11/29(土)
このごろ「教える人相手に教える」ことをしたいと思い出した。もちろん, この世に現れて年月の浅い10代の人とものを考えることは続けたいが, どんどん年が離れてゆくのに相手をさせてもらうことはベストなことだろうかと思うこともある。また, 多くの教師とは異なるスタンスで数学を教えてきた者として, 若い教師志望の人などにお話してみたいという気もある。
「異なるスタンス」とはどんなことか簡単に言っておこう。ひとつは, 私は「学校(小学校から高校まで)」が合わないので学校現場ではほとんど教えていない。ふたつ目に, かといって受験教育にも本気にはなれないので,塾予備校等の主流に長くいたこともない。三つ目に, 私の数学観は, 独自開拓中で, およそ常識的な見方からは違って見えるかもしれない。と, 簡単に書くと, エラそうに言いながら実は独善的なだけのインチキ野郎に見えるかもしれないから, こんな私を用心して見なくてはと思ったあなたは, なかなか常識のある社会人だと思う。私はそんなあなたともお話したい。
上の段落を補足すると, 私自身は学校に向かないが, いまの学校の大変な現場で生徒にまっすぐ向き合おうとしておられる先生方には心から敬意を持っているし, 自分の進路のために難しい受験に向かおうとする人を私にできる方法で助力を惜しまずにきたし, その後大いに活躍されている人を何人も見られるのはうれしい。また,独自の数学観というのは, 自分の生まれつきの性向からか向かわざるをえなくなってきただけで, 奇を衒う気はまったくない。私は不勉強者だが, 正統的な学問の尊さを多少なりとも知っているつもりである。
話を戻す。私は「これから教えようと思っている人相手に教えたい」。上の2段落に書いた変なスタンスの人間だからこそ, 他で聞けないアプローチの話ができるかもしれない。具体的には, 私は教育学部の学生だった頃もあるので, 日本の数学教育研究も多少知っている。また, 数学と, 自然科学, 歴史, 芸術などのかかわりにずっと関心を持ち続けてきた。たとえば, 学校や塾で教えながら行き詰まりを感じている方, 不登校生などを相手に仕事している人でもっと数学も教えられたらと思う方, など, いかがですか?
以下は, 「算術サロンの話題から」という題で書いていた。
8/30(土)
これからは, 書きたいことのあるときだけ書くことにします。 いや, もともと書きたければ書くでいいんですが, この2年以上, 算術(数学)サロンのことを知ってもらうために, できるだけ毎月何か書くように自分に課していたのです。
知り合うべき人には知り合うことになるものだ, と思っておきます。私は人づき合いは少なめの方でしょうが, この 5年ほどに知り合った人だけでも, たがいに刺激しあって活動できそうなことが十分あるのに, まだほとんど実現できていない, 今の知りあいだけでも自分には手一杯だと感じます。 その一方で, 新しい人とも知り合いたいのだから, 欲張りなものですが。
6/21(土)
数学は, 編み物に似ている。手順を一歩ずつ着実にたどらないとどこへも行き着けないようなところが。 編み物で, たとえば帽子を作ろうと思ったら, こんな形のがいいなとイメージするだけでなく, その形を現実化するための手順を知り, 飛ばさずに一編みずつ編んでいくことを楽しめる人が好きになりそうな気がする。(私は編み物はしたことないが) 何となくのイメージだけで, 毛糸をちゃんと絡ませずに進めても仕上がるわけはない。 山登りにも似たところがある。頂上を思いながらも, まわりの景色もながめながら今の一歩を楽しめるといいと思う。数学の計算や推論過程も, 編み物や山登りに似たところがある。過程を楽しめる人にとっては, はじめ登るつもりだった頂上ではなくて, もっとおもしろそうな道を見つけたらそっちに進んでもよい。
5/17の文章に書いた2種類の時間, 「積み上げてゆく時間」と「ふと起こる時(とき)」で言うと, 上に書いたのは, 「積み上げてゆく時間」のつもりで書き始めたのだが, 気分が本当に過程に入りこんでしまうと「時間がたつのも忘れる」から, 「時間」そのものが消えてゆく。そんなときに「ふとわかる」こともあるかもしれない。
こんなことを書いてしまうのは, 仕事でつきあう10代の人の学習では, いつも受験という制限時間が頭を抑えている部分があり, 「気分が過程に入りこむ」経験が弱いように見える人が少なくないからだろう。勉強でなくても何かひとつのことで「気分が過程に入りこんでしまう」経験があれば, 見えてくることだと思うが。
5/17(土)
これからは, その日の算術サロンで実際に出た話しにはこだわらずに書くことにする。
数学に限らず, 「あー, そういうことだったか」とわかる瞬間というのは, 不意打ちのように訪れることである。決して, 予定通りの計画通りの時間にわかることではない。もちろん, 何かがわかるには, それがわかるのに必要な前提となる理解がいるが, いくら前提知識や前提理解を積み上げても, 次の理解が流れ作業のように決まった時刻に起こるわけではない。前提理解のうえでわかろうとしても, 「ふと」わかるの「ふと」の瞬間は, 流れ作業的な時間経過とは何か違う。ちょうど, 自転車にはじめて乗れた瞬間とかに似ている。「わかる」でも「できる」でも, コツを会得する瞬間というのは, 「ふと」起こるような性質があるのだ。
時間には 2種類ある。努力や作業を「積み上げてゆく時間」と会得が「ふと起こる時(とき)」。この2種類は, たがいに反目しあっているものではなく, 2種類の時間を行ったり来たりすることで, より実り豊かな結果を生むのだろう。ただし, 2種類の一方の不足を, 他方ですっかり補えるようなことはない。「ふとわかる」のを待っていられないからといって, すべての理解を予定時間通りに可能にするような完全マニュアル(手順)はない。逆に, 手順を必要とすることを, 直観的な発見だけですっかり代用することもできないだろう。
数学の受験問題でも, 工夫された問題には, 解答方針を立てるのに, ちょっとした工夫や発見が必要なことが多い。この「工夫や発見」の過程は,「ふと起こる時(とき)」の流れに属する。いくら試験時間が限られているからといって, 100%確実に「発見」する「方法」はない。「発見」とは, その本性からして, 「方法」という手順的なものではない。ちょっとした発見であっても, 1分で起こるかもしれないし, 1時間かかるかもしれないし, 1年かかるかもしれない。「発見」までの時間など, 誰もスケジュール化できない。時間内に確実にできる問題というのは, 解答者がすでに解法を知っているという意味で, その解答者にとって「手順化, 方法化」された問題だったということである。
