12月1日の説教


終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、
謙虚になりなさい。
悪を持って悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。
かえって祝福を祈りなさい。
祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
「命を愛し
幸せな日々を過ごしたい人は
舌を制して、悪を言わず
唇を閉じて、偽りを語らず
悪から遠ざかり、善を行い
平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
もし善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。
人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
心の中でキリストを主とあがめなさい。

(ペトロの手紙1、3:8〜16)



本日の聖書個所の「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は・・・」は、旧約の詩篇34編から引用されたものです。
しかし、そっくりそのまま同じというわけではありません。
詩篇の方では「喜びをもって生き、長生きをして幸いを見ようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い
平和を尋ね求め、追い求めよ。」となっています。
この「喜びを持って生き」るということが「命を愛」することなのです。
つまり、喜びを持って生きる人は、自分の命を愛しているのです。

幸せに生きたい、というのはクリスチャンであるなしに拘らず人間共通の願いです。
ではどうしたら幸せに生きられるのでしょう。
わたしたちには「舌を制して、悪を言わず…」という生き方が聖書を通して与えられているのです。
まず、この御言葉はわたしたち自身に向けて言われていると考えなければなりません。
自分に対して悪を言わず、偽りを語らず…

誰でもコンプレックスがあります。
それを考えていると、喜びを持って生きることはできないような気がします。
しかし、そのコンプレックスを肯定的に考えるか、否定的に考えるかでずいぶん違ってくるように思います。
主なる神はわたしたちを「神の作品」として作ってくださり、最後まで愛しぬかれたのだと知る時、自分のマイナスも神様の恵みなのかも
しれないと思い、それをすなおに神に感謝するときに、喜びを持って生きることができるようになるのです。

「自分なりの」の、うそ、偽りのない人生を歩んでみようと努力するときに、喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と悲しみ、隣人を愛することが
できるようになるのです。
しかし、「よし、今日から!」と思っても、数日するといつのまにかその気持ちが薄れていまいがちですね。
それは実は「自分なりの」ではなく「自分らしい」生き方になっているからです。
この「らしい」という言葉には、「こうでなければならない」という前提があるのです。
それに合わせようとする時に、自分自身でいることができなくなるのです。

わたしたちの人生はリハーサルのないぶっつけ本番の舞台です。
だからこそ「自分ならでは」の生き方をすることが大事なのです。

今週も主を見上げて、そのように歩んでいきたいものです。

                                                       (説教:菊池丈博牧師)



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