11月2日の説教
では、どういうことになるのか。
恵みが増すようにようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
それともあなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。
死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。
かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
(ローマ6:1〜14)
2節に「罪に対して死んだ」とありますが、罪とは一体なんでしょうか?
ヨハネ福音書8章34節では、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とあります。
ロマ書では、恵みと罪を対比させています。
罪の奴隷とは、神とのつながりがなくなる、ということです。
ペトロの手紙2、2章19節には「人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」とあります。
わたしたちは、頭でわかっていながら、実体のないものに従ってしまうことがあります。
信仰も同じです。
わたしたちは常に、バプテスマを受けようと決心した時の気持ちに立ち戻らなければなりません。
「キリストの死にあずかる」とは、キリストがわたしたちと共に罪に死んでくださった。
イエス・キリストが命をかけてわたしたちの罪を赦してくださった、だから恐れることなく、歩んでいきなさい。
もう人生に失敗することはない、とおっしゃってくださるということです。
「新しい命に生きるために」
「生きる」という言葉の本来の(原語の)意味は「歩く」です。
歩く=生きる、だということは大切なことです。
わたしたちの人生では、特に信仰については「歩く」ことが大切です。
日々の歩みの中で信仰が培われ、しっかりと根付き、強められていくのです。
神にしっかりとつながって歩んでいきたいと思います。
(説教:菊池丈博牧師)