そこで, 試験時間が限られた入試に合格したい受験生は, あらゆる数学問題の解法を「手順化, 方法化」しようとして, 「完全な手順, 方法」を示すと宣伝する受験参考書や予備校講師を探そうとする。「完全な手順, 方法」が受験勉強という限定された範囲でならばあるのかどうか, 私はここで考えるつもりはない。今, この文章で触れたいのは, 2種類の時間の流れ -- 「積み上げられてゆく時間」と「ふと起こる時」-- についてである。受験勉強において, 本来, 一方を他方に還元できないような 2種類の時間を, 無理やり一方だけで済まそうとさせる強制力が働きやすい。すなわち, 「ふと起こる時」を待たずに犠牲にして, 「積み上げられてゆく時間」の効率化だけを図ろうとするようになりやすい。このことは, 数学という「発見の喜び」が原動力となって発展してきた文化にとって, 実に悲しいことである。
上記では, 受験勉強=「手順化, 方法化」と決め付けたが, もちろん, これは話の提示をわかりやすくするための単純化である。実際の受験で うまくいく人には, 実は, 上の 2種類の時間のバランスがとれている人が, 意外に多い。
4/19(土)
最近来てくださるお二人とも, 何かわかると, とても素直に感心したりおもしろがるところがあり, 話す方としても楽しい。もし, 私が高校生に教えるとして, こんな反応のある人たちばかりなら, どんなに授業がしやすいだろうかと思う。実際の10代後半くらいの人たちはまったく様々で, ひどく無反応な人も少なくない。中学高校時代は, 勉強を最も「勉め強いられる」気分になる人が多いから, 「させられるものはいやになる」という自然の理により, 勉強に嫌気がさすのは無理ない。逆に, 学校を離れ仕事に就いてから, 20代半ば頃から, いろんな学問や知識に興味を持ち出す人は意外に多い。学ぶことへの魅力というのは, 学校時代や受験勉強でどれほどの目にあってもすっかり押しつぶされることはなかなかないらしい。
10代後半から20才過ぎの人で学ぶことに気が向かないように見える人が多いことには, 別の理由もあるだろう。それは, 他人からは見えにくい心の内のからまりで, 具体的には個々それぞれだろう。
理由はともあれ学ぶことに無関心に見える人に対しては, 最低限, 学ぶことを「ひどく嫌い」にならない環境が保たれればよいと思う。ここで言う「ひどく嫌い」とは, その人の個性による好き嫌いではなく, 強制や強迫観念で生じた嫌悪や屈折を指して言った。「ひどく嫌い」にさえならなければ, 人はその気になったとき学びたいことを学び始められる。「ひどく嫌い」になると, そこから解放されるには少々時間がかかる。
2008年3月15日(土)
今日は来てくれたお二人とも, 今の仕事から別の進路に向けた学習をされている。一見, 地味なお勉強モードだが, こういう人たちのための場を作れることは意味がある。しばらく, こんな感じが続くかもしれない。もちろん, 全然別の興味から来てくださる方も歓迎。
2008年2月16日(土)
来てくれた人の話しのおかげで知ることはいつも多い。億兆京などの大きな数の話になったとき,百万円の札束の厚みが約 1cmだと聞いた。ということは, 1万円札1枚の厚みは1cmの1/100=約0.1mmで, これはコピー用紙などもそれくらいのはずで, 万札も普通の紙と同じということ。1億円だと厚さ 1m, 1兆円だと1万m=10km, 1京円だと10万kmで地球を2まわり半。1億円を畳1枚の下に敷き詰めて隠すと, その畳は8mmほど持ち上がることになる。(畳1枚に万札を11×11=121枚敷いて重ねてゆくとして計算した) まわりの畳より微妙に盛り上がっていてつまづきやすい畳を見つけたら怪しむべきである。また, 百万円の万札を帯で束ねたものから1枚でも抜くと, 他のお札も抜けやすくなるので, 100枚そろっているかどうかはそのことでわかるそうだ。
逆に小さい長さの話になり, 分子レベルの長さの単位にナノメートルというのが使われる。大きいほうから順にたどると, 1メートルの千分の一が 1ミリメートル, 1ミリメートルの千分の一が 1マイクロメートル, 1マイクロメートルの千分の一が 1ナノメートルで, 結局, 1ナノメートルは十億分の一メートル。
フラーレン60という炭素原子60個で組み立てられた分子が20年ほど前発見されたが, その組み立て構造は, サッカーボールの模様の六角と五角の辺が作る構造と同じだった。(発見者たちはノーベル賞をもらったそう) そのフラーレン60が, 肌のシミやシワの原因となる活性酸素を取りこむ働きがあるため, 最近は化粧品に入れられている, と, 化粧品の勉強をしている人に今日聞いた。蹴られてグラウンドを飛び跳ねているボールと同じ形が, 人肌の表面で活躍しているらしい。世界は不思議なつながり方をしている。
2008年1月19日(土)
左は私が今年の年賀状にプリントした「ねずみ算の絵」。江戸時代初期の数学啓蒙書「塵劫記」からスキャンした。 なぜ, こんなにでかでかと載せたかというと, 「塵劫記」の和綴じ本にある絵の大きさを見てほしかったから。和綴じ本の元絵は, 左の画面が横7cm縦20cmくらいで, 皆さんのパソコンのディスプレイでも, それほど違わずに見えるだろうか。絵の上の父と母から, 正月に12匹の子ねずみが生まれ, 合計7倍になる。2月以降も毎月7倍づつ増えてゆく, という意味の話と計算した数がこの絵の後に続く。
絵の大きいことと, 1匹1匹皆違う姿勢を描く念の入れ方が気に入っている。「さし絵」というような慎ましい大きさではない。
同じ塵劫記から, もっと場所をとった絵をお見せする。
木のながさをはなかみにて積る事
絵は3ページに渡るから, 2ページを見開きにしても一目では見られない。ページをめくりながら松を眺めた後で, 松の高さの計り方の説明を読む。先日, 友人宅で, 平氏物語だったか, 見事な絵巻物を紹介した本を見たが, 塵劫記の絵+文章のスタイルも絵巻物のセンスをどこかで受け継いでいるんだろうか ? もちろん, 塵劫記は数学の本だから, 全体としては文章の方が多いが, 絵が出てくるときは堂々と絵が続くのである。この感じは, 文庫本になった塵劫記(岩波)では味わえず, 復刻された和綴じ本を見る必要がある。(大阪教育図書「塵劫記 上・中・下」)
