牧 草
毎週の礼拝メッセージです。
| (エレミヤ18:1〜6) あの人が変われば 幸せになりたい。どうしたら幸せになれるのか。私たちはこう考える。金があれば幸せになれる。恋人ができれば幸せになれる。家庭の中では、うちの主人が変われば幸せになれる。妻が変われぱ、幸せになれる。子どもが変われぱ、幸せになれる。嫁が変われば幸せになれる。姑が変われば、幸せになれる。だが、石油、物価高騰の折、給料は増えないのに出費ぱかりが増え、金は一向に貯まらない。恋人は相変わらずできそうにない。夫や妻を変えよう、姑や上司を変えようと思っても、そんな容易く人は変わるものではない。人の心を変えるのはまことに至難のわざである。 このように幸福を自分の外に求めると、環境や周りの人たちに自分の幸せが依存しているため、いつまでも変わらない幸福感を味わうことがない。外の世界は自分の思い通りにはいかないのが世の常である。 しかし、外の世界は変えられなくても、白分を変えることはできる。いや、自分で自分を変えることはできないが、神によって自分を変えていただくことはできる。 陶器師である神 旧約聖書の『エレミヤ書』には、神が「陶器師」であり私たち人間が「粘土」であると、比喩的に神との人間との関係が描かれている。陶器師と粘土の間には絶対的な隔たりがある。それは造られるものと造るものの隔たりである。造るもの(陶器師)は造られるもの(粘土)に対して、完全なる主権を持っている。卑しい器にも尊い器にも造る権限を陶器師は持っている。粘土は”ああ造ってくれ”“こう作ってくれ”という権限を持っていない。 陶器師はろくろに粘土を乗せ、ろくろを回しながら器を作っていく。もし、気に入らなくなったら、それを白分の手でこわし、もとの粘土に戻して、一から作り直す。粘土は完全に陶器師の「手の中に」ある。 新約聖書『ローマ書』で使徒パウロは、救いは人間の努力によらず、神の選びによると述べている。神はご自分の意思のままに救われる者を選び出してくださった。私たち異邦人クリスチャンは、元来神から遠いものであり、その罪ゆえに、「滅ぼされるべき怒りの器」であったが、キリストの十字架のゆえに「あわれみの器」とされた者である。 応答次第 だれも神に逆らえない。すべてが神次第なら、神は絶対主権で、暴君のようであり、人間はロボットのようか。そうではない。神は無限の愛に満ちた天の父である。神の言葉に耳を優け、悔い改め、神の御子イエス・キリストを信じるなら、もう一度あなたという粘土をご自身の気に入った器に作り替えてくださる。 《黙想と適用》 あなたは自分が変えられていると思いますか。どうしたら変えられるのでしょう。 |