ホームに戻る

バックナンバー2に戻る

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

<一知半解の独り言>
第70回 米(補足付き)
                     平成11年12月1日

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

今年も、もう12月になってしまいました。時間が経つのは早いです。

一部読者さまからの「食い物の話を書いてくれ。」との熱狂的なご要望により何を書こうかなと思ったのですが、それらしいのが思い浮かびません。
まあ、、一応食べ物関係ということで、「米」の話です。

日本には、田が約285万ヘクタ−ルあるそうです。これは耕地面積の約55%だそうです。実際に稲が栽培されている田の面積は、耕地面積の約4割です。残りの田は、米が余るようになったので、政府が1970年から米の生産調整を行い、他の作物が栽培されたりしているそうです。
いずれにしても、日本の農業の中心は米づくりなのです。

基礎知識を中心としてお送りします。
稲は植物体のイネ科の栽培一年草で、その種子がコメです。植えた稲が成長・成熟すると、子実が結実して、穂からもみになります。
もみは収穫期に刈り取られると、脱穀されて、まず、くき葉の「わら」の部分が除かれます。そして、次のもみすりという過程で「玄米」と「もみがら」に仕分けされます。この玄米が、精米されて「精米」と「ぬか」になります。

「精米」は、精白する度合いによって「胚芽米」「五分づき米」「七分づき米」「白米」などの種類になります。精米までの工程で分かれる「わら」や「もみがら」なども生活に役立つ資源に活用されます。

稲(米)の分類は、いろいろあります。
植物生態的違いでいうと、くき葉が長く生い茂り、高温を好む細長い米粒のインディカ(長粒種)、くき葉が長く、くき数の少ない、やや丸型の米粒のジャバニカ(半長粒種)、くきが短く、丸い米粒のジャポニカ(円粒種)などです。でんぷん質組成の違いで分けたのが、糯(もち)米 ・粳(うるち)米です。その他、栽培法によるわけ方、水稲(すいとう)・陸稲(りくとう)とか、成
熟期間の違いのよる分け方、早生種(わせ)・中生種(なかて)・晩生種(お
くて)なんていう分類法もあります。

日本米の起源は、中国の福建米(ふっけんまい)であろうとされています。日本米を肥料をやらずにほっておくと、やや長く色が赤くなります。日本の原始米は、おそらく赤米だったと考えられています。赤長米(つまり福建米)が日本で栽培された時期は、約三千年ほど昔の縄文(じょうもん)時代でした。
少なくとも、今の福井県で栽培されていたことはわかっています。

稲の伝来は、中国の農学者丁頴(ていえい)という人の研究によると、東南中国から台湾、琉球列島を通って、朝鮮海峡圏に入ったものとされています。
日本では、伝来した米が成長すると、豊かになり、文化が高まりました。

ちょうどそのころ大陸の文化や政治が変わることによって、はみ出した人と物とが日本にやってきたのだそうです。米の生産で余裕のできていた日本は、高度な大陸文化が入ってきても、それを受け入れることができ、そして弥生文化の花が開いたといわれているそうです。

日本には、稲作農業が始まった古代から、米を中心とする社会ができました。
米栽培の共同労働、農村共同体、水の管理から生まれた結(ゆい)という共同体などが、日本の社会の基礎ともなっています。米は日本人の心を支えとなり、さらに支配する力を持つものにもなっていきました。

米の大量生産が可能となり、社会的に力を持つ者と持たない者の差が開き、その間の戦いが起きていきました。米の争奮戦は、そのまま日本の歴史となり、農地(領土)のうばい合いをくりかえす時代が続いたのは、なんとなく歴史で習ったような気がします。

勢力争いの歴史は、稲の品種改良を進めることになったのだそうです。農地を広げるために、稲栽培を稲にむかない寒い土地に少しでも広げようと、奈良時代からさかんに東北征伐がくりかえされました。そして奈良時代末から平安初期にかけての東北征伐は、結果的には稲の品種を改良し、農地を広げたという事業にもなったのだそうです。

寒さに強い品種のほかに、いろいろな土地の条件にあう品種が、この時代に開発されて足利時代にはすでに70種類もの品種ができていました。

現在はというと、私が調べた限りを列挙します。
ゆきひかり、きらら397、ゆきまる、むつほまれ、つがるおとめ、むつかおり、あきたこまち、ササニシキ、キヨニシキ、ひとめぼれ、はえぬき、どまんなか、チヨホナミ、初星、キヌヒカリ、月の光、アキニシキ、朝の光、月の光はなの舞い、ゆきの精、新潟早生、フクヒカリ、日本晴、能登ひかり、ほほほの穂、ハナエチゼン、農林22号、トドロキワセ、ながのほまれ、黄金晴、あいちのかおり、ハツシモ、ヤマヒカリ、アスカミノリ、アキツホ、ヒノヒカリ、晴々、コガネマサリ、山田錦、アケボノ、中生新千本、ホウレイ、ヤマヒカリヤマホウシ、ときめき35、松山三井、黄金錦、ナツヒカリ、ミネアサヒ、ツクシホマレ、レイホウ、ユメヒカリ、ヒゴノハナ、ミナミヒカリ、チヨニシキ、台中65号です。