吉田光由 著「塵劫記」(初版 寛永4年)は, 江戸時代に版を重ねたベストセラーで, 日本人の数学力を底上げし, 明治の日本人の西洋文明吸収力の大きさの遠因のひとつだろうと思う。
12月8日(土)
参加者が進めている学習の合間に, 私が近頃調べている「魔除けの形 , えんがちょ」の話をし, 何か知っていること, 経験したことはないかと聞いてみる。
ペンタグラム(五ぼう星, 一筆書きの星型)は, 古くから東洋でも西洋でも使われてきた魔除けだが, あの形は, 閉じた交差線が生み出す強い「閉じ込め力」を人に感じさせるのだろう。また, 対称性の美しさもある。数学的には「正五角形の対角線の集合」といえば済む簡潔な図形だが, 人はどんなに単純な図形にも, 感覚, 感情, 想像, 記憶, 無意識の働きから生じる「像, image」を見出す。我々が見る世界はすべて, 認識, 感覚, 感情, 無意識から生じるそれぞれの「相」が重層的に現れたものである。ちょうど, 景色を眺める目の焦点を遠景に合わせるか近景に合わせるかで景色が変わって見えるように, 我々が見る対象は, 我々の心の焦点が, 科学的か, 現実的か, 感覚的か, 情緒的か, 無意識的かで, 異なる相を現す。同時に, これら異なる相は, たがいに無関係でもなく, たがいに関連付けられ発展し「その対象にまつわる文化」を生む。
ただの, ○や×にも, 長い歴史が作ってきた物語を見出すことができるだろう。×は古代から呪符に使われたそうだが, 今のテスト採点で正解○間違い×と使われるようになったのはいつからで, どんな意味からなんだろう。また, 「正解○間違い×」は日本の習慣で, 欧米では正解にチェックを入れるだけと聞いたことがあるが, 実際はどうなんだろう。誰か教えてください。
この辺の関心から最近見つけた本を2冊ご紹介。
11月17日(土)
仕事をしながら高卒認定試験をめざし, あと数学だけという人(20代女性)が来てくださった。この算術サロンをふくむ羽二生塾は, たとえば, こういう人のために始めた。社会人が数学1教科だけを手ごろな料金でマイペースで学べる場所というのは, ほとんどない気がする。今, Googleで「社会人, 数学, 塾」で検索してみると 267000件もヒットしたが, この「羽二生塾」が 4番目に出てくる。検索の1番に出てくる塾は,私の知人が東京で開いておられるユニークな私塾で,この広いネットの海原で知人と顔合わせしてしまう。これはどういうことか ? 「社会人にも数学を教えることを主要な仕事とするつもりの塾」, そんな考えを持つ人はもともと非常に少ないので, 縁あってすでに知り合いになっていた, ということか ?
10月20日(土)
来てくれた人が, アニメ制作のための安いソフトや, 最近ネットで流行っているモノなどの話をしてくれる。私は相変わらずパソコン世界の流行に興味はないが, ネット環境で活動するには, 流行を何も知らないわけにはいかないし, 聞いてみるとそれなりに面白い。
でも, 今のハヤリより調べたくなるのは, 何事でも, 百年, 千年, 万年前の「そのことのはじまり」の方である。アニメーションということで言えば, 1830年頃の, 複数の静止画を動かしているのをスリットを通して見ると絵が動いて見えるという発見がはじまりである。現在の映画やアニメーションの原理の発見は, 1830年代頃の一連の過程としてあり, それについては, 動く絵のおもちゃの歴史で, イラストつきのやさしい説明を書いてくれている。
4年前, 映画の素人同士で, 「動いているフィルムの後ろから光を当てているだけで, どうしてスクリーンに映像がぶれないで映るのか? フィルムの1コマ1コマの間の線とかが見えないのはなぜか?」と, 話していたことがある。その数日後, 私は昔映画つくりをしていた知人に聞いて, ようやく, 「フィルムの各コマが定位置に来た瞬間だけ後ろから光が当たるような仕掛けになっている」「もし, 流れていくフィルムに光を当て続けていたら, 当然何も見えなくなる」ということを知った。この「コマの動きと光あての同期」ということこそ, 映画とアニメーションの原理発明の決定的段階だったろう。1832年, ベルギーの物理学者プラトーによるフェナキスティスコープの発明がこの段階に当たる。プラトーの発明では, 動く絵と, それをのぞく細いスリットの動きの同期で実現されている。
ところで, このプラトーという物理学者について調べると, 偉い ! とこのごろ思っているので, 少し書こう。1801年ベルギーのブリュッセル生まれのジョゼフ・アントイネ・フェルディナンド・プラトーは,10代で父母に死なれ, 妹2人とともに叔父に育てられた。絵の才能があった父の勧めでアート系の学校に行き, それから, 叔父が法律家だったためか法律の勉強もしたが, 一貫して最も関心を持っていたのは物理や数学で, 物理実験を人前で見せて楽しませたりしていた。妹の面倒もみて, 数学を教える仕事などしながら, 物理の研究を進め, 20代終わりには光と視覚についての研究で注目されるようになった。1829年には, 実験で, 太陽を目で直接25秒間ほども見てしまい数日間視覚不調に陥った。1843年には, 失明し, 本人は1829年の太陽直視を原因と考えていたらしく, 一般にも「科学の殉教者プラトー」のイメージが作られていったが, 実は, 最近の医学的見地から見ると, 1843年の失明は慢性的なブドウ膜炎(目の病気)によるもので, 以前の太陽直視は関係ないと言う。
それはともかく, プラトーは失明後も, 妻, 子ども, 同僚の助けで, 実験を続け研究を続け本を書いている。1883年死去。彼の性格について, Grosjean と Rassias は次のように書いている。
He had a vivid and humorous character, his memory seldom let him down, and in contrast to most people, it became prodigious as he grew older. He was fond of visiting scholars and liked to welcome them at his home. ... he reached old age, bodily and mentally in excellent state, exception made for his blindness.
