1月4日の説教

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、
両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
また、主の律法に言われているとおりに、山鳩ひとつがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。
この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
そして、主が遣わすメシアに出会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
メシオンが「霊」に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために、
律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
異邦人を照らす啓示の光
あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
シメオンは彼らを祝福し、母親マリアに言った。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたり
するためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
ーあなた自身も剣で心を刺しつらぬかれますー
多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。
非常に年を取っていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮したが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。
彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

(ルカ2:22〜38)


イエスが生まれた時代、男の子は生まれて40日の間、清めの期間であり、それを過ぎると、献げ物をするために
神殿に行き、ろうそくをともして祈りを捧げます。
これがキャンドルサービスのルーツです。

ここに出てくるシメオンもアンナも老人です。
2000年前に80歳、90歳まで元気でいるというのは、驚くべきことでしょう。
神の聖霊がこの人たちの上にとどまっていたのです。

神殿にいる大勢の人たちの中で、イエス一家に気付いたのは、彼ら2人だけでした。
それはこの2人の信仰の持ち方に鍵があるのではないか、と思うのです。
まず、彼らは待つだけ、願うだけの信仰ではありませんでした。
つまり「待ちつづける信仰」だったのです。
この二人の信仰に、まず神が目をとめられたのです。
だからこそ、イエスの家族を見つけることができたのではないでしょうか。
そして、彼らは年齢によらない信仰を持っていたのです。
実体のある信仰とは日に日に深まって行くものです。
年を取ると、身体が動かないし、やりたいことができなくなります。
しかし、大切なのは、それでもなお信仰が衰えない、ということです。
いや、本当の信仰はますます深くなっていくことができるのです。
シメオンとアンナの信仰はそうでした。

スイスのトゥルニエという方は『老いの意味』という本を書いています。
その中には、老いを受け入れることが大切である、と書かれています。
老いを受け入れるとは、これまでのすべての人生に「イエス」と言うことです。
人生の各段階の人生を受け入れることができれば、老いてもなお自分自身を受け入れることができます。
そうすれば、死をも受け入れることができるのです。

アンナは、少なくとも50年間はやもめ暮らしでした。
苦しい生活であったろうことは想像に難くありません。
しかし、神の恵みのうちに自分を受け入れ、精一杯生きたのではないでしょうか。
シメオンも、自分の人生を受け入れ、救い主、メシアに会うことを望みつつ生活していました。
彼らは希望を持ちつづけ、祈り、信仰を守り続けたのです。

一時教会に通ったり、祈ったりする人は大勢いますが、それを続けるのは大変なことです。
しかし、そのような信仰こそは次の世代に受け継がれるべきものなのです。

いろいろな困難の中で、それでもなお礼拝に出席できるのは大変大きな恵みです。

シメオンやアンナのように、望みを持ちつづける信仰を持ちたいと願います。

                                           (説教:菊池丈博牧師)





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