4月13日「子どものように」(マルコ10:13〜16)
(マルコ10:13〜16)

子どもを祝福する

 よく、年をとると“子どもがえり”をするという。若い頃や壮年の時には、いろいろ理屈を言っていた者が、年をとるに従って単純に素直になる。年をとると、人生の苦楽をなめっくした後だから、“大切なことは単純なことだ”と悟るのである。子どもの頃山や川で遊んだことが、こよなく貴重なものに思えてくる。
 今年二月に天に召された大町レイ姉は七十歳を越えてから信仰を持たれた。しかしその信仰は幼子のように単純・純粋だった。ひ孫さんがこの教会で献児式をされたとき満面の笑みを浮かべておられた。きょうもひ孫さんの献児式である。天でも喜びがあることだろう。
 イエス・キリストは、子どもを決して半人前の人間のように考えなかった。子どもはうるさい、あっちえいけ、という態度を弟子たちが取ったとき、イエスは「憤った」のだ。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」と強く命じられた。子どもがイエスのもとに来ることをイエスは無上の喜びとなさるのだ。イエスは子どもを抱き、手を置き、祝福される。神とは、このようなお方なのだ。

神の国の模範

 イエスは「神の国はこのような者たちのものです。」「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」と言われた。おとなの心は「かたくな」(マルコ10:5)である。だが子どもの心は純真であり素直である。おとなの心は計算高く疑い深い。子どもの心は単純であり信じやすい。おとなは、神の国に入るためには、あれこれと功徳を積む必要があると考える。子どもはもとから功徳などない。裸一貫である。
 ひとりの青年がイエスのもとに来て、永遠のいのちを得るにはどうしたらよいかと尋ねた。イエス「姦淫するな、盗むな、偽証するな、歎くな、父母を敬え」と言われると、その青年は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と言った。するとイエスは「あなたに欠けたことが一つあります。」と言われ、彼の財産を売り払って貧しい者に施し、イエスについて来るよう言われたのである。すると、この青年は「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。」という。彼は財産家だったからだ。(マルコ10:17〜22)
 この出来事の意味は、神の国は功徳で勝ち取るものではなく、無償で与えられるものだということである。そうでなければ、みな「悲しみながら、立ち去る」以外にない。神は私たちの罪のためにキリストを十字架に付け、まことの愛を示してくださった。この事実を子どものように単純に信じ受け入れること。そうすれば神の国は今私のものになるのだ。「かたくな」な心を砕かれ、自分に頼まず、ただイエスの御腕に抱かれよ。それが救いの極意である。

《黙想と適用》
 ヨハネ3:1〜5を読んで、マルコ10:13〜16と比較してみましょう。