(Joseph Plateau and his works, in The problem of Plateau)
生き生きとしてユーモアがあり, 失明にも老齢にもかかわらず, 体も精神も excellent であったと。
プラトーの仕事が現代にまで及ぼしている影響は大雑把に二面ある。ひとつは, 前述の通り, フェナキスティスコープの発明で, 現在の映画アニメーションの原理開拓に決定的な貢献をしたこと。
ところで, ネットを調べていて知ったのだが, 最近モルフォビジョンという映像装置が開発されており, 回転物体にコントロールされた光を当てることで, 物体がグニャっとゆがんで見えたりする。この現象と原理的に関係することを, プラトーは1830年頃すでに調べていたらしい。こんなことがあるから, 「はじまり」を調べることが「新しいこと」につながっている。また, 私も前から気づいていた現象なのだが, 光っているブラウン管の前で棒を振ると棒がグニャっと折れ曲がって見える。これも, モルフォビジョンの原理と似たような現象だろうと思う。
プラトーが大きく影響しているもう一面は, 「石鹸膜の研究」である。膜や泡はこれから大いに注目される現象のはずである。また, プラトーが石鹸膜の実験結果から得た結論は, その数学的証明を与えようとする数学者にとって有名な難問となった。そのひとつ「プラトー問題」は1930年頃解決され, 別の結論「プラトーの法則」は1973年に証明された。つまり, プラトーは, 数学者に, ざっと100年かかった宿題を与えて, 20世紀の数学研究を刺激し続けた。
参考WEBページ。
Joseph Plateau
Joseph Plateau 伝記
初期太陽観察者の目の傷害
9月15日(土)
昔のインドや中国の数学に興味があるというMさんに, 古代の数学の話などをした。4500年以上前にピラミッドを建造した古代 エジプト人は, 確かにその当時の世界で一流の数学知識を持っていたろう。正確な直角を描くために, 3辺の比が 3 : 4 : 5 の三角形を縄を引っ張って作れば, 3と4の辺の間に直角ができる。エジプト人はこれくらいのことは知っていたろう。
しかし, 国家や文字を作り出した当時の先進文明, メソポタミアやエジプト, ばかりを賢かったと思っては見誤る。これら先進文明のあるユーラシア大陸から海を渡った東の辺境, 縄文時代の日本, 青森の三内丸山遺跡には, やぐらの柱を建てた穴が直角な位置関係に開けられている。この直角はどうやって作られたんだろう。この辺のことを推測できる人, 誰か教えてください。もしかして, 青森の縄文人も 3 : 4 : 5 のことを知っていたんだろうか ? あるいは, それほど正確な直角ではないのだろうか ? かりにそうだとしても, 縄文人が「直角」ということを知っておりそれをめざしていたには違いあるまい。ところで, 現代人は, 建物でも何でも四角いから, 直角を当たり前に思っているが, 大昔の自然に囲まれた人類を思い浮かべると, 「直角」というのは, 人類にとって, ある時期になされた大発見だったに違いない。「直角」が現れるとは相当に文明的だと感じられる。
他方, ユーラシア大陸をはさんで西の辺境, 今のイギリスには, ストーンヘンジのような巨石文化や, スコットランドの石玉が残されている。この石玉というのは, 多面体状の人工物としては世界最古といわれる。縄文やイギリスの遺跡遺物は, いずれもざっと今から2, 3千年から4, 5千年前の時代で, エジプトのピラミッドと並行しうる時代である。すごくアバウトな年代でものを言っているが, 気になる人はくわしく調べてください。縄文文化や古代のイギリスには, 古代エジプトにくらべれば人口と知識の集積が少ないから, ピラミッドみたいなどでかく目立つものはものは作れなかったろうが, キラリと光る工夫や技では負けていない気がする。文明は, 普通, 先進地から辺境に向かって伝わったとされるが, 辺境と思われている土地だって発信地だったかもしれない。
もうひとつ, 「現代 -- 古代」の賢さくらべについて。昔の人のほうが, 少ない知識と情報でも何かに専心して考えられたから, 見事な工夫で物を作れたのではないか ? だいたいこんなことをMさんがおっしゃり, 大いにうなづける点がある気がした。ピラミッドをはじめ古代遺跡には, どうやって作ったか不思議な事が多いが, 現代人のように知識と情報の過多ですきまの作りにくい頭で考えるのと違い, 古代人は限られた知識だからこそ, 目前の事物と状況にじっくり取り組み, 見事な工夫と解決を編み出せたことがあるかもしれない。
この話で思い出したのは, 1年位前たまたま見たテレビで, 庭師の人が語っていたこと。石や木の配置で庭を造るのだが, 途中段階の記録のためだったか(? うろ覚え), 弟子が写真を撮ってくれると言う。しかし, 写真でなく, 目に焼き付けるように覚える方がよいかもしれない, というようなことをその庭師さんがおっしゃる。それに対して対談相手の脳科学者さんが同意して, 覚えたものは脳の中で生きてるように変化してゆけるから写真と違う, というようなことをおっしゃった。きっと, 目で覚えたイメージは, 人間というなま物に吸収され, 他の知識イメージと一緒に置かれるうちに, 熟成され, 思いがけないつながりで発展したりしてゆく。ところが, 写真として外部に放置された情報を, あれはどうなってたっけと思った時に探し出して初めて見ても, その写真情報は「熟成発酵」の時間を経過していない。そんな風な気がする。
あるいは皆さんにもこんなことはないだろうか。気になって考えていることは, 何時間, 何日間, あるいは何週間もの間, 「あたためて」いるうちに, ふっと, 解決の糸口が見つかるようなことが。 考えていることは,生き物の中で熟成しているのかもしれない。
結局, 取り入れられる情報が多くなっても, 人間の素質は 1万年前も現代もそう変わらないだろうから, 「全体としての生き物としての賢さ」は, そう変わらず, かえってバランスよく維持するのが難しくなっているかもしれない。
7月21日(土)
独自の音楽活動をされているH氏が来られて話し合う。作品の形態を支える構造性のモデルとして, 数学者カントールが提起した連続体問題などに興味を感じているそう。話し合ううちに, アート作品の形態性と構造性という問題が, あらためて浮かび上がる。
