10月6日の説教


だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの
乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
この主のもとに来なさい。
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。
そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を
シオンに置く。
これを信じる者は、決して失望することはない。」

(ペトロの手紙1、2:1〜6)



今日の聖句の第3節「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」という言葉は、
それほどインパクトのある言葉ではありません。
この「恵み深い」とはギリシャ語では「クレイストス」といい、クリストス(=キリスト)という言葉に似ていますね。
したがってこの二つの言葉を結び付けて考える学者もいます。
また、ペトロがそのように言った、というよりも、この手紙を書きとめたシワルノという人がそのように記したのかもしれません。

「クレイトス」のもともとの意味は「これはわたしの役に立つ」ということなのです。転じて「美味しい」という意味もあります。
今日の聖句の「味わいました」という言葉は、このことから来ているようです。
イエスはわたしたちにとって、美味しい食べ物のようなものなのです。
主の恵みは、時間をかけて十分に味わうべきものであり、食事のように、朝に昼に夜に、触れていくべきものなのです。

さてこの「クレイストス」という言葉は、マタイ福音書の「山上の垂訓」の個所にも使われています。
「わたしのくびきは負いやすく」というところの「負いやすく」という個所が「クレイストス」となっているのです。

わたしたちは、病気のとき、心に重荷を負っているときには、食べ物の味がしなくなります。
同じように「信仰が風邪をひく」ということが言われますが、この状態では「悪意、偽り、ねたみ、悪口」が
口をついて出てくるようになります。
わかっているのだけど、その状況から抜け出すことができない…
どんなに欠点のない人だと思われている人でも、人はすべて罪人でありますから、「悪意、偽り、ねたみ…」があり、
人を裁いてしまいます。
人を裁いているとき、その人は自分が一番と考え、神を忘れています。
そしてキリストの豊かな味わいを感じることができなくなります。
その人の生活は、砂をかむようなものになってしまいます。

わたしたちは、主の恵み深さを味わうことができなくならないように、人を裁かないようにしましょう。
主のもとに来れば、裁かない方を知ることができます。
わたしたちは裁かない方を知るために、主のもとに集まるのです。

ある説教者が言いました。
「人は10%の現在と90%の過去の経験で生きている」と。
つまり、自分が許されたという経験があれば、他人をも許すことができるのです。
イエス様はマタイ福音書18章で、ペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか、
7回までですか」と尋ねたとき、
「七回どころか、その七十倍までも人を赦しなさい」とおっしゃいました。
人を裁かない、そして赦すということを、主イエスはわたしたちに身をもって示してくださいました。

今週も主をいしずえとして、歩んでいきたいと思います。

                                                         説教:菊地丈博牧師






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