教会教育講座2005
(聖書は何を語るか より)
9. ―旧約聖書の人物像A: 「ヨアシュの生涯からの警告」―
列王記12章・歴代誌24章
2)
a)祭司ヨヤダが世にあって教えた間だけ主の目にかなう正しい道を歩んだヨアシュ王の話は、
信仰の道を最後の目標まで歩み続けたいと願う人に、重大な警告と戒めを与える。
b)ヨアシュは本来、神の不思議な守りと導きにより暴虐な女王アルタヤの剣を逃れたのであるから、
彼の一生は、当然主に対する感謝で貫かれるべきであった。
また、神のみことばに忠実なヨヤダに教育されるという特権も受けている。
しかし、後に主から離れていった。
わたしたちに対する警告@
⇒神の恩寵のうちに生かされてきたわたしたちには二重の責任がある。
・主のもとにとどまること。
・正直で従順な歩みによって主を賛美する力を、日ごとに主に求めること。
c)ヨシュア王は在位23年(王12:7)の時には、まだ正しい道にあった。
その後、離反の時が来た。神の栄光のために何十年も生きてきた人が、
その後罪に陥り、徒党を組んで襲ってきた家来たちに打ち殺されるという
悲しむべき人生の終末を迎えなければならなかった。(代24:23-26)
わたしたちに対する警告A
⇒何年もの間、何十年もの間、神の道を歩んできた全ての人に対して、
常に目を覚まして祈り続けなさいという神からの呼びかけを無視してはならない。
・わたしたちは、ヨアシュ王の話から何を学ぶことができるだろうか。
他人を励ましてきたヨアシュが後に背教者となった。
彼は神のことに熱心であったにもかかわらず、自分自身の事を神に固く結びつけることに失敗した。
彼の陥った過ちは、わたし達に「他の人を戒めたり励ましたりする前に、
自分自身のたましいのことに心をくばりなさい。」と警告する。
新来者に対する配慮、心配りも必要な事かも知れない。
しかし、まず自分自身のたましいのことに心を配る姿勢を持ち続けること、
それが新来者に対する最大の歓迎であることをもう一度考えたい。
・ヨアシュの離反と無定見の最も深い理由はどこにあるか。
すばらしい彼のすべての体験、数十年にも及ぶ敬虔な歩み、主の宮のための熱心な働き、
これらすべてが後退し、挫折してしまった。
わたし達は、彼が敬虔な人に対する依存から、神ご自身に対する真の依存へ
移って行けなかった姿を見る。
彼は、自分の生命と王位の全てをヨヤダに依存し、心から師として仰いでいた。
しかし、師を飛び越えて自分自身を神に固く結びつけることに失敗した。
わたし達は人を通して神を見るのではない。
主イエスを通して自分自身を神に固く結びつける姿勢を持ち続けたいと願う。
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P.S
先週、ヤコブの信仰を通して、まだまだ、成熟した人間への道の希望を捨てないで
いられそうだとの思いをいだいたことと思う。
神のことばの影響下に我々の発言がなされること、
神の戒めにかなう行動を行なっている時に他に対しての説得力があること、
などはこれからでもなんとかなりそうだとの思いをいだく。
しかし、ヤコブがその激しい経験を通しての神の恵みを確信をもってあかししたことのような
あかしを自分はもっていないとの思いが一方ではあったのではないだろうか。
もう一度しかし、今日のヨアシュの信仰の姿を通し、わたし達は大きなあかしを
与えられていることに気がつかされるのではないだろうか。
今日でも、人気のあるカルスマ性を備えた説教者を通して神をみるという姿勢は、
よく見かけることである。
あの先生がいなくなったらどうなるだろうという教会も目にする。
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しかし、この原町田教会の教育講座に出席している一人一人は、
ものの見事にその信仰の歩みを異にしている。
狭い日本のキリスト教界の中であるにもかかわらず、過去の信仰生活において、
その接点を見出すことは難しい。
それぞれが、その信仰生活を振り返れば、自分自身の主体的な信仰を求めての旅をして
今日の原町田教会にたどりついたのではないだろうか。本当の教会ってこんなものじゃない、
本当の信仰ってもっと自由であっていいのではないか、そんな思いを持ち続けての
旅ではなかったか。
従って、この原町田教会に来た当初はそれぞれが皆、慎重であった。
自分はクリスチャンであるから、礼拝はきちっと守りたい。
しかし、ぎりぎり礼拝だけは守るようにしよう。
人間関係の複雑さは遠慮したい、自分の信仰の主体性だけは守っていきたい、
自分の家庭の信仰の主体性だけは守っていきたい、
そんな思いの中ですごした原町田教会での教会生活が、いつの間にかどっぷりと
原町田教会の中に浸かりこんでいる自分の姿に気が付かされるのではないだろうか。
それは、それぞれまったく違った信仰生活を送ってきた者同士が、
それぞれの主体的な信仰を持った上でcollabolationとしての教会生活を送ることを
保障されていることを経験的に感じ取ってきたからではないだろうか。
ここに集まった一人一人が、いつでも自分の意思で教会から離れることが出来た、
あるいは信仰から離れることができた中で、神がとららえてくださったからこそ
長い信仰の旅をおくれたし、これからもとらえて下さるとの確信を持つことができる。
そのことを家族の者に、そして周囲の者にあかししていくことができるのではないだろうか。
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次回は 7月17日(日) 新約聖書1 その全体像1