音楽でも造形でも映像でも, 作品制作のための新しい方法や技術を築いてゆこうとする人は, 実際の形や音をどうするかということの前に, 方法や技術を支えるための「神話的な」レベルの何かを求めるようになることも多いと思う。「神話的な」レベルと言ったのは, 具体的な音や形や物語設定などを生み出す元となるような原理的イメージや構造性を指したいのだが, それは神々の物語のような形をとることもあるだろう。それは, 昔の人なら, その人が生きる支えとした信仰と一体化した神話そのままのこともあったろうが, 現代人なら, 架空の神々の世界のことも多いようだ。また, そのような「神話的」レベルに構造性を強く求めて, 数学に惹かれる人も少なくない。試験に追われた環境での数学しか知らなかった人でも,おとなになってから本来の数学が持つチャーミングで宇宙的な表情に気づき惹かれるようになる人は,アート方面の人にも多い。
「神話的」レベルには, 構造性を求める方向と別に, 直観や神がかりを求める行きかたもある。どっちにしろ, 何か作りだしたい個人が, 素朴な日常感覚や感情だけによらず, 他人や宇宙と交わるための足場として「神話的」レベルを求めるのだろう。
6月16日(土)
5月19日(土)
油絵を描き始めたF君(高校3年生)が遊びに来てくれ, Hさんと私が彼のスケッチを見ながら絵の構想を聞く会となった。F君は, 小さい頃から絵が好きだったが, 最近画家の Tさんの話に刺激されて, キャンバスと油絵の具をそろえ, 誰に習いもせず, 俄然描きはじめた。そして, 今日, 彼は語った。夢に見た興味深い情景。音楽に刺激されて展開するイメージや物語。そこには, どこかで見たようなイメージの受け売りではない, 彼オリジナルのものがある。そのイメージと物語りは形に現われたがっているから, 彼はその形を絵にしてゆく他ないだろう。
4月21日(土)
以前, 私が教えていた人が来てくれた。前に会ったのはこのパルルで 4年前。お仕事で多少数学と関係することがあり, 指数と対数について聞きたいとのこと。
中学高校の数学が, お勉強としてでなく気になってくるのは, 10代の時ではなく, 20代以降に仕事の中でのことかもしれない。そんな時は単発の質問でもよいから聞きに来てください。
対数 --- log 何とかと書くやつ --- というのも, 理科系の人以外には, 一体何のためにあるかと思っている人が多いと思う。今から400年ほど前の対数の発明は, 天文学者の計算力を桁違いに増大させ, それは遠洋航海技術にも関係があり, 航海で世界がひとつにつながった近代を支える知的技術の一環であった。今は小学校で習うヨーロッパ生まれの小数記法も, 対数の発明の少し前で, どちらも計算力の飛躍を意味した。 小数, 対数, 微分積分, 級数, これらはすべて, 近代の技術力を数学計算力の面から支えていた。これは今, コンピューターによる計算力革命が新しい技術を支え生み出していることに匹敵する。
数学や科学はこんな風に歴史の展開を, 技術面から後押ししてるのだが, 学校で習う歴史にはこの観点は弱い。社会の先生がこうした観点を軽視しているわけではないだろうが, 理数系と人文社会系の学問分業の結果だろう。
参考 : 対数の誕生を技術の歴史と関連させて述べた本として,
志賀浩二「対数の大航海」日本評論社。
3月17日(土)
出された話題からひとつだけ書いておきます。
音楽や踊りのリズムというのはどんな風に生まれたのかについて。4拍子や3拍子などの拍節リズム, もっと複雑なリズムパタンでも, 今の時代には, コンピューターで正確に打ち出すことができて音楽製作にも使われているのでしょう。ところが, 「正確なリズム」というのがあるべきで, 人間の演奏もそれに限りなく近づけるべきだ, と思えてきてしまい苦しかったという人がいます。これは, 極端に言えば, 「数学的正確さ」が「リズム」を作るべきだ, という見方です。
私は, どちらかというと, これとまったく逆に, 人間の行為がリズムを生み, そこにおのずと数学的な規則が生まれることもある, と考えてます。「呼吸のリズム」で歌われる音楽があります。たとえば, 日本の民謡の追分や馬子歌は, 2拍子や4拍子のような周期的な拍節リズムはなく, メロディーの1フレーズを歌う人の息の長さまで伸ばして, また次のフレーズを息の長さで, という具合です。拍節リズムがなく「呼吸のリズム(リズムという言葉が適当かどうかわからないが)」だけの音楽は, 世界中の声や楽器の音楽にあります。ソロで演奏される音楽がほとんどだと思います。ソロならその人の息の長さで伸び伸びと歌う方が気持ちいいですからね。1フレーズごとに長さを決められるなんて, 必要ないし, 余計なお世話です。
ひとりひとり違う長さの息のはずですが, おもしろいことは, 複数の人が一緒に踊ると, 息継ぎがそろってくると, 聞いたことがあります。私は, 注意して見たことはありませんが, 複数の人が, 体を使って共同作業するとき, ここ, というときは息がそろってくる, というのは, とてもありそうです。「息が合う」という言葉通り。呼吸の例からそれますが, 東南アジアの方だったか, ある種のホタルは, 群れ全体で光の点滅を一緒にする, と聞きます。 そのメカニズムは知りませんが, 生き物というのは「同期」しやすいのだ, と思います。
この「同期」ということが, 狭い意味でのリズム, 拍節的なリズムの生成にも, 深く関係してるでしょう。そして, 生き物の習いとして同期しやすいということこそ, コンピューターの作り出す音楽にはまねしにくいでしょう。最初のプログラミングでずれるように作れば, 融通の利かないコンピューターはひたすらずれたままの音を出すわけで, 「気が合ってきたから音をあわせる」なんてしません。「生き物の活動の同期」の結果のひとつが, 世界中の民族音楽などにも聞かれる, 複雑だが見事なリズムパタンなのかもしれません。
2月17日(土)
算術サロンに来てくださったら, 何でもいいから何かひとつ疑問なことや考えたいことを出してくれれば, そこから一緒に考えたり, 話しをふくらませいけます。小さなことでいいのです。でも, 初めて見える方には, そう言っても出てこないこともあるので, こちらから思いつくことをいろいろ話すことになります。ここに書くことも, 何かのきっかけになるかと思って書くだけで, 今までも当日は別の話しになることの方が多かったくらいです。
