教会教育講座2005
(聖書は何を語るか より)
5.旧約聖書5―現在を生きる知恵の書―
◎ 旧約聖書を時間軸に分けて分類するならば過去・現在・未来に大きく三つに
分けて考えることができると言われています。
今日はそのうちの現在にあたる部分、伝統的な言い方からすれば諸書にあたる部分
をとりあげてみたいと思います。
現在に分類されるのは以下の9文書です。
詩編、哀歌、箴言
ヨナ書、ルツ記、エステル記、雅歌
コヘレトの言葉、ヨブ記
この9文書には、祈りがあり、現在を生きるための知恵や教訓があり、「物語」や
恋愛歌もあり、旧約聖書の豊かさと多様性が凝縮していると言われています。
それでは、個々に取り上げていきましょう。
―詩編―
・旧約聖書の中における人間の様々な喜びや悲しみの表現の最大のもの。
・150編から成り、その一つ一つが祈りといえる。
・その基本的な構図は、人間の悲しみを背後にもつ「嘆き」と
人間の喜びの表現である「賛美」を両極とする躍動感のあるものである。
1つの詩編の中で
詩編13編
1節 いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 ―――嘆き
6節 あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り 主にむかって歌います。
「主はわたしに報いてくださった」と。 ―――賛美
・詩編全体を通しても、最初のほうに「嘆きの詩編」が多く、
最後の方では「賛美の詩編」が続いている。
・詩編119編はアルファベットのアレフからタウまでの長い詩編。
―箴言―
・現在を生きる上での知恵の言葉の集成、格言集。
―雅歌―
元来、人間の男女の愛を歌った恋愛歌だが、それが神とイスラエルの愛の関係を示すもの。
―哀歌―
・3:31−33
・神の絶対的な愛への信頼がある。
イスラエルを捕囚にしたバビロンに対する恨みは述べられていない。
この哀歌が悲哀を悲哀に終わらせないところに、イスラエル精神が光る。
イスラエルには、国家滅亡の悲劇を神の懲らしめとして受け止め、
この懲らしめの背後に神の慈愛の配慮を認め、痛烈な悲哀感と不朽の希望とを結合させた。
・冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。わたしたちは罪をおかしたのだ。
罪の承認(5:16)
・あなたは激しく憤り わたしたちをまったく見捨てられました。(5:22)
「見捨てられた」と歌いきることによって神による無限の希望を感じさせられる。
―コヘレトの言葉・ヨブ記―
イスラエルには、箴言に代表される伝統的な知恵が蓄積されていたが、その知恵では解決できない現実の「虚しさ」、あるいは「苦難」の問題と真正面から取り組んでいる。
「コヘレトの言葉」:現代でいうニヒリズムの問題を扱っている。
なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。(1:3−11)
にもかかわらず、
すべては「神の手の中にある」(9:1)と断言する。
「ヨブ記」:人類共通の問題である苦難の問題を徹底的に考え抜いている。
「ヨブ記」は、旧約の中でも多くの人々に親しまれています。
今回は、視点を変えて今日、最も必要とされている「物事を考える手法」の一つ、
ディベート(debate)の原型として捉えてみたいと思います。
(問)ヨブは「無垢で正しい人」であったが、大変な苦しみに遭遇する。
その苦難をどう理解するのか、論ぜよ。
(第一ステージ:4章―31章、三人の友人 VS ヨブ)
三人の友人の論理:人間はその犯した罪の結果、苦しみを受ける。
ヨブの論理:自分がまったく罪を犯さず完全無欠な人間だとは行っていない。
しかし、現在の苦難が、罪の結果であるとはとても考えられない。
「わたしが、アダムのように自分の罪を隠し
咎を胸の内に秘めていたことは決してない。」 (31:33)
ジャッジ:ヨブの判定勝ち。
観客:よく善良な人が、「あなたが悪いことをやったから、その罰だなんてこと絶対にない」
と言ってくれることがある。でも、なんの慰めにもならない。苦しさを取り除いてくれることはない。
むしろ、うっとうしいくらいだ。
(第二ステージ:32章―37章、エリフ VS ヨブ)
エリフ:苦難に救済的な意義を認め、苦難が懲罰的なものでなく、矯正的なものであるとの論理
(「神は苦しむものをその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(36:15))
ヨブ:わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。
わたしは、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた。(34:5)
ジャッジ:判定不能、何が正しいかという問題でない感じがする。
(第三ステージ:38章―、神 VS ヨブ)
神:わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。
知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。
誰がその上に測り縄を張ったのか。
基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
(38:4,5)
ヨブ:何も答えられない。
あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。 (42:2,3)
ジャッジ:人間が自己の力で自己を救うことは不可能であり、
むしろ苦難の中で示されるのは創造の神の圧倒的な大きさである。
その神の前に砕かれ、人間の思いをはるかに超えた「神の経綸(計画)に、
自らを開くことにおいてのみ、問題の解決に至ることができる。
◎ 低きに降る神の前にあって砕かれた者のとるべき道。(新約聖書から)
1.思い煩うな(空の鳥、野の花):マタイ6:25−34
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈入れもせず、蔵に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。映画を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。
しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
P.S
ヨブ記は、メンバーの一人一人にとっても、よくこなされている聖書箇所でした。
そのため、ヨブ記にまつわるいろいろな体験談が出てきました。
そのうちの2つにこんなものがありました。
お二人とも別々の事例ですが、健康に困難を覚えておられる他のキリスト者の仲間から、
「何らかの示唆が与えられればと思ってヨブ記を読んでみたが、分からなかった。」との話に
何も答えられなかったということでした。
私達は、単純にヨブ記でヨブの苦難を通して教えられることがあると思い勝ちですが、
その私達の考えの中に、大島先生が書かれているように、ヨブ記冒頭のサタンの言葉
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)と似たような思い
「苦難にあったらヨブ記を読めば何かのヒントが与えられる」ということが無意識のうちに
働いているのではないでしょうか。
結局は、現在の苦難を解決する道をヨブ記が与えてくれるというよりも、
ヨブ記から読み取れるのはヨブの苦難を通して、前述の第3ステージにある
人間が自己の力で自己を救うことは不可能であり、むしろ苦難の中で示されるのは
創造の神の圧倒的な大きさである。
その神の前に砕かれ、人間の思いをはるかに超えた「神の経綸(計画)に、自らを
開くことにおいてのみ、問題の解決に至ることができる。
ということを私達は読み取っていかなければいけないのではないかということを教えられました。
(文責 日本基督教団 原町田教会 教会教育講座担当 信徒 澤野 國雄)
次回は 6月19日(日)旧約聖書6:文学としての旧約聖書、「生と死」 です。