11月30日の説教
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則から
あなたを解放したからです。
肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、
律法の要求が満たされるためでした。
肉に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、
神の律法に従っていないからです。従いえないです。
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく、
霊の支配下にいます。
キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪に死んでいても、
「霊」は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っている
その霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(ローマ6:1〜11)
アドベント第一週目です。
今年の主題聖句は、いろいろな苦しい状況の中でわたしたちを力づけてくれました。
「希望を持って」という言葉は、我々をどんなに力づけることでしょう。
ティム・ワイブル宣教師の属する教団で使っている祈祷書の、アドベントのところで、
アドベントの第一主日、アドベントクランツの最初のともし火の名前が「希望」であると記されています。
「父なる神よ、主イエス・キリストがわたしたちの中に希望をもたらしてくださったことを感謝します」
アドベントの最初のともし火は希望の印です。
わたしたちの希望であると同時に、神の希望でもあります。
1〜3節、主なる神の願いは、私たち人間が、神とのつながりをしっかりさせるため、
イエス・キリストをわたしたち人間にお与えになりました。
わたしたち人間と同じ経験をされたイエス・キリストは、ろうそくのともし火を持って現れ、
無条件の、無限の愛を与えてくださり、救いの道に導いてくださるのです。
希望とは「いのちと平安」です。
喜び、悲しみ、淋しさなど、どのような時においても、キリストを信じる人は、この場所において
いのちと平安を得ることができます。
わたしたちは、生きることにおいても、死ぬことにおいても、主なる神によって希望を与えられているのです。
8節、肉の支配下、とは自分の利益のために生きることです。
人は得れば得るほどにもっと欲しくなります。
きりがありません。
自分の求めているものが足りないと感じる時、不安に陥ります。
また、死とは、生きていても自分の中に希望のない人です。
へレン・ケラーが「一つだけ願いがかなとしたら、何をして欲しいですか」という質問にこう答えました。
「平和を!」と。
わたしたちの状況の中に紙の愛を探してみましょう。
必ずどこかに隠れているはずです。
9節、わたしたちの内に、確かに神の霊が宿っているかぎり、
神様との関係の中で、いのちと平安が宿っているのです。
希望をどこに見いだせばいいかと悩むとき、
小さなともし火の中にある大いなる希望、
イエス・キリストという希望を心の中にともして歩んでいきたいと思います。
(説教:菊池丈博牧師)