そのくらいのつもりで書くのですが, よく素朴な疑問として出されることに, 高校数学で習う「虚数って何だ?」というのがあります。英語で imaginary number (想像上の数)というくらいだから, もともと本当の数とは思われてなかったわけで, 数学者が問題解決の技術上の道具として使い始めたのが, そのうち理論上の重要さから堂々と本物の数と認識されるようになった, ということでしょう。不勉強な私でも話せることはお話しますが, 「ウソの数から本当の数へ昇進」という流れは, 0 や負の数も似たようなものだったと思います。というぐあいに,私はすぐやさしい話に置き換えて考え始めようとするくせがあります。なぜか, 私は, 単純で地味な話しを好む所があって, 高級な数学にあこがれる人の期待を裏切るのですが, 人にはその人の役回りというものがあるので仕方ないでしょう。
で, そう開き直って, 申し上げるならば, 虚数が不思議だというならば, 何にもない 0 だって, それを下回るマイナスの数だって不思議です。不思議さというのは感受性の問題なので, 高級そうな話題でないと不思議になれないわけではありません。UFOやら幽霊の話題は確かに不思議でしょうが, 目の前にあるただのコップの水が不可思議な物に感じられてきたりすることがあります。
それはともかく「虚数って何だ?」という疑問にもつきあいますので, 聞きたい人はどうぞ。
2007年1月20日
特に予定なし。
12月16日(土) 「パズルアート」をめざしてパズルを源流から見る。
頭を刺激する嗜好品としてパズルやクイズがはやっているようだが, 似たようなものを消費し続けるだけでなく, 新しいセンスのパズルを作ってみたい。 たとえば, 知的な満足だけでなく, できあがりが鑑賞に堪えるような絵や図形になるとか。この観点から注目すべきパズルに「ののぐらむ」がある。方眼紙の桝目を条件を満たすようにぬってゆくと模様が浮かび上がるパズルで, 同様のパズルは今はたくさん見かける。が,
この種のパズルの発案者の一人, いしだのん氏が作ったパズルは, できあがりの絵が美しい。他の同種のパズルのできあがりが, どこかの絵や写真から取ってきたようなものがほとんどなのに対して, いしだのんさんの作品は, 桝目でできる形であることも考慮の上, 手間ひまをかけて一作ずつオリジナルの形を作っておられると見える。ののぐらむについては→ののぐらむのお部屋 など。
パズルひとつとっても, 雑誌が売れるように粗製濫造し解く方もそれを消費するだけなのか, 職人技のようにていねいに作られたパズルをじっくり解いて玩味するか。文化の質が現れる。
さて, そんな思いの上で, 私なりにパズルについて考えようとすると, まず, パズルの源流を見ておこう, となる。パズルにも歴史があり, ある時代に原点となるアイディアがひとつ生まれると, その変形と発展で他が続いてゆく。たとえば, 魔方陣と呼ばれるパズルは, 2000年以上前の中国で知られていたようだが, 全世界にそのバリエーションの歴史がある。最近よく見かける「数独」というパズルも魔方陣の傍流のひとつだろう。
そんな風に, 歴史を一瞥した上で, 私が探りたくなる可能性は「アート性」である。 私はパズルを解くことそのものよりも, できあがってくる形をボーッと眺めている方が好きなのだ。アート志向である。そこで「パズルアート」なる語が思い浮かんだのだが, まだその実体は具体化していない。
とりあえず, 12/16(土)は, オイラー方陣など魔方陣の作り方としてよく知られていることなど話そうと思う。
11月18日(土) 特に予定なし
前回は, 初参加の方も3名見え, 香の聞き分けを試み, 香りに身を浸せたひとときでした。
10月21日(土) 香を焚きながら源氏香と神楽舞の話しなど(2時頃から1時間あまり)
日本の古い芸道や舞踊にも, 数学的と言ってよいほどシステマティックな構造が見られることがある。いくつかの例で話してみる。
(1)源氏香は, 香道において, 香の種類をあてる競技形式の遊びの一種で, 江戸時代に確立されたらしい。ランダムに選んだ香を5個続けて聞き(かぐことを「聞く」という), 何番目と何番目が同じ香だったかを当てるのだが, その答えの図示形式が「源氏香の図」と呼ばれる。源氏香の図は, 答えの全パタン52種を, まったく論理的な形式で表示するとともに, 源氏物語全54帖の内の52帖の名前に対応させられており, すぐれたデザインとして現代まで各所で用いられている。このきわめてシステマティックなデザインが日本人に好まれてきた理由は何なのだろう。
沈香(じんこう)や白檀(びゃくだん sandal wood)の香を数種類用意したので, 香りを聞きながら, 話しを進めたい。(伝統ある香道で使う香や作法で行うわけではない)
参考 香の話 の下方に「源氏香」。続いて源氏香之図(1) (2) (3)
香道については 志野流香道松隠会 など。
また, 17世紀の日本とヨーロッパの文化に見る不思議な呼応にも触れたい。17世紀の数学をリードした和算とヨーロッパ数学, 歌舞伎, 文楽とオペラ, 筝曲六段と変奏曲形式ディファレンシア, など。
(2)神楽のシンメトリカルな舞。正方形の舞殿で舞われる動作がすべて, 右回りと左回り, 左手左足と右手右足, 内と外, 5方角(東西南北と中央)について公平に 行われつづける。そんなシステマティックな神楽舞について読んだことがあるが, そのような性質は神楽舞では何も珍しいことではないそうだ。
9月16日(土) 予定・・・というより近頃思ったこと
これを書いているのは9月9日(土)なのだが, 先ほど, 棒にオモリをつけてバランスをとる, つまり天秤の単純な実験を試したのだが, こんな単純なことにけっこう感動した。
天秤は2種類試作し, 一つは, 100円ショップに売っていた「竹あみ針No.10」という30cmくらいの竹の棒で, これにほぼピッタリ5円玉の穴がはまる。竹棒の真ん中を糸でつるし, 5円玉を, たとえば, 糸の左側に1個, 右側に2個はめてバランスがとれる位置を探す。すると左右の5円玉と糸までの距離が正確に 2 : 1 となる。バランスがとれたまま棒を回転させることもできる。
もう1種類は家にあった直径4.5mmのストローと50円玉で, 同様のことができた。
オモリの, 重さの比と支点からの距離の比が, 逆順の数で表わされる, ということは中学くらいの理科の教科書にもあったはずだ。 ところで, 実際に, 5円玉の位置を指で細かくずらしながらバランスを見つけ, ながめ, 軽く棒をつついて回転させたりして, また, ながめ, 2:1などの距離の比を目測し, ながめ, ついでにモノサシで測ってみてかなり正確な比であることを知り驚き, それからまた, 棒と5円玉のバランスをながめる。ため息をつく。感じ入ってしまう。