こんなに書かれても読む気がしませんよね。結構面白い名前のお米があるんですね。知らない名前のオンパレードでした。
それにしても、「ほほほの穂」というのは凄いネーミングです。

ここから、“川西さん”の投稿部分です。

『稲作の起源』については“DNA”と“プラントオパール”が解決の2大ツールとなっているとおもいます。
“DNA”によるのは静岡大農学部の佐藤洋一郎氏、“プラントオパール”は宮崎大農学部の藤原宏志氏が一般向けの本を書いています。
こうした先端的な研究によらないものは、現在では古いものとなっています。考古学者の書いたものだと現在の研究段階をよく理解していないものもあります、上記の2氏のものなど“プラントオパール分析”や“DNA分析”を吸収しているものでないと先端的なものにならないとおもいます。

>稲(米)の分類は、いろいろあります。
>植物生態的違いでいうと、くき葉が長く生い茂り、高温を好む細長い米粒のイ
>ンディカ(長粒種)、くき葉が長く、くき数の少ない、やや丸型の米粒のジャ
>バニカ(半長粒種)、くきが短く、丸い米粒のジャポニカ(円粒種)などです。

これはアジアの米oriza sativaの分類ですが、3つの亜種にわけるより違う祖先をもつインディカ、ジャポニカの2つ(種もしくは亜種)にわけ、ジャポニカを温帯ジャポニカ(=ジャパニカ)と熱帯ジャパニカ(=ジャバニカ)にわけているようです。
もっと変わったのは、このような分類は上記のような米粒の長短のような籾型による違いでは判別できず、植物としてのちがい、DNAなど遺伝学的手法などによるようになっています。
インディカは栽培されたのもおそく、とくに東アジアにはいったのは遅く、あまり量も多くありません。ジャポニカを考えればよいようです。

日本の稲作導入の歴史について。
従来、わが国考古学では、おおまかにいうと縄文時代は狩猟採集時代、弥生時代になって稲作がはいってきて農耕時代にはいるとされてきましたが、縄文時代の農耕の証拠がいろいろでてきて、大きく状況がかわりはじめました。

稲作もこの証拠の一つです。
プラントオパール(植物の葉の珪酸質の微化石)分析によって、縄文前期(6000年前)から稲が耕作されていたのが確実となりました。DNA分析の結果はその稲が熱帯ジャポニカが多いということでした。熱帯ジャポニカは陸稲でも水稲でも栽培されるのだそうで、水田の遺構が発見されていないことからも畑作で他の雑穀同様の穀物の1種として栽培(たとえば焼畑)されたものとなるようです。

水田が発見されるのはいまでは縄文晩期(3000年前以降)からで弥生時代(2400年程度前)以前であることは確実です。それ以降弥生中期までに東北北部にまで,稲作は普及する。水稲が一気に普及したの姆姆は陸稲があったからだろうと考えられています。

かつてのように稲作の導入と大陸からの移住者・金属器時代・国家成立にむかう社会の変革というものが一致しているということではなくなったようです。
ジャポニカの原産はかつてアッサム雲南といわれた時代もあったのですが、いまでは中国の揚子江中下流地帯が有力候補となっています。8000年前の浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡で稲作の証拠がでています(博物館になっています、3年前に見にいってきました)

また最古(5・6000年前)の水田遺跡が揚子江下流域でみつかっています(たとえば馬家浜遺跡)現在では野生稲がなくまた育つ気候ではないのですが、かつては温暖であり十分野生稲が存在しえたそうです。

メルマガで書かれた福建省というのは揚子江下流域より野生稲が存在しやすい環境ということでしょうか。
ただ、揚子江下流域の方が、はるかに証拠がそろっているし、福建の開発は揚子江下流より遅いでしょう。いずれにせよ、柳田がいった琉球をとおり南の稲の道が注目されているのですが、立証されていません。というのは琉球の本格的開発は考古学的な証拠では10C以降で、それまでは海岸地帯にしかすんでいません。

なお、稲はつい100年前でも多様なタイプの品種が混在していたのだそうで、赤米もそのなかの一つではないでしょうか、赤米といっても古いものとはかぎらず、もとの品種の来歴などさまざま、インディカ米(唐経由で渡来)のものあるそうです。

バックナンバー2に戻る

ホームに戻る