1月19日の説教
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、
何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
むしろ、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。
栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
あなたがたのうちにだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者
として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。
むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
(ペトロの手紙1、4:12〜16)
今日の聖書個所の「火のような試練」とは「火として迫ってくる試練」「火の試練」と読み替えてもいいものです。
これはペトロの時代のクリスチャンの迫害について書かれてある個所なのです。
ローマ帝国がキリスト者を十字架につけ、火によって焼いたという事実があります。
あるいは闘技場に連れて行かれ、猛獣の中に入れられ、見世物にされた、などなど…
このようなことが行われていたのです。
なぜクリスチャンがこのような目にあったかといいますと、ローマ皇帝に対して礼拝をしなかったから、という説があります。
当時、国の平和や豊かさは全てローマ皇帝のおかげだとされていたのです。
しかし、キリスト者は、人間が作った制度や権威には礼拝しません。
また、ローマ人は金曜日の夜から土曜日の夜までが安息日でしたが、キリスト者は日曜日が安息日でありましたし、
割礼もしませんでした。
実際に教会に足を運んでくる方は、いろいろな問題を抱えています。
教会は重荷を下ろすことのできる場所なのです。
それはなぜでしょうか。
人間の価値観からではなく、主なる神の価値観から物事を見ることができるからです。
つまり、自分の重荷を神の価値観で見ることができるようになるのです。
発展途上国と呼ばれている国では、基本的欲求さえ満たされていない人々が大勢います。
しかし、このような場所では自殺が少なく、みんなで団結して生きていこうと努力する人が多いといいます。
日本はどうでしょうか?
生まれた時から守られており、そのせいか人間関係を作れない人が多くいます。
その人の存在そのものが満たされている、ということが基本的欲求が満たされている、ということです。
つまり、無条件で生きていていい、ということなのです。
しかし、わたしたちは時として、そのことが当たり前になりすぎているため、見失ってしまっています。
人間は無条件にその存在が肯定されている時に、強く生きていくことができるのです。
神様によって、わたしたちの存在が肯定されている場所が教会です。
試練は思いがけない時にやって来ます。
しかし、それを悲しむだけで終らせてはいけません。
その時にこそ、信仰が試されているのです。
試練の中で、本当に信仰があるかどうかが試されるのです。
主はその試練を受けとめてくださいます。
ですから試練は宝物とさえ言えるのです。
今週も主を見上げて歩んでいきたいと思います。
(説教:菊池丈博牧師)