この感想は, 理科の学習や科学的な研究の文脈とは方向が違う。私は, 理科の知識も知りつつ, 天秤のバランスという現象を「鑑賞」している。そして, 科学知識としては非常に単純な形式にすぎない現象であるのに, 感興を覚える。むしろ, 形式の単純さゆえに, 感興は純化される。すぐ前に, 「この感想は, 理科の学習や科学的な研究の文脈とは方向が違う」と書いたが, 「鑑賞」など意図しない純粋の科学者も, 実は, 科学があつかう現象に, 不意に「鑑賞」の瞬間に出会ったり, 無意識的に「感興」を受けていることが多いはずである。芸術的意識と科学的意識は, 目的と方向性が異なるから分業しているが, 意識全体の中では共存しており, 一方が意識の前景にあると, 他方は意識の後景に退き, 時とともに前景後景の役割を入れ替えてゆく。そう私は考える。
8月19日(土) 予定
【追加】 私が近頃試し始めた工作は, ・・・・・ (1) コマ, 独楽, です. 金属のピンと厚紙だけでも 1分半ほど回るんですね.CDの丸い板とビー玉で作ると2分回りました.(2)「動く絵のオモチャ」.19世紀に板や筒とスリット(細長いのぞき穴)だけを利用した「動く絵のおもちゃ」が各種発明されました.これらから映画やアニメーションに進化したわけです.その1種にゾートロープというのがあって, 筒を回転させるのに平たいコマがいる, それでコマも作りたくなったのです.参考→動く絵のおもちゃの歴史
(1)(2)ともほんの試しはじめですが, 興味のある人いっしょに作りませんか.
「ピッタリ重なること」 ここから少し下↓7/15の文章にも書きましたが, 背の高さを比べるには, 並んで立って頭の先をくらべればわかります。2人の体つきや顔はどうでもよく, 足の立つ高さが同じで, もし頭の先さえピッタリ同じ高さならば, 身長は等しいとわかります。イスの数と人の数ならば, 坐ってみて, もし, 人もイスも余らなければ同じ数です。人ひとりにイス1脚を対応させていって過不足なければ同数なわけです。どちらの場合も「ピッタリ合う」ことで, 同じだと判断しています。 紙でできた2つの形がもし, ピッタリ重ねられるならば, その2つの形は「合同」だと言っています。昔から数学のメインの対象だった「数と形」は, どちらも「ピッタリ重なる」ことを元に認識されて, 数学が作られてきたと思います。 左右対称というのは, 人の顔の右目と左目, 右耳と左耳みたいに, 同じ形が左右に「もし折り返せたらピッタリ重なる」位置にあることを言います。何十万年も前の石器にも, 左右対称を意識したと思われる形があるそうなので, 「対称」ということも, 非常に古い認識だと思います。数学に限らず, 「同じ」あるいは「ピッタリ合う」ということは人の根本的な認識方法なのでしょう。この観点からもっとおもしろいことが見えてこないかと近頃思っています。
7月15日(土)の予定。「工作などしててもいいです」「数学」とは「数」の「学」と書くくらいなので, 数を計算したりいじっていないと「数学をやっている」と言えないように思われそうです。しかし, 数をいじっていなくても「数学」と言ってよいことはたくさんあると思います。たとえば, 部屋に人が集まって, イスが足りるかどうか知るには, 皆が坐ってみればわかります。人とイスで余った方が多くて, どちらも余らなければ, 人とイスの数は等しいわけです。このことを調べるために, 坐らずに人とイスの数を数えてもいいのですが, 何だか大げさなことをするようだし, 私には, 坐って余りを調べる方が賢くてスマートな方法に思えます。何かを知るために, 不要にむずかしい概念を持ち出すことはないです。背比べをするのに, 2人の身長を測らなくても, 並んで頭の先の上下をくらべればすみます。イス坐りも背比べも, 数は使わないがとても論理的な操作を行って判断しており「数学的」といっていいと思います。
もっと正確な計算が必要な場合も, 大昔, 人は小石を使ったりしてたし, それが進化してそろばんとなり, 現代のコンピューターの半導体回路も「物を使った計算」の一種でしょう。 日本の折り紙は, 方程式を解いて作ったわけではないのに, きわめて論理的で数学的といえます。
と言ったわけで, 私のイメージする数学は, 一般に言われる数学よりも, だいぶ広いのです。だから, 紙工作でもとても数学的になることがあります。 私はカノーヴァンの別の企画 ワークショップ「アートとしての数学」
で紙工作をやってますが, 紙工作の技法をもっと系統的に聞きたければ, こちらの算術サロンの時間に来ていただいてもよいです。 6月17日(土)の予定特に決めてません。それで, ここには「大人への算数のすすめ」でも書いてみます。10年以上前のことですが, 当時40代?のお母さん 2人と, 小学校の算数を材料にして, 学習会をしていたことがあります。2桁の数の計算や分数小数の計算, などを, 子どもにわかるように話すにはということも念頭において, 考えていき, 月1回ペースで 2年ほども続きました。2桁のひきざんのくり下がりや, 分数の割り算の「ひっくり返してかける」理由など, 疑問に思っている人は多いでしょうが, 歴史なども調べるとおもしろいものです。2000年前の中国の数学書を見ると, 分数の割り算を「ひっくり返さずにやる方法」も書いてあるし, 我々の習った計算方法は, 長い歴史の中の一つでしかありません。古代エジプト人は, 九九を使わずに「2倍法」というかけざん法で掛け算してましたが, その原理は, 今のコンピューターの2進法にも通じる見事なものでした。世間では,計算なんて早く正解が出ることだけを目的にひたすら練習するものに思われていますが, こんなケチクサイ見方を離れて, 多様な計算方法を見比べることで, それぞれの方法の価値を相照らしだし, 諸文化の理解を深めることもできるのです。
また, 算数は, 決して小学校レベルだけの"低い数学"ではありません。たとえば, 2桁の数のかけざん方法のしくみを考えると, 中3や高1の展開計算と同じだとわかります。正比例の考え方は, 「線形性」の単純な例ですが, 線形性は代数や微分積分その他, 今の数学全体の基本的手法の一つだと思います。
誰か私と「算数を見なおす」相手をしてくれませんか ?
