11月16日の説教
それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、
律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、
自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、
夫が死ねばこの律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。
それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、
こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、
死に至る実を結んでいました。
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、
律法から解放されています。
その結果、文字に従う古い生き方ではなく、「霊」に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
(ローマ7:1〜6)
使徒パウロがわたしたちに伝えたいと思いつづけていることは、罪に死に、キリストに生きるということが
いかに大切か
ということです。
「罪に死ぬ」とはどういうことでしょうか?
4節には「律法に対しては死んだ者となっています」とあり、6節には「自分を縛っていた律法に対して
死んだ者となり とあります。
しかし、7節には「律法とは罪ではない」とあるのです。
どういうことでしょうか。
ある牧師は「律法とは自分の意志を支配する力」と言いました。
律法とは、いつのまにか培われたきた経験、教わってきたことの中で「〜しなければならない」「〜すべきである」と
自分を縛っているものです。
しかしこれらは、あまりにも自分自身と一体になっているので、自分ではそれと気づきません。
たとえば、小さい時から「早くしなさい」「早くしなさい」と言われ続けて大きくなった人は、他人がなにかをゆっくりとやっていると
なぜだかしらないがイライラしてしまう、ということがあるでしょう。
これは「早くしなければならない」という思いで自分を縛っているのです。
パウロもそういうことがありました。
フィリピ書の3章には「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、・・・律法の義については非のうちどころのない者でした」
とあり、また、使徒言行録にも自分の生まれについての記述があります。
しかし、律法を守ろうと一生懸命になろうとすればするほど、心から出て来るものは裁きです。
イエス・キリストこそ律法の完成者だと聖書にあります。
その律法とは、隣人を愛せよということです。
まことの神は低くなって人を愛されました。
イエス様に出会う前のパウロは、非とよりも自分を上に見て、他人を裁いていたのです。
しかし、主イエスはその無条件の愛でパウロを包みこんだのです。
それによって、パウロは律法に死んで、愛に生きるようになりました。
この話を聞いて、自分の心も「〜すべき」「〜しなければならない」という律法で縛られているなぁ、と気づかれた方が
いらしたら、すばらしいことです。
お互いに赦し合い、与えられた状況の中にあって、主イエスの愛の中に生きぬくこと、
神に祈りつつ、神の愛によって生きていきたいと願います。
(説教:菊池丈博牧師)