11月23日の説教

わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。
しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
わたしは自分のしていることが分かりません。
自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めていることになります。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。
善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、もはやわたしではなく、
わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもうひとつの法則があって心の法則と戦い、
わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。
わたしは何と惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

(ローマ7:13〜25)


5,6,7章は人の罪について語っています。
今日の個所はパウロ自信の罪について語られています。
ここには「わたしは」という言葉が23ヶ所、一方「わたしたちが」という言葉は2箇所のみです。

わたしたちはみんなと同じだと罪の概念は持ちませんが、人と違うことをしようとすると、不安になり、罪の意識を持ちます。
キリスト教の救いは人の罪からの救いです。
ロマ書に書いてあるのもそういうことです。
罪と救いを考えるときは、まず罪とはなにかをしっかり捕らえることが必要です。

罪とはわたしたちと神様のつながりが切れている状態です。
25節の「わたしたち」は、わたし一人ではできないが、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝」ということで、
神様とのつながりがあるということを示しています。
「イエス様を通して」わたしたちは罪を見据え、理屈や知識ではなく、自分の実体として理解することができるのです。

普段わたしたちは、罪と一体化しているので、罪に気付きません。
気付くためには、大元にある神との接触がなければならないのです。
わたしたち日本人がキリスト教を理解するとき、犯罪を犯すことによる罪と、原罪というキリスト教でいう罪の区別が
なかなかできません。
だから、ゆっくりと、しかししっかり学び、受けとめていかなければならないのです。
罪について理解できると、救いについても分かるようになります。

わたしたちは肯定的な言葉を使おうとしても、つい否定的な言葉を使い、相手を傷つけてしまうことがあります。
それが罪、つまり神から離れているのです。
18節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている
それはわたしたちの中心が罪になっているということなのです。
最も大切なことが抜けているのです。
それが人間の本来の姿だとパウロは言っています。

わたしたちは何度でも神さまのエネルギーを取り戻していかなければなりません。
人間の力は希望からやって来ます。
わたしたちは神様から希望をもらっているのです。
信仰を持つ者、イエス・キリストを知る者は、神に希望を置くのです。
イザヤ書に「わたしをおいて神はない。
正しい神、救いを与える神は
わたしのほかにはない。」
とあります。
この方から、わたしたちは生きていく力を得るのです。

神に希望をおくとは、祈り、願い求め、感謝することです。
主イエス・キリストの名によって祈ること、主が共にいて下さることを信じ、信頼して歩むときに、
わたしたちは希望を失わずにいることができるのです。

                                               (説教:菊池丈博牧師)



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