと、「口が利けない」というのと「耳が聞えない」というのは同じ単語です。
マタイによる福音書の「耳の聞えない人は聞え」の「耳の聞えない人」はここの「口が利けない人」と同じなのです。
ということは、この人は「耳が聞えない人」と訳してもよさそうですが、そうではなく、どの聖書を調べても
ここでは「口が利けない」となっています。
ということは、この人は、耳は聞えるが口が利けないのだと考えることができるかもしれません。
口が利けない、ということはつまり、心を開かない、ということではないでしょうか?
これには精神的なことが深く関係しています。
人間関係がうまくいかなくなると、まず口を利かなくなりますね。
無視をするのです。
ではなぜイエス様に悪霊を追い出すことができたのでしょう?
それはイエス様は愛の人だからです。
愛によって口を開かせることができたのです。

神の手、神の指によって、わたしたちは神の作品として造られました。
だから愛の人生を歩みたいと思います。

「楽しい」という言葉は、赤ちゃんが精一杯手を伸ばす、ということからできたということです。
力一杯神の愛を受けて手を伸ばすこと、そこに楽しい人生の秘訣があります。
わたしたちの手が2つあるのは、1つの手で神の愛を受け、もう一方で隣り人に手を伸ばして励ましと慰めを与える為なのです。

今週も神の愛を受け、またそれを与えていきたいと思います。

                                                         (説教:菊池丈博牧師)


                                                          

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