5月20日(土)の予定。「アルゴリズムと音楽」「アルゴリズム」という言葉は, もともとは数学問題を解く手順の意味だったと思いますが, 今は広く, 何かのしくみの手順の意味で使われていると思います。したがって, 「アルゴリズムによる音楽」とは, 何かの確定的な手順によって作曲されたり演奏されたりする音楽といった意味でしょう。参加者の1人と私自身の関心から, 「アルゴリズム音楽の歴史」について, 少し調べたいということになりました。私は数年前から, 作曲家の三輪眞弘さんの作品などから, アルゴリズムと音楽ということについて関心をもちはじめましたが, もうすこし歴史的に調べてみたいのです。「アルゴリズムと音楽」という話しは, 算術サロンにはマニアックすぎるかもしれませんが, こんなことに関心のある人もいるという紹介の意味もふくめて書いておきます。
アルゴリズムというと, 機械的で確定的で無機的な感じがして, それが音楽にもそのような感じをもたらす, と想像されるかもしれませんが, 決してそうとは限りません。たとえば, ふつうの音楽ではありませんが, 地球の公転自転が生み出すリズムを思い浮かべてください。1日1回地球がクルリとまわることで昼夜が生じ, しかも, その自転軸が, 23.4°傾いているおかげで春夏秋冬が生まれます。公転自転という, きわめて周期的で単調に見えるプロセスが, 地球という"なまもの"に働きかけつづけて, 地上の多彩さが生まれるのです。
私は, 部屋の中で体をクルクルまわしながら(自転), 大きくまわって(公転)みたことがあります。それに加えて, 23.4°の傾きをまねて, 頭を曲げ続けると,「地球の哀愁」さえ感じられてきました。
4月15日(土)予定。「コンピューターで使う数学」私は機械が嫌いだ。もっと正確に言うと, 「その機械のからくりやしくみが自分によくわからないようなものを使おうとしても, その機械に対して疎遠な感じが強いので, 使う気になれない」ということだ。実はこういう人は, 私だけでなく, 日本全国, 世界中にたくさんいるのではないだろうか ! ! 現代のように誰もが機械を使い, 実は誰もが機械に使われている時代に, 「機械なんて嫌いだー !!!!!!!!!!」と叫びたくなることがありながら声にもせずにいる人々は, 実は非常に多いのではないか ? と今思った。
パソコンを例に取ると, 私が「そのしくみがよくわからないので親しみにくいもの」は, ハードウェアや進化したソフトウェアであり, 逆に「そのしくみがだいたいは見えるので親しめるもの」はプログラミングである。たとえば, このようにWEBページを書くときも, 私はエディター(文章を書くだけのソフト)を使いHTML言語で書くだけであり, 多くの人が使っているらしいホームページビルダーやドリームウィーバーとかのソフトは便利なんだろうが使ってみようと思ったこともない。便利なものより原始的な方法が大好きなのだ。したがって, パソコンは私にとって, 半ば親しめて半ば親しめない機械であり, それでもこわれると困るので, なんとか仲良くつきあおうと思っている。もう3年ほど前からずっと, よくフリーズするし再起動する他ないこともよくあるし, この半年ほどは起動してから本調子になるまで 10分近くかかる。よくもっていると思う。「気持ちが通じていれば大丈夫」と聞いたので, 大切に思っていれば, こわれないでいてくれるだろう。
さて, 今の時代, コンピューターを,何かの設計や描画や音楽に使っている人はすごく多いが, 与えられた便利なソフトを使うだけのことに物足りないものを感じる人も少なくないのではないか。時々出てくる数学用語などを, およその意味だけでも知りたいと思うことはないだろうか。そんな動機から, 気になる分野だけでも, 数学について考えてみたい人は, ぜひ一度お越しください。
数学やプログラミングを知らなくても今の便利なソフトは使えるが, その便利さの裏に画一性や不自由さが隠れているかもしれない。コンピューターや数学にできることとできないことを知るために学ぶという行き方もある。機械に振りまわされずに本当の意味で機械を使えるようになり, 機械とコミュニケートさえできるつきあいかたはないのだろうか。
3月18日(土)予定。私は, 高校くらいまでの数学を人に教えることを仕事にしています。すると, 人からは, 数学が好きなんだろうとかお金の計算が早いとか碁や将棋や頭を使うゲームが好きだろうとか, 思われたり言われたりすることがありますが, ほとんど違います。お金の計算はめんどうだし, 暗算はおそいし, 頭脳的ゲームなんて疲れそうでやる気せず空の雲でもボーッとながめてるほうがいいです。そしてやっかいなのが「数学が好きなんでしょうね」という言われ方で, 「まあ」と口ごもるだけか,「好きです」と素直に言うか「嫌いです」と素直に言うか, その場の会話の状況次第で変わります。これについては一言で答えにくく, 文章で書くと長くなりそうですが少しだけ・・・・
"数"学というくらいですから, 「1, 2, 3, ・・・・ と数える」ことは数学に欠かせませんが, この「1, 2, 3, ・・・・ と数える」ことだけについても, 何やら味気なさや違和感を感じることがあります。また, 大昔, 人が数を数えることを知ったとき, 人々は"数"に文明の威力を感じるとともに, 禁忌(タブー)に触れるような感覚さえあったかもしれないと想像します。ちょうど今の人間がたとえば, クローン人間なんて作ってもいいんだろうかと危惧するのに似て。(参考→10まで数えられるこやぎ)
一方, 私は「数学が好き」なのも正直な思いです。一番の醍醐味と思える経験だけ言いますと, ほんの時たましかありませんが, 何かの発見にともなう感動です。私は数学の専門の研究者ではありませんが, 何かのテーマの問題で長い時間試行錯誤していて, あるときふっと展望が開けるように, こういうことだったのかと見えてくることがあります。宇宙的な感覚とでも言いたくなるものに触れる瞬間があります。
さて, 3/18に話そうかと思っていることは, 英語の名詞の数表現を調べることで, 数学の"数"の土俵がよくわかってくるだろう, ということです。関係したことを個体性の認識と数のはじまりに書きました。