| (出エジプト記4:1〜5) クリスチャン キリスト信者のことをクリスチャンと呼ぶ。新約聖書の使徒行伝11章を見ると、シリヤのアンテオケにある教会で初めてイエスの弟子たちはクリスチャン(キリスト者)と呼ばれるようになった。 ある人が、クリスチャンになっても“苦しいちやん”になってしまってはいけませんと言ったが、とかくそうなりがちである。それはどういうことかというと、クリスチャンになると、酒は飲んではいけない、タバコも吸ってはいけない、あれはいけない、こうすべきだということになって、自分に数々のおきてを課して“クルシイチャン”になってしまうというのだ。そればかりではない、奉仕や伝道も義務やおきてになり、それを行なえない自分が苦しく“クルシイチャン”になってしまう。クリスチャンになる前の方が自由だった、クリスチャンにならなければよかったということになってしまうのだ。 どこが問題なのか。どうして“苦しいちやん”になってしまうのか。それは、よい行いを自分のカでしようとするからだ。救いはイエスを信じる信仰による。行いではない。ただ恵みによる。しかし、一且救われたら、あとはおきてによる。努力して善行に励むべし。そうなると、努力してもできないから、罪責となり、劣等感となる。これは恵みによって始めたものを律法によって完成しようとすることだ。クリスチャン生活とは「恵みから恵みへ」徹頭徹尾恵みによって生きることである。 何もないから 神がイスラエルの民を奴隷から解放するために選び遣わされたモーセは、失敗と挫折、荒野での四十年の羊飼いの生活を通して、八十歳になる今、自分には何もないことを痛感させられていた。かつてのエジプトでの栄華も富も名声も若さも力もない。自分が再びエジプトに行って何ができよう。人々は私を信じ、私の声に耳を傾けないだろう。そう告白したとき、神は「あなたの手にあるそれは何か。」と問われた。「杖です。」とモーセは答えた。モーセの手にあったもの、それは何の変哲もない一本の羊飼いの杖だけである。しかし、その杖が、ひとたび彼の手を離れて、神の手に握られたとき、それは蛇になった。それによってナイルを血に変え、紅海を分ける「神の杖」(出4:20)となったのである。 私の手には杖さえもないかもしれない。しかし、主はモーセの手によって数々の奇跡を行なわれたように、私の手をも神の超自然的なわざのために用いられる。主は「無に等しもの」(Iコリント1:28)をあえて選び、私たちのうちからキリストの輝きを出させてくださる。マザー・テレサは“私は一本の鉛筆に過ぎない、お書きになるのは主です。”と言った。 《黙想と適用》 あなたはよい行いを恵みによってしていますか。それともおきてと感じていますか。伝道や奉仕は喜びになっていますか。 |