4月20日「そばにいるしあわせ」(申命記30:11〜14)
(申命記30:11〜14)

しあわせになりたい

 聖アウグステフィヌスは、幸福追求の普遍性についてこう語った。すべての人は幸福を求める。自殺をする人でも、ほんとうは死にたいから死ぬのではない。しあわせを見つけられない。あるいはしあわせになりたいけど、それがかなわない。それどころか、かなわぬ人生がつらい。死んだほうが楽になれる。そう思って自殺する。従って彼も死の先に幸福を求めているのだと。
 先週の聖書研究祈祷会で「オタク文化」というテーマで話し合った。「オタク」とはマンガ、アニメ、ゲームなどに過度に熱中して、仮想現実の世界にはまり非杜会的になる現象を言うのだそうだ。現実にしあわせがなく、将来にも悲観的で、孤独で自分の世界に閉じこもりがちな青年男女、壮年までもが、仮想現実の世界に逃避し、そこにしあわせを求める。倒錯した性やオカノレト、偶像礼拝、戦争や残虐行為が仮想現実の中で行なわれ、次第に現実と区別できなくなり、不道徳や犯罪行為に陥るのだ。そこにサタンの深みがあり罠が潜んでいることがわからず、悲惨な結末を刈り取る。ほんとうのしあわせは、オタクにはない。現実、あなたのすぐそばにある。

そばにあることば

 旧約聖書の『申命記』には、神のことば(命令)がすぐ身近にあることを告げている。人はどうして孤独なのか。生きる意味がわからないのか。しあわせがわからず、実感できないのか。それは「神のことば」から離れているからだ。イエスは『申命記』8章3節のことぱを引用して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言っておられる(マタイ4:4)。人間の自由は、神のことばという規範があってこそ、ほんとうに自由なのだ。規範のない自由奔放ほど不自由なものはない。真に幸いな人とは、「主の教えを喜ぴとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」(詩篇1:1,2)人である。主の「教え」・神のことばを、いまここで、口ずさみ、心にとめ、これをおこなうことができる。そこに現実に、天来のしあわせが宿る。

そばにある救い

 新約聖書の『ローマ書』には、『申命記』30章14節のことぱを引用して、神の救いの使信のことぱが「あなたの近くにある」ことが述べられている。イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ三日目によみがえったこと、このお方を救い主と信じるならみな救われるという福音のことばは決して遠くにあるのではない。教会を通して伝えられ、信じる者の口にあり、心にある。イエスを主と告白し、イエスの復活を信じるなら、救いはだれにも、いま、現実に与えられる。救いは遠くにあるのではなく、すぐそばにある。天国は宇宙のかなたにあるのではなく、すぐそぱにある。信じる者のうちにある。「神の国は、あなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)のだ。

《黙想と適用》

 あなたは、しあわせは遠くにあると思っていませんか。しあわせとは何ですか。その扉はどうしたら開けられるのでしょうか。